日本史好きのブログ

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【三浦光村(駒若丸)の妻】夫婦の出会いと悲しい別れの物語に迫る!

三浦光村の妻は『吾妻鏡』として絶世の美女と言わしめたほどであった。



 

三浦光村の妻、その前歴〜北面武士・藤原能茂の娘として生まれる〜

後鳥羽上皇に寵愛された北面の武士・藤原能茂の娘として生を受ける

 

駒若丸こと三浦光村は、正室藤原能茂(ふじわらのよしもち)の娘を迎えていました。まずは藤原能茂について紹介していきましょう。

 

藤原能茂は、後鳥羽上皇に仕えた人物です。

能茂は藤原氏出身でありながら、北面武士(ほくめんのぶし:上皇の護衛)として出仕。元服前から後鳥羽上皇の親衛隊として活動していました。

 

娘である三浦光村の妻について、吾妻鏡では「絶世の美女」として形容しています。その父親である能茂も相当な美男子であったことは想像に難くありません。

 

後鳥羽上皇は、そんな能茂に対して特別に目をかけます。一緒に蹴鞠をしたり、荘園を与えるなど側近の中で特に厚遇していました。

 

藤原氏出身であることに加え、後鳥羽上皇から信任を受けていたことで、能茂の将来は約束されたものだったのです。

しかし能茂の置かれた環境は、時代の趨勢によって一変します。

 

北面武士上皇の親衛隊であり、直属の軍事力であった。

 

承久の乱後、能茂は出家して西蓮を名乗る

 

承久31221)年、京方の後鳥羽上皇鎌倉幕府執権・北条義時を討つべく院宣を発出。鎌倉方の武士たちとの間で承久の乱が勃発しました。

このとき、おそらくは能茂も北面武士として京方の一員として参加したと考えられます。

ところが京方は鎌倉方に大敗。主戦派に付いた京方の武士たちはあらかた自害、あるいは処刑されてしまいます。

首謀者である後鳥羽上皇隠岐国への配流が決定。その時、後鳥羽上皇が希望したのが藤原能茂との面会でした。

 

京方に付いたことからでしょうか、能茂は剃髪して出家。僧名を「西蓮」と名乗っていました。

後鳥羽上皇は能茂を見て出家を決意。やがて隠岐国へ流されていきました。

 

隠岐島に流された後鳥羽上皇は、京にいる能茂に歌を送ります。

「都より 吹きくる風も なきものを 沖うつ波ぞ 常に問いける」

 

能茂は後鳥羽上皇に対して返歌を認めます。

「すず鴨の 身とも我こそ 成らぬらめ 波の上にて 夜を過ごすかな」

 

『鎌倉殿の13人』の中に、源実朝北条泰時の歌や返歌のやり取りをするワンシーンがありましたね。通常、返歌は贈られた歌に対してのものです。そこには特別な間柄を感じさせる何かがありますね。

 

延応元(1239)年220日、後鳥羽上皇隠岐島崩御。遺体は能茂によって火葬されます。

能茂は後鳥羽上皇の遺骨を守って帰京。後鳥羽上皇のいた水無瀬離宮の隣に西蓮寺を建て、後鳥羽上皇の菩提を弔いました。

 

後鳥羽上皇は、藤原能茂を厚く信頼していた。



宝治合戦勃発!三浦光村とその妻は互いに小袖を交換して別れを告げる

三浦光村とその妻の出会い

 

さて肝心の三浦光村と、その妻の出会いについて触れていきましょう。

承久の乱では、京方の中心人物として三浦胤義が活動。胤義は三浦義村の弟で、光村にとっては叔父にあたります。

同じく京方中心人物の藤原秀康には、和田氏(三浦氏の一族)の血が流れているなど、三浦氏と京方との繋がりは非常に強いものでした。

 

元久元(1205)年に三浦光村は出生。当時の武家の男子の元服は数え年で1116歳(満年齢で1115歳)です。

通常は建保41216)年に元服してもおかしくはありません。しかし光村は三男(四男とも)であったため、嫡男ではなく元服が遅れた可能性があります。実際、この年は駒若丸と名乗っていたことが確認されています。

 

建保71219)年、仕えていた公暁が将軍・源実朝を暗殺。その後公暁も命を奪われてしまいました。おそらくこの後、元服して光村と名乗ったと推測されます。

 

 

承久31221)年、承久の乱が勃発。京方は鎌倉方に敗れ、後鳥羽上皇隠岐国へ流されてしまいました。

承久の乱の年、光村はまだ16歳(数え年)の若者です。おそらくはこれ以降に妻である藤原能茂の娘と出会ったと推察されます。

乱後に藤原能茂は出家しており、後鳥羽上皇に近い立場から鎌倉幕府からも警戒されていたはずです。

その娘を妻に娶ることは、光村にとって執権北条氏らから疑いの目を持たれることになります。

しかし光村はそんなことは気にせず、藤原能茂の娘を正室に迎え入れ、仲睦まじく暮らしていました。

 

