日本史好きのブログ

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【横山時兼】孤軍奮闘する和田義盛を救った鎌倉武士!公卿・小野篁の子孫にして、武蔵国の武士団の頭目

 

 

横山の苗字の由来は多摩丘陵だと伝わる。画像出展:Wikipedia

『鎌倉殿の13人』を見ていたら、ちょうど和田義盛の挙兵に関するシーンでした。和田合戦では、西相模の御家人たちが義盛に付くか付かないか、という話をしていたと思います。

 

実際は大江広元らが将軍の御教書を掲げて幕府側(実際は北条氏側だけどね)に付かせます。

 

でも、このとき不利な情勢の和田義盛に味方した御家人がいたことも忘れてはいけません。今日は横山時兼について触れていきましょう。

 

 

武蔵国の大武士団・横山一族に生まれる

 

仁平31153)年、横山時兼武蔵国武家である横山時広の長男として生を受けました。

横山は本貫地とした横山荘に由来する苗字です。横山一族の本姓(源や平)は「小野」でした。

本姓から苗字への過渡期である時代でもあり、横山時兼は「小野時兼(おののときかね)」とも呼ばれます。

 

横山一族(党)は、武蔵国多摩郡にある横山荘を拠点とする武士集団でした。一族の起源は小野篁まで遡るとされています。

所領は横山荘から武蔵国相模国北部にも浸透。武蔵七党にも数えられた武士団です。

祖父・小野孝泰の代に関東に下向。義孝は従五位上・武蔵守(武蔵国の長官国司)に叙任され、武蔵国を代表する武士団頭目となります。

父・義孝も武蔵権守(むさしごんのかみ:武蔵国における定員外の長官国司)となるなど、横山党は武蔵国を率いる立場として活動していました

 

横山氏の祖とされる小野篁従三位まで昇り、国政で活躍した。



 

 

横山時兼の名前に隠された秘密とは?

時兼はどのような武士だったのでしょうか。実際にその名前から考察してみましょう。

当時の武家の男子は、数え年1216歳(満年齢で1115歳)で元服するのが通例でした。そのとき幼名(○○丸など)から諱(時兼)を貰います。

では数え年が12歳となる(1164)年「時兼」という名前はどのように決定されたのでしょうか。

 

・時横山氏の通り字(一族の人間が受け継ぐ特定の文字)です。父・時広からもらった一字であり、家督相続者としての一字でもありました。

 

・兼偏諱にあたります。おそらくは烏帽子親から拝領した一字でしょう。下の方に位置していることから、家格が下の人間からもらったと推察されます。叔父の海老名重兼が烏帽子親となり、偏諱を受けた可能性が考えられますね。

元服のときに与えられた烏帽子。このときから通称と諱を名乗るようになる。



 

 

横山時兼、源頼朝から厚い信任を受ける

 

時兼が歴史の表舞台に登場したのは、源平合戦前後のことでした。

治承41180)年、源頼朝伊豆国において挙兵。打倒平家を掲げて立ち上がります。

頼朝は石橋山の戦いで大敗。しかし逃れた後、上総介広常らの助力を得て鎌倉入りを果たし、見事に坂東に一大勢力を築き上げます。

時兼ら横山党もこの前後に頼朝に出仕。坂東を代表する武士団の一つとして重用されていきます。

 

寿永元(1182)年8月には、源頼家(頼朝の長男)が誕生。時兼は梶原景季梶原景時の嫡男)や畠山重忠と並び、刀を献上しています。特に頼朝から信頼を受けていたことがわかります。

その後も有力御家人の一人として活躍。源平合戦奥州合戦にも随行しており、頼朝の上洛にも供奉することを許されていました。

 

建久101199)年、頼朝が病没。鎌倉幕府は二代鎌倉殿・頼家の元で宿老13人による合議制が敷かれていきます。

しかし頼朝の死後も時兼は幕府で重用。正治21200)年には淡路国の守護を拝命しています。

初代鎌倉殿こと源頼朝。時兼を厚く信頼して重用した。



 

 

和田義盛は横山時兼の義理の叔父?横山一族と和田一族の関係とは?

