日本史好きのブログ

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【平盛綱】大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場!鶴丸時代から北条泰時を支え続けた忠臣の実像に迫る

平清盛



平盛綱は平家の末裔って本当?

 

平盛綱は、平安時代末〜鎌倉時代初期頃に精を受けたと推察されます。

父親らしき人物については、諸説あります。

 

尊卑分脈』では、平資盛の子として記載。『系図纂要』ではその曾孫となっていました。

 

 

 

 

 

平盛綱の父・平資盛の人生

 

平資盛は、平家の棟梁・平清盛の嫡男である平重盛の次男にあたる人物です。資盛の母方は藤原親盛の娘でした。

資盛は後白河法皇の信頼を獲得。院近臣として近衛少将などの要職を歴任していました。

 

しかし嫡流に近い資盛には、不遇の時代が続きます。

治承31179)年に父・重盛が、養和元(1181)年に祖父・清盛が病没。資盛は最大の庇護者を失ってしまいます。

これ以降は、資盛の叔父・平宗盛が平家の棟梁に就任。資盛は宗盛らの後塵を拝す位置に甘んじることとなります。

 

寿永21183)年、平家は木曽義仲に敗北。一門は都落ちして、西国に下るという結果に陥ります。

このとき、資盛は仕えていた後白河法皇に救いを求めます。しかし拒絶されたため、会えなく都落ちに従います。

 

その後、資盛は三草山の戦いや藤戸の戦いに出陣。源氏の源範頼義経らと戦います。

しかし元暦21185)年3月、平家は壇ノ浦の戦いで敗北。資盛は一門と共に入水して果てました。享年は25歳と言われます。

 

 

 

平盛綱の名前に隠された秘密とは?

 

盛綱の名前を見て、何か気づきませんか?

そうです。諱の中に「盛」の一字が与えられていますよね。この「盛」は、平家の通り字(一族の中で受け継がれる特定の文字)でもありました。

 

諱は通常、通り字と偏諱で構成されています。実際に以下にいくつか時代は違いますが、例示してみますね。

 

例)

執権北条氏の場合

  • 時(執権北条氏の通り字)+政(偏諱)=時政(初代執権)
  • 義(偏諱)+時(執権北条氏の通り字)=義時(2代執権)
  • 泰(偏諱)+時(執権北条氏の通り字)=泰時(3代執権)

 

 

畠山家の場合

  • 重(畠山家の通り字)+忠(偏諱)=重忠
  • 重(畠山家の通り字)+保(偏諱)=重保

 

 

織田信長の場合

 

豊臣家の場合

  • 秀(豊臣家の通り字)+吉(偏諱)=秀吉
  • 秀(豊臣家の通り字)+次(偏諱)=秀次(秀吉の養子)
  • 秀(豊臣家の通り字)+頼(偏諱)=秀頼(秀吉の嫡男)

 

徳川将軍家の場合

 

 

偏諱は烏帽子親や主君からの拝領などが主だったと考えられます。その際、諱の決定にはあるルールがありました。

それが諱の第1字目が家格が上の方、諱の第2字目が家格が下の方となるという決まりです(時代が降るにつれてより顕著)。

 

例)北条義時の場合

  • 第一字は偏諱であるが、家格が上の家の人間が烏帽子親になったと推察されます。おそらくは三浦義澄か三浦義明であろうと考えられます。

 

  • 第二字は北条氏の通り字です。しかし義時が元服した時点で、家格は北条氏の方が烏帽子親より下だったと考えられます。

 

 

話が長くなりましたが、ここから何が言えるかという話です。

平盛綱の場合、その諱からどういう元服と名前の付け方がされたかが見えてきます。

 

 

平(平氏の姓。苗字とは別)+盛(平家の通り字)+綱(偏諱と考えられる)

 

  • 平安時代末〜鎌倉時代初期は、姓から苗字を名乗る過渡期でもありました。それまで平や源を称していた家も、苗字を名乗り始めていきます。

 

