建暦3年の地震(天変地妖)の勃発!
『鎌倉殿の13人』もいよいよ佳境。和田合戦の勃発と鎮圧により、ますます北条氏の権勢が強まるかと思えました。
しかし、和田合戦の終結後間も無く地震が発生。時に建暦3(1213)年5月21日のことでした。
和田合戦が同月の2・3日ですから、半月ほどしか経過していません。
吾妻鏡では次のように伝えています。
「午剋大地震。有音舎屋破壊、山崩地裂。於此境近代無如此大動云々。而廿五日内、可有兵動之由、陰陽道勘申之」
→午の刻(うまのこく:午前11時〜午後1時)に大地震が起きた。家屋敷が音を立てて壊れ、山崩れや地割れが発生している。
最近はこの近くで大きな地震はなかったと言う。陰陽師は、25日以内に兵乱が起きるだろうと上申した。
幕府に睨まれた御家人!処刑か助命か?その結末とは!?
当時の日本には、科学的な観点から地震を分析する人間は皆無です(当然ちゃあ当然ですが…)。
地震などの災害は、それ自体が吉凶を予感させるものと考えられていました。
実際にこの地震の後、幕府は地震を防ぐために翌6月3日に祈祷を行わせています。祈祷は人々の安心材料でもあったのでしょうね(知らんけど)。
しかし6月12日に事件が起きます。
流言飛語が飛び交ったらしく、御家人たちが武装して将軍御所に馳せ参じてきました。
人々の心が不安定であり、武家である御家人たちも未来に対して恐れを抱いていたことがわかりますね。
25日には御家人・広沢実高が所領の備後国三谷郡から鎌倉に帰還(タイミングに最悪です…実高さん、気の毒に…)。
ここであろうことか「実高が和田義盛の一党であった」と幕府に讒言をする者が出ました(『鎌倉殿の13人』の中なら、この後ほぼやられます)。
当然、実高は自分は関係がないことを抗弁。疑いを晴らすべく幕府に申し立てて認められました(よかったね、実高さん)。
鎌倉の御家人でさえ動揺していましたから、民衆に至ってはどれほど不安を抱えていたか想像できますね。
陰陽師の発言て怖いなぁ、て個人的には思います。下手すれば実高さんの家も断絶の上、所領没収でしたからね。