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運営者:日本史好きのブログ(history05)

初出掲載:2022年02月27日

 

【佐竹義政】常陸源氏でありながら平家に従った?武田氏や上総氏との関係にも迫る。

 

 

佐竹一族は由緒正しき武家のイメージ。
佐竹義政は東国でも指折りの源氏の名門であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 常陸源氏・佐竹義政、未来の棟梁ながら平家と接近する

平清盛。
平清盛。佐竹氏と早い時期から関係を結んでいた。
 

佐竹義政、常陸源氏常陸平氏の血を受けて誕生する

佐竹義政、常陸源氏の武士団・佐竹一族に生まれる

 

 

佐竹義政は、佐竹氏2代当主・佐竹隆義の長男として常陸国(現在の茨城県)で生を受けました。生母は近隣の豪族・戸村能通の娘と考えられます。

 

まずは義政のルーツである佐竹氏について見ていきましょう。

佐竹氏は武士の名門・源氏に連なり常陸源氏の中心となった武士団です。

義政の祖父・源昌義が常陸国久慈郡佐竹郷太田(現在の常陸太田市)に土着。伝承では保延61140)年に苗字を佐竹としたことが始まりのようです。

佐竹氏が勢力を伸ばすきっかけとなったのが、甲斐源氏など他の源氏一族と違った異質な外交方針でした。

常陸国親王任国(長官国司が皇族の国。現地に赴任しない)であり、その下の国司たちが国を纏めていました。

 

佐竹義政は源氏と平氏のハイブリッド!

 

国司の階級と役職

階級

長官(カミ)

次官(スケ)

判官(ジョウ)

主典(サカン)

役職名

○○守(〇〇のかみ)

〇〇介(〇〇のすけ)

〇〇掾(〇〇のじょう)

〇〇目(〇〇のさかん)

 

判官にあたる大掾(ダイジョウ)は在地の勢力である常陸平氏の一族・吉田氏が世襲していたと伝わります。

しかし佐竹氏は常陸源氏でありながら、平氏である吉田氏と婚姻関係を締結。常陸国内部で、源氏と平氏の結びつきを強固なものとしました(戦略的ですね)。

 

佐竹義政の伯父・忠義は常陸平氏の有力な一族・吉田氏が断絶すると同氏を継承。これによって平氏の力も取り込んだ可能性があります。

 

いわばこの時点において、佐竹氏と将来の当主となる佐竹義政は事実上、常陸国の武士団の棟梁ともいうべき存在でした。

 

 

佐竹義政と平清盛との出会い

 

常陸国の武士団のリーダーとなった義政ですが、決して驕り高ぶることはありません。むしろ自らの足場を固めるべく、あるいは勢力を増すべく活発に行動していきます。

 

義政が行きた平安時代の後期から末期は、まだ武士の身分がそれほど高くはありませんでした。

官位や仕事も朝廷の番犬というのが正しく、国家の運営はおろか政治に携わることさえ困難な状態だったようです(大変だったんだな、武士)。

その中で台頭してきたのが、伊勢平氏の一派(のちの平家)を率いる平清盛でした。

 

保元元(1156)年、京において皇位継承問題を巡る保元の乱が勃発。後白河天皇方と崇徳上皇方はそれぞれ武士たちを糾合し、武力衝突の構えを見せました。

このとき、佐竹義政は父・隆義とともに平清盛のもとで後白河天皇方に従軍。勝利に貢献してます。

 

 

 

佐竹義政と源義朝ら坂東武者との死闘

源義朝。
源義朝。坂東に勢力を伸ばした。

佐竹義政と坂東武士団との関係

佐竹氏は常陸源氏でありながら、常陸平氏とも血縁や婚姻関係にありました。常陸国を率いる武士団として、源氏や平氏双方と繋がりを持つ得意な存在だったのです。

しかし何故、中央政界で平清盛に接近したのでしょうか?

それには坂東において、佐竹氏が直面していた危機と関係があったようなんですよ。

 

河内源氏の棟梁・源為義の長男に源義朝源頼朝の父)という人物がいました。義朝は少年期から坂東に下向し、上総国の上総常澄(上総広常の父)や相模国三浦義明三浦義澄の父)らの後援を受けて勢力を拡張していました。

義朝は下総国の相馬御厨や相模国の大庭御厨に介入。南関東を中心に強大な武士団を組織しつつありました。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』や『平清盛』のオールスター軍団、という形ですね(源氏強そうだ)。

源義朝と佐竹義政がどう関係あるの」ですか?