  • 平家の通り字であり、家督相続権がある人間だと位置付けています。しかも第1字目なので、当時の盛綱が偏諱側の人間より家格が上だったことは確実でしょう。

 

  • 偏諱ですが、おそらくは鎌倉の御家人である宇都宮業綱(うつのみやなりつな)か、その子・宇都宮頼綱かと考えられます。

宇都宮氏は、平忠正(清盛の叔父)との繋がりが強い集団でした。業綱は平忠正の娘を正室に迎え、間に生まれたのが頼綱です。

さらに、業綱の先代である宇都宮朝綱は、源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめたほどの武将でした(完全なる推測です。すいません…)。

 

北条氏が信頼する盛綱の元服にあたり、便宜を図った可能性は十分にあります。

 

 

 

平盛綱の北条氏に捧げた人生

 

大河ドラマ鎌倉殿の13』では、平盛綱の幼少期の名前は鶴丸として表記されています。北条義時や泰時の信頼も厚く、北条氏を支える存在として認識されていました。

 

実際、平盛綱は北条氏や鎌倉幕府の内部で順調に出世していきます。

盛綱は北条氏の家司(けいし)として出仕。主家の家政を担当する役職として歩み始めます。

このとき、執権北条氏は侍所の別当(長官)を補任。補佐役である侍所所司(副官)となったのが盛綱でした。

 

大河ドラマを見ている方はご存知かとは思いますが、侍所別当や所司は和田義盛梶原景時がかつて就任した役職です。

北条氏が御家人たちを統率する立場であり、実務を担ったのが盛綱でした。

 

幕府の要職に起用される以上、盛綱も御家人(あるいはそれに準じる立場)に補任されていたことは確実かと考えられます。

 

北条氏の庇護の下、盛綱は実務家として活躍していきました。

承久31221)年、承久の乱が勃発。盛綱は義時の子・北条泰時の先発隊18騎の一員として出陣します。

盛綱が泰時の身辺にあり、常に北条氏のために動いていたことを窺わせるエピソードですね。

 

しかし貞応31224)年、小四郎こと北条義時が病没。泰時の身辺はにわかに物々しくなります。

義時の後室・伊賀の方大河ドラマでは「のえ」)が、自分の産んだ北条政村に次の北条氏家督を相続させようと画策していました。

伊賀の方は兄・伊賀光宗らを引き込み、三浦義村にも接近。泰時の家督相続を脅かします。

 

このときに活躍したのが、平盛綱でした。盛綱は伊賀氏の変の鎮圧に参加して、見事な働きを収めたと伝わります。

事件後、伊賀の方らは粛清。3代執権には北条泰時が無事に就任することが出来ました。

 

盛綱は以降も泰時の腹心として活動していきます。

元仁元(1224)年には北条氏の家法を制定。貞永元(1232)年の御成敗式目制定においても奉行職を務めるなど、政治への関わりを密接にしていきました。

 

御成敗式目は、武士による法の支配を目指したものです。

近代的な発想においては、北条氏のみならず盛綱の意向も多分に盛り込まれていました。

 

文暦元(1234)年、盛綱は北条氏の家令に就任。以降も北条氏と泰時を支え続けました。

 

しかし仁治31242)年、泰時が病没。悲しんだ盛綱は出家して政治の表舞台から姿を消します。

彼の生き方には、あくまで北条氏や泰時に対する思いが中心に据えられていたのではないでしょうか。

 

以降の盛綱は法名を盛阿と名乗り、建長21250)年までにはすでに亡くなっていたようです。

盛綱の子孫は、その後内管領の長崎氏として北条氏を支え続けていきます。

孫の平頼綱北条時宗に出仕。長崎円喜鎌倉幕府滅亡まで北条氏の下にあって政治に関わっていました。

 

 

 

 

【参考文献】

 

平盛綱コトバンク HPhttps://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E7%B6%B1-1086832