佐竹義政は東国でも指折りの源氏の名門であった。 |
常陸源氏・佐竹義政、未来の棟梁ながら平家と接近する
平清盛。佐竹氏と早い時期から関係を結んでいた。 |
佐竹義政、常陸源氏と常陸平氏の血を受けて誕生する
佐竹義政、常陸源氏の武士団・佐竹一族に生まれる
佐竹義政は、佐竹氏第2代当主・佐竹隆義の長男として常陸国(現在の茨城県)で生を受けました。生母は近隣の豪族・戸村能通の娘と考えられます。
まずは義政のルーツである佐竹氏について見ていきましょう。
佐竹氏は武士の名門・源氏に連なり常陸源氏の中心となった武士団です。
義政の祖父・源昌義が常陸国久慈郡佐竹郷太田(現在の常陸太田市)に土着。伝承では保延6(1140)年に苗字を佐竹としたことが始まりのようです。
佐竹氏が勢力を伸ばすきっかけとなったのが、甲斐源氏など他の源氏一族と違った異質な外交方針でした。
常陸国は親王任国(長官国司が皇族の国。現地に赴任しない)であり、その下の国司たちが国を纏めていました。
佐竹義政は源氏と平氏のハイブリッド!
※国司の階級と役職
階級 |
長官(カミ) |
次官(スケ) |
判官(ジョウ) |
主典(サカン) |
役職名 |
○○守(〇〇のかみ) |
〇〇介(〇〇のすけ) |
〇〇掾(〇〇のじょう) |
〇〇目(〇〇のさかん) |
判官にあたる大掾(ダイジョウ)は在地の勢力である常陸平氏の一族・吉田氏が世襲していたと伝わります。
しかし佐竹氏は常陸源氏でありながら、平氏である吉田氏と婚姻関係を締結。常陸国内部で、源氏と平氏の結びつきを強固なものとしました(戦略的ですね)。
佐竹義政の伯父・忠義は常陸平氏の有力な一族・吉田氏が断絶すると同氏を継承。これによって平氏の力も取り込んだ可能性があります。
いわばこの時点において、佐竹氏と将来の当主となる佐竹義政は事実上、常陸国の武士団の棟梁ともいうべき存在でした。
佐竹義政と平清盛との出会い
常陸国の武士団のリーダーとなった義政ですが、決して驕り高ぶることはありません。むしろ自らの足場を固めるべく、あるいは勢力を増すべく活発に行動していきます。
義政が行きた平安時代の後期から末期は、まだ武士の身分がそれほど高くはありませんでした。
官位や仕事も朝廷の番犬というのが正しく、国家の運営はおろか政治に携わることさえ困難な状態だったようです(大変だったんだな、武士…)。
その中で台頭してきたのが、伊勢平氏の一派(のちの平家)を率いる平清盛でした。
保元元(1156)年、京において皇位継承問題を巡る保元の乱が勃発。後白河天皇方と崇徳上皇方はそれぞれ武士たちを糾合し、武力衝突の構えを見せました。
このとき、佐竹義政は父・隆義とともに平清盛のもとで後白河天皇方に従軍。勝利に貢献してます。
佐竹義政と源義朝ら坂東武者との死闘
源義朝。坂東に勢力を伸ばした。 |
佐竹義政と坂東武士団との関係
佐竹氏は常陸源氏でありながら、常陸平氏とも血縁や婚姻関係にありました。常陸国を率いる武士団として、源氏や平氏双方と繋がりを持つ得意な存在だったのです。
しかし何故、中央政界で平清盛に接近したのでしょうか?
それには坂東において、佐竹氏が直面していた危機と関係があったようなんですよ。
河内源氏の棟梁・源為義の長男に源義朝(源頼朝の父)という人物がいました。義朝は少年期から坂東に下向し、上総国の上総常澄(上総広常の父)や相模国の三浦義明(三浦義澄の父)らの後援を受けて勢力を拡張していました。
義朝は下総国の相馬御厨や相模国の大庭御厨に介入。南関東を中心に強大な武士団を組織しつつありました。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』や『平清盛』のオールスター軍団、という形ですね(源氏強そうだ…)。
「源義朝と佐竹義政がどう関係あるの」ですか?
南関東で強大化する源義朝の勢力は、いずれ常陸国にも及ぶ可能性は十分にありました。
義朝も保元の乱に後白河天皇方として参加。戦後に左馬頭と下野守の官位を与えられています。
左馬頭は左馬寮の長官職で、調停保有の馬の管理に当たる役職です。検非違使と同じく京の治安維持を担い、当時の武士には最高の職でした。
下野守は下野国(栃木県)の長官国司ですから、義朝が北関東において勢力を増すことを朝廷から認められたことを意味します。
義朝の勢力が常陸国に及べば、佐竹義政らの領地もどうなるかわからない状況でした。現に大庭御厨は義朝の介入後に義朝の家人と成り下がっています。
「いっそ平家と結んじゃおっか」と義政が思ったかどうかは定かではありません(そんな軽い感じじゃないでしょうけど)。しかしそう考えると色々と合点がいく気がしませんか?