南関東で強大化する源義朝の勢力は、いずれ常陸国にも及ぶ可能性は十分にありました。

義朝も保元の乱後白河天皇方として参加。戦後に左馬頭と下野守の官位を与えられています。

左馬頭は左馬寮の長官職で、調停保有の馬の管理に当たる役職です。検非違使と同じく京の治安維持を担い、当時の武士には最高の職でした。

下野守は下野国(栃木県)の長官国司ですから、義朝が北関東において勢力を増すことを朝廷から認められたことを意味します。

義朝の勢力が常陸国に及べば、佐竹義政らの領地もどうなるかわからない状況でした。現に大庭御厨は義朝の介入後に義朝の家人と成り下がっています。

「いっそ平家と結んじゃおっか」と義政が思ったかどうかは定かではありません(そんな軽い感じじゃないでしょうけど)。しかしそう考えると色々と合点がいく気がしませんか?

 

佐竹義政の一族、常陸国に七郡を得る

やがて朝廷や地方にとって、国の在り方を変える大事件が勃発します。

当時の朝廷では、後白河上皇院政派と二条天皇の親政派が対立を深めていました。

さらに院政派は、後白河上皇の寵臣である藤原信頼信西の関係が悪化しており、政治的対立は深刻なものとなっていたようです。

藤原信頼は二条親政派閥と結び、源義朝らを動員。三条殿を襲撃して後白河上皇の身柄を幽閉し、信西を殺すという暴挙に出ました。世にいう平治の乱です。

 

当時、佐竹義政は父の隆義と共に京に滞在していたようです。しかし何か手出しが出来る状況ではありませんでした。

京で最大の軍事力を持つ平清盛は熊野詣に出ており留守にしています。加えて藤原信頼方は、上皇天皇を擁して官軍となっていました。

しかし平清盛が帰京すると事態は一変します。

清盛は信頼に臣従するふりをして油断させ、一方で二条天皇親政派の切り崩しを行なっていました。

二条天皇後白河上皇らは脱出して、清盛の本拠である六波羅に身を寄せます。この瞬間、清盛らは官軍となっていました。

佐竹義政ら大勢の武士たちも六波羅に集結。反対に藤原信頼や義朝方の武士たちもこぞって馳せ参じています。

義朝らは六波羅を目指して進撃しますが、六条河原で清盛方の大軍に敗北。信頼は捕縛後に処刑され、戦いは清盛方の勝利で幕を閉じました。

義朝は坂東を目指して落ち延びます。しかし逃亡の途中、尾張国で家人の裏切りによって命を落としました。

源義朝の敗死は、義政たちにとっても朗報でした。坂東における河内源氏の圧力が消えたことで、佐竹氏の領地が守られています。

加えて清盛は、佐竹義政らに常陸国の支配権を付与。佐竹氏に常陸国の奥七郡を与えています。

 

佐竹義政、源氏方の上総広常と交渉の席につく

上総広常。
上総広常。坂東随一の勢力を誇った。

佐竹義政は平家方として立場を堅持する

保元平治の乱の結果、佐竹氏は常陸国の支配権を盤石なものとしていました。

中央政界では平清盛太政大臣に昇進。朝廷の実権を掌握し、日宋貿易を主導するなど活動の幅を広げていました。

平家一門は坂東を次々と知行国化。平家方の新興領主たちは、義朝の旧家人たちを圧迫していきます。

義政ら佐竹氏は平家一門に従属し、清盛らの存在感を後ろ盾として常陸国の支配を行なっていました。

しかしその日々は、呆気なく終わりを迎えます。

治承41180)年、以仁王後白河法皇の第三皇子)が摂津源氏の棟梁・源頼政と挙兵。全国の源氏に平家打倒の令旨親王の命令文書)を発して決起を促しました。

当然、佐竹氏は平家方である姿勢を堅持します。

これら挙兵の企みはすぐに露見し、以仁王頼政は敗死。平家方の軍勢によって容易く鎮圧されました。

ところが伊豆国で義朝の子・源頼朝が挙兵。伊豆国目代を討ち取ると、源氏の本拠地・鎌倉を目指して進軍を開始します。

やがて石橋山で敗れますが、房総半島に逃亡。上総広常らを味方に引き入れ、大軍勢となって鎌倉入りを果たしました。

頼朝の動きは、義政にとって悪夢のような出来事でした。

かつての源義朝と同じく、頼朝は坂東に支配権を拡大しようとしています。さらに佐竹氏は平家に近く、目をつけられる可能性は十分にありました。

義政は佐竹氏からは手を出さず、あくまで頼朝の鎌倉方の動きを注視していたようです。

「いずれ、京から平家の追討軍がやって来る」という希望的観測があったかどうかはわかりませんけど。

 