三浦光村の妻(藤原能茂の娘)に関しては、史料がないので確かな年齢は分かりません。しかし光村とおそらく同年代か、いくらか若い年齢だとは推測されます。

光村は任務で京を訪れこともあったため、二人は順調に愛を育んでいったようです。

鎌倉幕府3代将軍・源実朝。実朝の死によって、承久の乱が始まった。



 

光村の妻、嫡男・駒王丸に恵まれる

 

結婚した光村と妻との間には嫡男・駒王丸が生まれ、二人は幸せな家庭を築いていました。

 

しかし鎌倉幕府の内部では、勢力争いが激化の一途を辿りつつありました。

仁治31242)年に、3代執権・北条泰時が病没。泰時の嫡孫・北条経時が執権となります。

その経時も寛元41246)年にわずか22歳で病没。5代執権に経時の弟である北条時頼(ほうじょうときより:時宗の父)が就任するなど、北条得宗家は揺るぎつつありました。

 

当時の鎌倉幕府は、執権と連署(執権の補佐役)、及び11人の評定衆によって意思決定がされていました。

 

ところが時頼が執権に就任した時には、三浦泰村(光村の兄)が評定衆の一人として北条氏と対立。火種が燻っていました。

かつて鎌倉幕府創立に尽力した三浦氏は、北条氏と並び立つほどに強大化。幕府を二分するほどの存在となっていたのです。

 

さらに光村は苦しい立場に立たされていました。

時頼の執権就任後、光村の烏帽子親である北条氏の庶流である名越光時が挙兵を計画。事前に察知されて隠居に追い込まれるという事件が起きます。世にいう宮騒動です。

当時の鎌倉幕府4代将軍・九条頼経は事件に絡んで追放。事件には光村も関与していましたが、許されて罪を問われませんでした。

光村は京に護送される頼経の警護を担当。涙にくれながら「再び鎌倉の将軍に致します」と頼経に誓ったとされます。

光村はその後、護送先の京で九条道家と接近。次第に北条氏に危険視されていくのです。

鎌倉幕府5代執権・北条時頼。光村ら三浦氏との対立は激化していく…



 

 

宝治合戦と小袖の交換をしての別れ

 

宮騒動の鎮圧後、鎌倉幕府の内部では北条氏と三浦氏が反目していきます。

光村は5代将軍・九条頼嗣(頼経の子)と接近。より反北条氏の姿勢を鮮明にしていました。

 

執権・北条時頼は穏健な路線を堅持しており、三浦氏との妥協案を探り続けていました。対して三浦泰村も和睦を結ぶべく考えていたようです。

しかし光村は違いました。あくまでで武力挙兵によって北条氏を打倒すべしと兄・泰村に進言します。

 

宝治元(1247)年6月、執権に近い安達景盛らが三浦氏に攻撃。鎌倉を二分する争いが始まりました。世にいう宝治合戦の始まりです。

光村は陣頭で戦いますが、泰村はあくまで和平を望んでいました。

戦況は北条氏側が有利なままに推移。それでも三浦氏の惣領・泰村は挙兵に慎重なままでした。

 

光村はこの事態に後悔を無念さを滲ませています。そして光村の妻と互いの小袖を交換し、最後の別れを告げました。

少しずつ三浦勢は追い詰められ、源頼朝墓所がある法華堂まで追い詰められます。

光村は自分の首が北条氏に取られることを嫌い、刀を抜いて自らの顔を切り刻みました。

そのまま光村は兄・泰村、郎党らと法華堂に火を放って自害。43年の生涯を閉じました。

 

戦後、三浦氏の縁者らは幕府から事情聴取を受けています。その中には光村の妻の姿もありました。

光村の妻は小袖のことを涙を流しながら話します。小袖には夫の匂いがまだ残っていると話していたそうです。

 

光村の子供たちは、そこからどうなったのでしょうか。

嫡男・駒王丸は宝治合戦によって死亡。妻のお腹の中には光村の子が宿っており、程なく生まれたと推察されます。

その後、三浦一族の生き残りは鎌倉から追放されました。

しかし光村の妻や生まれた子については、詳細なことはわかっていません。京に戻ったのか、それともどこか別の地で暮らしたのか。

確かなことは、光村が妻と子供たちを愛し、そして自らが信じた道に殉じたということだけです。

 

三浦光村とその妻の物語は悲劇的な結末であった…

 

 

 

 

○参考文献

 

 

  • 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史:その発祥から江戸期まで』 新人物往来社 2007