佐竹義政の一族、常陸国に七郡を得る
やがて朝廷や地方にとって、国の在り方を変える大事件が勃発します。
当時の朝廷では、後白河上皇の院政派と二条天皇の親政派が対立を深めていました。
さらに院政派は、後白河上皇の寵臣である藤原信頼と信西の関係が悪化しており、政治的対立は深刻なものとなっていたようです。
藤原信頼は二条親政派閥と結び、源義朝らを動員。三条殿を襲撃して後白河上皇の身柄を幽閉し、信西を殺すという暴挙に出ました。世にいう平治の乱です。
当時、佐竹義政は父の隆義と共に京に滞在していたようです。しかし何か手出しが出来る状況ではありませんでした。
京で最大の軍事力を持つ平清盛は熊野詣に出ており留守にしています。加えて藤原信頼方は、上皇と天皇を擁して官軍となっていました。
しかし平清盛が帰京すると事態は一変します。
清盛は信頼に臣従するふりをして油断させ、一方で二条天皇親政派の切り崩しを行なっていました。
二条天皇と後白河上皇らは脱出して、清盛の本拠である六波羅に身を寄せます。この瞬間、清盛らは官軍となっていました。
佐竹義政ら大勢の武士たちも六波羅に集結。反対に藤原信頼や義朝方の武士たちもこぞって馳せ参じています。
義朝らは六波羅を目指して進撃しますが、六条河原で清盛方の大軍に敗北。信頼は捕縛後に処刑され、戦いは清盛方の勝利で幕を閉じました。
義朝は坂東を目指して落ち延びます。しかし逃亡の途中、尾張国で家人の裏切りによって命を落としました。
源義朝の敗死は、義政たちにとっても朗報でした。坂東における河内源氏の圧力が消えたことで、佐竹氏の領地が守られています。
加えて清盛は、佐竹義政らに常陸国の支配権を付与。佐竹氏に常陸国の奥七郡を与えています。
佐竹義政、源氏方の上総広常と交渉の席につく
上総広常。坂東随一の勢力を誇った。 |
佐竹義政は平家方として立場を堅持する
保元平治の乱の結果、佐竹氏は常陸国の支配権を盤石なものとしていました。
中央政界では平清盛が太政大臣に昇進。朝廷の実権を掌握し、日宋貿易を主導するなど活動の幅を広げていました。
平家一門は坂東を次々と知行国化。平家方の新興領主たちは、義朝の旧家人たちを圧迫していきます。
義政ら佐竹氏は平家一門に従属し、清盛らの存在感を後ろ盾として常陸国の支配を行なっていました。
しかしその日々は、呆気なく終わりを迎えます。
治承4(1180)年、以仁王(後白河法皇の第三皇子)が摂津源氏の棟梁・源頼政と挙兵。全国の源氏に平家打倒の令旨(親王の命令文書)を発して決起を促しました。
当然、佐竹氏は平家方である姿勢を堅持します。
これら挙兵の企みはすぐに露見し、以仁王と頼政は敗死。平家方の軍勢によって容易く鎮圧されました。
ところが伊豆国で義朝の子・源頼朝が挙兵。伊豆国の目代を討ち取ると、源氏の本拠地・鎌倉を目指して進軍を開始します。
やがて石橋山で敗れますが、房総半島に逃亡。上総広常らを味方に引き入れ、大軍勢となって鎌倉入りを果たしました。
頼朝の動きは、義政にとって悪夢のような出来事でした。
かつての源義朝と同じく、頼朝は坂東に支配権を拡大しようとしています。さらに佐竹氏は平家に近く、目をつけられる可能性は十分にありました。
義政は佐竹氏からは手を出さず、あくまで頼朝の鎌倉方の動きを注視していたようです。
「いずれ、京から平家の追討軍がやって来る」という希望的観測があったかどうかはわかりませんけど。
佐竹義政の抗戦と上総広常との交渉
鎌倉を制圧した頼朝らの動きは、目を見張るものがありました。
治承4(1180)年10月、頼朝は駿河国に進軍。甲斐源氏棟梁・武田信義らと合流して、平家の追討軍を待ち構えます。源氏方は4万、平家追討軍は7万ともいう大軍でした。
しかし平家方の追討軍は、坂東武者の精強ぶりを聞くと次々と脱落。富士川に着陣したときには、既に4000人ほどに減っていました。
そしてある夜、突如として平家軍は撤退。『吾妻鏡』によれば、水鳥の飛び交う音を奇襲を勘違いして逃げ去ったといいます。富士川の戦いは、こうして鎌倉方の勝利で終わりました。
頼朝は上洛して平家を滅ぼすことを望んでいました。しかし上総広常や三浦義澄らが反対します。常陸国の佐竹氏から背後を突かれることを恐れてのことでした。
平家の撤退は、鎌倉方の坂東の支配権を確定させるものでした。しかし佐竹氏単独で鎌倉方に抵抗できるはずもありません。
同年11月、鎌倉方は常陸国に進軍を開始。瞬く間に常陸国府は抑えられてしまいます。
しかしすぐに降伏することはできませんでした。このとき、佐竹氏当主である父・隆義は京で平家方に従っています。鎌倉方に降れば隆義の身の安全は保証できません。
弟の佐竹秀義ら佐竹氏の多くは本拠がある太田の金砂城に籠城。しかし義政は抵抗しても勝てないと踏んでいました。
幸いなことに、上総広常は義政の縁者にあたる人物でした。義政は広常を通じて、鎌倉方への帰順を願い出ます。
義政は国府から5kmほど北にある大谷橋で広常と面会。鎌倉方への帰順について話し合いを持ったようです。
しかし突如として広常が義政を襲撃。その場で義政は斬られたと伝わります。話し合いがこじれたのか、あるいは騙し討ちだったのか、定かではありません。
確かなことは、いずれ常陸源氏・佐竹氏を継承する立場であった義政が、一族を守ろうとして命を落としたということです。
程なく金砂城の秀義らは敗走。佐竹氏は鎌倉方に降伏し、新たな時代を生きていくこととなるのです。
【参考文献】
- 「猿に助けられた武将たち」 茨城の民話Webアーカイブ
http://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/minwa/minwa/no-0800100052?f=1