佐竹義政の抗戦と上総広常との交渉

 

鎌倉を制圧した頼朝らの動きは、目を見張るものがありました。

治承41180)年10月、頼朝は駿河国に進軍。甲斐源氏棟梁・武田信義らと合流して、平家の追討軍を待ち構えます。源氏方は4万、平家追討軍は7万ともいう大軍でした。

しかし平家方の追討軍は、坂東武者の精強ぶりを聞くと次々と脱落。富士川に着陣したときには、既に4000人ほどに減っていました。

そしてある夜、突如として平家軍は撤退。『吾妻鏡』によれば、水鳥の飛び交う音を奇襲を勘違いして逃げ去ったといいます。富士川の戦いは、こうして鎌倉方の勝利で終わりました。

 

頼朝は上洛して平家を滅ぼすことを望んでいました。しかし上総広常や三浦義澄らが反対します。常陸国の佐竹氏から背後を突かれることを恐れてのことでした。

平家の撤退は、鎌倉方の坂東の支配権を確定させるものでした。しかし佐竹氏単独で鎌倉方に抵抗できるはずもありません。

同年11月、鎌倉方は常陸国に進軍を開始。瞬く間に常陸国府は抑えられてしまいます。

しかしすぐに降伏することはできませんでした。このとき、佐竹氏当主である父・隆義は京で平家方に従っています。鎌倉方に降れば隆義の身の安全は保証できません。

弟の佐竹秀義ら佐竹氏の多くは本拠がある太田の金砂城に籠城。しかし義政は抵抗しても勝てないと踏んでいました。

幸いなことに、上総広常は義政の縁者にあたる人物でした。義政は広常を通じて、鎌倉方への帰順を願い出ます。

義政は国府から5kmほど北にある大谷橋で広常と面会。鎌倉方への帰順について話し合いを持ったようです。

しかし突如として広常が義政を襲撃。その場で義政は斬られたと伝わります。話し合いがこじれたのか、あるいは騙し討ちだったのか、定かではありません。

確かなことは、いずれ常陸源氏・佐竹氏を継承する立場であった義政が、一族を守ろうとして命を落としたということです。

程なく金砂城の秀義らは敗走。佐竹氏は鎌倉方に降伏し、新たな時代を生きていくこととなるのです。

 

 

 

 

 

【参考文献】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 「猿に助けられた武将たち」 茨城の民話Webアーカイブ

 

http://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/minwa/minwa/no-0800100052?f=1

【源義円】『鎌倉殿の13人』に登場!乙若丸と呼ばれていた義経の兄

 

 

今若丸・乙若丸・牛若丸の読み方と名前の由来に迫る!

 

五条大橋で闘う牛若丸と弁慶。
五条大橋で戦う牛若丸と弁慶。

 

今若丸(阿野全成)から見る貴族の幼名

義円の同母兄・阿野全成。悪禅師の異名を取る人物であった。出典:ウィキペディア(著者:
Musuketeer.3

久寿21155)年、源義円源義朝の八男として生を受けました。生母は側室の常盤御前です。幼名は乙若丸(おとわかまる)と名乗りました。同母兄に今若丸(いまわかまる。阿野全成)、同母弟に牛若丸(うしわかまる。源義経)がいます。

 

源義経、つまり牛若丸は大河ドラマや絵本などでよく目にする機会がありますよね。でも義円子と乙若丸と全成こと今若丸がどのような人物だったかは知られていません。

まずは三人の幼名を見てみましょう。

 

・今若丸(阿野全成「今」は新しいという意味もあり、常盤御前にとって初めの子供という意味があると考えられます。

「若」は身分の高い家の男児を若君や若子(わこ)と著した言葉です。

次いで幼名でよく見かける「丸」は、おまるを意味していると伝わります。昔は病気や栄養不良などで、成人するまでに亡くなる子供が大勢いました。そのため、災いや鬼はクサい臭いを嫌うと考えられていたため、丸を子供の名前に付けて健やかな成長を祈ってつけられたようです。

 

 

乙若丸(義円)と牛若丸(源義経)の幼名は干支が由来?