横山氏は梶原氏や和田氏と婚姻関係を締結し、結びつきを強めていました。

婚姻政策の駆使は、平安末期までは武士団の在り方として有効に機能していたかもしれません。

ところが頼朝死後には、合議制の宿老らによる権力争いが激化。梶原景時比企能員が北条氏によって排除されていきます。

頼家も出家に追い込まれますが、のちに北条氏によって謀殺。三代鎌倉殿には、源実朝が就くこととなりました。

牧氏の変で北条時政が失脚すると、北条義時が政治の主導権を獲得。御家人たちの多くは不満を募らせていきます。

 

建暦31213)年2月になると、時兼らを揺るがす事件が起きます。

信濃御家人泉親衡による北条義時暗殺計画が露見。計画には侍所別当(長官)・和田義盛の息子・和田義直らも関与していました。

和田義盛の側室は、時兼の叔母にあたります。加えて和田常盛(義盛の嫡男)の妻は、時兼の妹でした。

時兼ら横山一族は和田一族と結びつきが極めて強く、それだけに影響も大きなものだったようです。

 

事件後、北条義時和田義盛に挑発を開始。挙兵に追い込んで滅ぼすことを計画します。

先の泉親衡の乱に関与した科で、義盛の甥・和田胤長流罪に決定。陸奥国岩瀬郡に配流となりました。

52日、義盛はこの処置に激怒して一族を招集。150騎を集めて将軍御所を襲撃に及びました。世にいう和田合戦です。

時兼の義理の叔父・和田義盛。侍所別当を務めた。



 

 

横山時兼、和田義盛らの挙兵に援軍として赴く

和田合戦の勃発は、時兼の運命をも変えました。

決起した和田一族の兵はわずか150ですから、決して多いとは言えない人数です。

しかし和田義盛らの軍勢は凄まじい勢いで進撃。北条義時邸と大江広元邸を蹂躙し、将軍のいる大倉御所を包囲します。

和田勢は一斉に攻め寄せて御所に放火。和田義盛らは北条義時三浦義村らを追い詰めます。

日没が迫ると和田勢は徐々に後退。一方で幕府軍の軍勢は次々と数を増やしていきます。

和田勢が由比ヶ浜に追い詰められると、そこにはわずかな兵しか残っていませんでした。

 

しかし3日になって、時兼率いる3000由比ヶ浜に到着。劣勢の和田勢の味方となって参戦します。

 

和田義盛は、形から言えば将軍に弓を引いています。加えて劣勢ですから、味方して負ければ滅亡以外ありません。

それでも時兼は和田義盛に味方すべく一族を挙げて参戦しています。そこに時兼の高潔で勇猛な人物像が見て取れますね(かっけえ)。

 

時兼の援軍を得た和田勢は、再び活力を得ます。同時に横山一族3000騎の参戦により、相模や伊豆の御家人らは幕府か和田勢どちらに付くか迷っていました。

ここで大江広元は、実朝に和田勢鎮圧の御教書(命令文書)を作成を上申。相模の御家人らを幕府方に付けてしまいます。

 

時兼らの軍勢は再び鎌倉の市街地に進撃。激戦を繰り広げますが、少しずつ兵力を減じていきました。

同日酉の刻(18時ごろ)、和田義盛らが相次いで討死。時兼は囲みを突破して甲斐国へと逃れました。

しかしもはやここまでと時兼は悟っていました。

54日、時兼は義弟である和田常盛らと共に落ち延びた都留郡波加利荘で自刃。享年61歳。戦後に横山一族は滅亡し、横山荘は大江広元に与えられました。

 

しかし横山一族が全て歴史の表舞台から姿を消したわけではありません。

のちに横山一族出身の中条家長評定衆に抜擢。御成敗式目の制定に関わるなど、その事跡を今に伝えています。

時兼が加わった和田合戦。華々しい活躍は伝説となった。