義円の同母弟・源義経。天才的な軍略で源平合戦を彩った。



・乙若丸(源義円)乙は生まれ年の久寿2年の干支が「乙亥(きのとい)」にあたるためだと考えられます。そこに若丸がプラスされて乙若丸となったと予想されます。

 

・牛若丸源義経お伽草子』には「丁丑(ひのとうし)の年、丑の日、丑の刻に生まれた」とあり、そこからだと言われています。しかし義経が生まれた平治元(1159)年の干支は己卯(つちのとう)で、丁丑ではありません。

 

乙若丸が乙亥に産まれているので、牛若丸が丑年関連ではないというのは少しおかしな気もします。

これは推測ですが、二つの可能性があると思います。

牛若丸こと源義経の生年は、本来は丁丑であった。つまり実際の牛若丸の生年は、記録よりも2年前ということになります(本当かどうかはわかりません。あくまで推測です)。

②おそらくは牛若丸以前に子供を宿し、色々あって生まれる前に命を失ってしまった。義朝や常盤御前にすれば、本当は丑年に生まれるはずだった命という子供を思った気持ちが込められていた、という説明もつきます(完全な当てずっぽうですけど)。

 

 

義円の父・源義朝ってどんな武士だった?

 

源義朝。
義円の父である河内源氏の棟梁・源義朝。東国に一大勢力を築いた。

 

義円の父は平安末期を代表する河内源氏の棟梁だった!?

義円の異母兄・源頼朝。日本で初の武家政権を鎌倉に樹立する。



義円の異母兄にのちに鎌倉殿と呼ばれ、征夷大将軍となる源頼朝がいます。大河ドラマ鎌倉殿の13』ではよく、義円や頼朝の父である源義朝の名前が出ますよね。でも既に亡くなっているので、どのような人物だったかはわかりません。簡単に説明していきましょう。

 

義円の父・源義朝は、河内源氏の棟梁であった人物です。坂東で暴れ回り、勢力を拡大。鎌倉を拠点に一大勢力を築き上げていました。大河ドラマ平清盛』では玉木宏さんが演じていらっしゃいましたね。

 

義朝は源氏の中でも身内との争いに満ちた半生を送っています。

後継や領地争いから弟である源義賢を坂東で殺害させました。さらに保元元(1156)年には、保元の乱に参加。戦後には朝廷から敵対した父・為義や弟たちの処刑を命じられ、実際に担当しています。

官位においては、左馬頭(朝廷の馬の管理係)や下野守(下野国の長官国司)にまで出世しましたが、義朝はまだ満足していなかったようです。

義朝の行動は、まだ幼い乙若丸たちの人生を翻弄することとなるのです。

 

 

父・義朝と義円たち兄弟の運命は戦乱によって暗転する

平治の乱。挙兵した源義朝らは一時官軍となるが…



平治元(1159)年、院近臣(上皇法皇の側近)である藤原信頼がクーデーターを挙行。政敵の信西を殺し、後白河上皇を幽閉するという暴挙に出ます。さらに信頼たちは、二条天皇の身柄も確保して官軍となっていました。

このとき、義朝は信頼のもとに動員された武士の中心的人物でした。

 

当時の京で最大の軍事力を持っていた平清盛は熊野詣に出掛けており、留守にしていたようです。帰郷後は信頼に恭順の意思を示しており、朝廷の権力は完全に信頼が握ったかに見えました。

しかし清盛は二条天皇らを脱出させて保護し、後白河上皇六波羅の邸に迎えて守りました。この瞬間清盛は官軍となると同時に、義朝らは賊軍となってしまいました。

義朝らの軍勢は六波羅を目指して進撃しますが、六条河原で敗北。信頼も捕らえられて処刑され、義朝は京を逃れて東国へ落ちていきました。

ところが尾張国まで逃れたところ、家人の長田忠致が裏切って襲撃。そのまま義朝は命を落としてしまったといいます。

このとき、乙若丸はまだ6歳の子供です。幼少の身がながら父を失ってしまったのです。

 

 

義円の母・常盤御前平清盛をも夢中にさせた絶世の美女だった!?

常盤御前。
常盤御前(イメージ)。当時、美しさと聡明さを謳われた。



宮中随一の聡明さを持つ雑仕女

宮中に仕えていた女官。貴族と結びつき、絶大な権勢を誇ることもあった。

乙若丸らの母・常盤御前については、詳しい素性はわかっていません。『平家物語』や『尊卑分脈』を参考にすると、近衛天皇中宮・九条院こと藤原呈子の雑仕女(女性の召使い)であったといいます。

召使いは上から「女官ー女嬬(にょじゅ)ー雑仕女」となっており、雑仕女は最下級の位置にいました。

雑仕女は『枕草子』や『今鏡』にも使者や騎乗のお供として登場しており、貴族社会においては決して蔑まれた存在ではなかったようです。

貴族の側室となる雑仕女もいたとされ、常盤御前は実際に源義朝と婚姻を結ぶ女性の一人となっています。

 

常盤御前については、藤原伊通(これみち)が京中の美女1000人を集め、その中で特に聡明で美しい人物だったとされます。

 

源義朝には多くの妻と子供がいました。そのうち、長男・義平と六男・範頼は遊女に生ませた子供と伝わっています。

しかし実際は遊女というのは、実際は地元の有力者の娘であることは珍しくありませんでした。つまり常盤御前も京において一定程度由緒のある家の生まれであったことは想像に難くありません。

 

 

源氏と平家の棟梁二人の愛妾となった常盤御前

常盤御前の逃避行の結末は…?



義朝が謀反人として命を失った後、乙若丸は母・常盤御前や兄弟と共に逃亡生活を送ることとなります。このとき、常盤御前はまだ23歳という若さでした。

 

京を逃れた常盤御前は、大和国(現在の奈良県)に逃れます。しかし程なく、京に残した母親が平清盛らに捕われたことを知ります。

 

常盤御前は今若丸・乙若丸・牛若丸の兄弟を連れて清盛の元に出頭。母の助命を嘆願しています。

しかし常盤も子供たちも、いずれも謀反人の関係者です。しかも庇護者は誰もいない状況でした。乙若丸たちは処刑されても当然という絶望的な立場だったのです。

 

このとき清盛は健気な常盤御前の姿に心打たれ、乙若丸らの助命を決定。さらに清盛は常盤御前を愛妾としたとされ「廓御方」という姫までもうけたと伝わります。

伝承等が真実だとすれば、常盤御前は身を挺して乙若丸らを救い、その命を守ったと言えます。

 

 

義円が園城寺孫子を学んだというのは本当のことだった!?

 

園城寺。
園城寺。当時、日本有数の僧兵を有していた。

 

義円は園城寺で出家して助命される

 

平治の乱の後、乙若丸らの処遇にも少しずつ変化が訪れます。

母・常盤御前大蔵卿・一条(藤原)長成と再婚。新たな家庭を築くこととなりました。

予想ですが、再婚を世話したのは平家一門だと思われます。

助命決定となった以上、常盤御前や乙若丸など源氏関係者が清盛の近くにいるのは色々とまずいものがあります。再婚という形で常盤御前を遠ざけ、清盛の安全を図ったのではないでしょうか(あくまで予想ですけど)。

 

ちなみに乙若丸ら三兄弟は、しばらく継父の長成らと共に一条大路沿いの邸宅で暮らしていたようです。しかし兄弟に母との別れの時が近づいていました。

程なく乙若丸は園城寺(おんじょうじ)に、今若丸は醍醐寺に、牛若丸は鞍馬寺でそれぞれ出家することとなりました。

罪人やその一族が仏門に入り、助命されるということはよくあります。乙若丸らもその一例だったようです。

 

 

義円は円恵法親王の坊官として活動を始める

元服時の烏帽子。本来であれば義円は源氏の武士となるはずであった…



乙若丸が弟子入りしたのは、園城寺の長吏(長官)である円恵法親王後白河上皇の第四皇子)でした。

乙若丸は出家すると卿公円成(きょうのきみえんじょう)と僧名を名乗るようになります。僧名に「成」とあることから、養父であった一条長成に関連した命名ではないでしょうか。園城寺での出家に関しても、長成や一条家の縁故によって園城寺に入ったものと推測されます。

しかし円成はやがて改名を決意。「義円」と名乗るようになります。

「義」は父・義朝の諱(いみな)に含まれた、源氏の通り字(先祖から受け継がれる文字)でもありました。

時期については不明ですが、おそらくは元服前後かと推察されます。

武士の元服は数え年で12歳〜15歳が通常ですから、永万21166)年〜嘉応元(1169)年前後に元服し、義円と名乗ったのではないでしょうか。

義円は師である円恵法親王のもとで、坊官(世話係)を務めていたとされます。このことから、義円の家柄や能力を見込まれていたことがわかります。

 

 

義円は本当に孫子に通じた兵法家だった?

孫子の兵法。古代から現代まで、一流の軍学書として評価されている。



大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、義円が兵法書孫子に詳しいとされる場面があります。これって本当?と思った方もおられるんじゃないでしょうか。実はこの話、本当である可能性が高いんです。

 

当時の寺院は、一種の高等教育機関でもありました。よく時代劇などで「寺子屋」とか呼ばれることがありますよね。あれって、これの名残なんです。

寺には仏典や漢籍だけでなく、医学書や薬草学の書籍も置かれている場合もありました。寺院の規模が大きければ大きいほど、書物は沢山ありますし優れた知識に触れ合えます。

このときの園城寺は、比叡山延暦寺と肩を並べるほどの大寺院です。兵法書の『孫子』があっても決しておかしくはありません。加えて戦いに必須な兵法書は、僧侶たちにとって大事なアイテムだったのです。

平安時代の寺院は、僧兵と呼ばれる軍団を抱えていることが多々ありました。僧兵の武力は、決して武士に劣るようなものではありません。

園城寺ほどの大寺院ともなれば、数千人ほどの僧兵を保持。武力を持って朝廷に強訴することも珍しいことではなかったのです。実際に寺院では武術も学べたようです(寺院、すげえ)。

 

ですから、義円が園城寺に入って『孫子』を学んでいたというのも、あながちなかった話ではありません。河内源氏の息子という意識から、武術に心得があった可能性も十分にあるんですよ。

 

 

義円、平家打倒の挙兵に加わる

 

平清盛。
位人臣を極めた平家の棟梁・平清盛

 

義円の叔父・源行家以仁王の令旨を運ぶ

義円の叔父・源行家。共闘する人間は、ことごとく滅亡に追い込まれた。



治承31179)年、平清盛率いる平家一門はクーデターを挙行。後白河法皇を幽閉して院政を停止させるという暴挙に出ます。治承三年の政変と呼ばれる出来事です。

政変の後、平家の知行国30カ国以上に拡大。500以上の荘園を獲得し、一門から多数の公卿(三位以上。国政に関われる)を輩出します。

 

しかし平家の専横を快く思わない勢力がいました。以仁王後白河法皇の第三皇子)です。治承41180)年4月、以仁王は全国の源氏と大寺社に平家打倒の令旨親王などによる命令文書)を発出します。

このとき以仁王の令旨を運んだのが源行家でした。行家は義朝の弟で、義円からすれば叔父にあたる人物です。

山伏に扮した行家は全国を行脚し、源氏の諸将に令旨を届けます。しかし大々的な行動もあってか、挙兵計画はすぐに平家の知るところとなります(当然ちゃあ、当然です)。

 

 

 

義円は園城寺から脱出し、東国へ旅立った?

摂津源氏棟梁・源頼政源平合戦の口火を切るが…



源平合戦の始まりは、義円を歴史の表舞台へと押し上げていきます。令旨は大寺社に発出された、ですから園城寺にも届いていました。

以仁王は平家から逃れて園城寺に逃げ込みます。園城寺の円恵法親王は、以仁王の異母弟でした。

しかし円恵は平家に以仁王の所在を知らせます。すぐに平家から派遣された摂津源氏棟梁・源頼政が兵を率いて園城寺に現れました。

ところが頼政以仁王の協力者でした。園城寺で合流した頼政は、反平家の姿勢を鮮明にして挙兵に及びます。

 

平家物語』によると源頼政方は1000人。平家方は平重衡平維盛28000人だったと伝わります。

衆寡敵せず、と義円は考えていたはずです。実際に義円は時期は不明なものの園城寺を脱出していました。その後の行動を見るに、源氏の縁者として危機感を感じていたことは確かでしょう。

ほどなく以仁王頼政も追われる形で園城寺を退出。宇治の平等院に落ちていきました。頼政切腹以仁王は流れ矢に当たって最期を遂げたと伝わります。

 

反平家方の捜索が始まったことで、義円にとってもはや園城寺や京は安住の地ではなくなっていました。しかしそれは、義円は新たな旅立ちでもあったのです。

 

 

義円、墨俣川の戦いで奇襲攻撃を敢行する

 

墨俣川。
源平合戦の舞台・墨俣川。

 

義円は頼朝と合流したのか

石橋山の戦い(1180年)。出典:ウィキペディア(著者:味っ子

以仁王の令旨は、全国の源氏に挙兵の機運を高まらせるものでした。

治承41180)年8月、伊豆国流罪となっていた義円の兄・源頼朝が挙兵。平家方の目代山木兼隆を討ち取って気勢を上げます。

頼朝の軍勢は石橋山で敗北したものの、房総半島で再挙。大軍勢となって源氏の根拠地・鎌倉に入りました。

義円の同母兄・全成や同母弟・源義経も次々と頼朝と合流。おそらくは義円も頼朝のもとに馳せ参じたと思われます。

吾妻鏡』に記述こそありませんが、義円の兄弟である阿野全成源義経はいずれも頼朝のもとに集合しています。義円の後の行動からしても、頼朝との接点があった可能性は十分にありました。

 

 

義円、尾張国に地盤を持つ武士となる

 

同年10月、頼朝は甲斐源氏武田信義駿河国で合流。平家の追討軍を富士川で打ち破っています。結果、頼朝ら源氏方は坂東での支配権を確立させることが出来ました。この富士川の戦いの後、勢力図は大きく塗り変わります。

甲斐源氏武田信義安田義定駿河国遠江国を制圧。源氏方は東海道に勢力を扶植していきました。

義円の兄・全成も駿河国阿野荘を賜り、以降は阿野全成と名乗るようになりました。少しずつ源氏の勢力は西へと進んでいたのです。

治承51181)年、尾張国(愛知県西部)や三河国(愛知県東部)では、義円らの叔父・源行家が勢力を築きつつありました。

頼朝の命令があったかは不明ですが、義円は尾張国に出向。行家と合流しています。

尾張国は、かつて父・義朝が最期を遂げた場所でした。まだまだ平家の勢力圏とはいえ、義円にとっても負けられない場所だったようです。

 

時期は不明ですが、義円は尾張国と縁を築いていました。義援は尾張国愛知郡の郡司・慶範禅師の娘と結婚。子の愛智義成をもうけたと伝わります。

慶範禅師は「範」の一字から、尾張国の熱田大宮寺家の一員であったと考えられます。

かつて父・義朝がそうであったように、義円も地元の有力者と婚姻を締結。勢力を構える動きを取っていたようです。

 

 

義円、墨俣川の戦いで高らかに名乗りを挙げる

平清盛の五男・平重衡。義円の前に立ち塞がった。



義円と行家らが尾張国で勢力を拡大させていた頃、付近の源氏と平家は一進一退の攻防を繰り広げていました。

平家は南都(奈良)の寺社勢力を鎮圧し、美濃国岐阜県)の源氏の武力放棄も抑えています。

しかし治承51181)年閏2月、平家の総帥・平清盛が病によって世を去ってしまいました。巨大な柱を失った平家一門は動揺しており、平家の鎮圧軍出撃が一時は見合わされるほどでした。

 

義円と行家は尾張源氏源重光大和源氏の源頼元らを動員。源氏方は総勢で50006000ほどを集め、墨俣川東岸に離れて布陣します。

対して平家方は平重衡平維盛らが率いる3という大軍が集結。墨俣川西岸で攻撃態勢を整えていました。

「あの時と同じだ」と義円が思ったかどうかは定かではありません。総大将も兵力差も、かつての園城寺の時と似ています。まともに戦えば負け、下手をすれば討死を遂げてしまいます。

義円は既に尾張国で土着に近い状態にあり、兵を引くということは領地を失うことにも似ていました。

起死回生を果たすべく、義円はある作戦を企てます。兵力差を補うための夜間の奇襲攻撃でした。

310日、義円の軍勢は奇襲すべく墨俣川の渡河を開始。渡り終えて西岸に辿り着きます。そのまま義円たちは夜明けを待ちますが、濡れた兵を不審と思った平家の夜警に見咎められました。

義円は高らかに「兵衛佐頼朝の弟で卿公義円という者だ」と名乗ります。源氏の棟棟梁の息子らしい、威風堂々とした様子でした。

義援は平家の家人・高橋盛綱と激闘。やがて討ち取られました。享年27歳という若さでした。

 

 

義円の遺児・愛智義成の末裔は織田信長に仕えていた!?

 

織田信長。
戦国の覇者・織田信長。義円の末裔が仕えたとされる。

 

義円の忘れ形見・愛智義成は頼朝に重用されていた!

壇ノ浦の戦い。平家が滅亡し、義円の願いは成就された。



義円の死後、頼朝ら源氏方は平家勢力を駆逐。壇ノ浦の戦いで滅亡に追い込みました。

では義円の一族はどうなったのでしょうか。少し見てみましょう。

 

尾張国に残された息子の愛智義成は、義円の遺児として尾張国で大切に養育され、のちに愛智氏の祖となります。

外祖父の慶範が大宮寺家であったため、血筋が近い頼朝(生母・由良御前は大宮寺家の出身)には重く用いられたと考えられます。

実際に長じてから義成は従五位下蔵人、ついで下総守に叙任されていました。五位以上は殿上人であり、朝廷の清涼殿に昇殿できる身分です。下総守は下総国(千葉県北部)の長官国司であり、歴とした高官でした。

 

 

源?愛智?義円の末裔の一族の名乗りについて

 

ちなみに「愛智って、名前が源から変わってね?」と思った方もいるでしょう。姓と苗字は違うんです。

天皇から与えられた)

例:源、平、藤原、橘

苗字(自分で名乗るもの)

例:愛智、阿野、三浦

 

気づかれた方もいらっしゃるかも知れませんが、苗字って土着した土地から付けらたものが多いですよね。ほかの苗字では朝廷で務めた官位から取った例もあるようです。

愛智義成は同時に源義成でもあるわけです。「源」などの姓を名乗るのは公式な場面でのことで、通常は苗字の方を名乗ったようですよ。

あれ? 源頼朝源義経には苗字がないの?ですって

領地がないし、土着してたらそこの土地の名前を付けたんじゃないかなと思います(責任なくてすいません)。

 

 

愛智一族の末裔は織田信長茶坊主となる

加賀百万石の祖・前田利家。傲慢な捨阿弥を斬ってしまう。



義成の後の愛智氏は、『尊卑分脈』などによれば南北朝時代まで続いたとされています。

それ以後については不明ですが、実は末裔(と思われる人物です)から後の天下人・織田信長に仕えた人間が出ていました。

戦国時代、茶坊主として活動していた拾阿弥(じゅうあみ)は愛智氏の出身だったと伝わります。

拾阿弥は横柄な人物として知られ、信長の配下に対しても尊大な態度で接したといいます。

ある日、拾阿弥は信長の配下・前田利家の佩刀に差していた笄(こうがい。結髪道具)を盗んでしまいます。実はこの笄、利家の正室まつ(芳春院)が父の形見としていたものでした(大河ドラマ利家とまつ』のワンシーンでお馴染みです)。

しかも拾阿弥は謝るどころか、利家に対してさらに侮辱。激怒した利家は、信長の面前で捨阿弥を斬って捨てたといいます。

この一件で利家は織田家を浪人することとなり、美濃国との戦いで手柄を立てることでようやく帰参が許されています。

愛智氏の子孫が天下人・信長や加賀百万石の祖・前田利家と関わっていたのは驚きですね。

 

 

 

義円公園(墨俣古戦場・義円の墓)の駐車場やアクセスについて

 

義援公園。
義円公園入口。出典:ウィキペディア(著者:Andee

 

いかがだったでしょうか?

義円の生涯を見てきましたが、なかには現地に行って義円が見た景色を体感してみたいと思われる方もいらっしゃるかと思います。

この記事を執筆している時はコロナ禍なので、外出を戸惑われる方もいらっしゃるでしょう。ですので気分だけ味わっていただければ幸いです。以下、簡単に紹介いたしましょう。

 

 

義円公園への行き方

 

住所

5030104

岐阜県大垣市墨俣町下宿391

義円公園内

 

アクセス

 

JR穂積駅南口バス停から名阪近鉄バス利用18分下宿バス停下車

とほ約7

 

 

 

 

 

 

【参考文献】

 

藤本元啓 『中世熱田社の構造と展開』 八木書店 2003

 

川合康 『源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009

 

「源平墨俣川古戦場 義円公園」 岐阜観光連盟HP

https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_7108.html

 

「義円公園と義円の墓〈岐阜県大垣市〉」 源平史蹟の手引きHP

 

https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/gienkouen/

【源頼茂】摂津源氏棟梁の家系図!源平合戦と承久の乱に関わった一族

源頼茂の祖父・源頼政。彼らは源氏の血筋の中心的存在であった。



源平合戦の口火を切った?源頼茂の先祖の家系図を辿る

ご先祖様は源頼光摂津源氏棟梁の家柄とは

源頼光。武勇に優れた武家として名を上げた。

以下、簡単に源頼茂の出身である摂津源氏の成り立ちについて説明していきましょう。

 

まずは最初、清和天皇の第六皇子・貞純親王の子である経基王源経基)が臣籍降下清和源氏(せいわげんじ)が生まれます。

 

源経基の長男が源満仲(みなもとのみつなか)で、さらにその嫡男が源頼光(みなもとのよりみつ)でした。

頼光は酒呑童子退治の伝説で有名な人物です。

説話では,武勇にも優れた頼光の配下には坂田金時(金太郎)や渡辺綱茨木童子退治で有名な人物)がいたとされ,武家の棟梁としての存在感を感じさせます。

 

そして長じた頼光は摂津国多田荘を相続。以降,頼光の系統は摂津源氏多田源氏)と称されていきます。

 

この摂津源氏こそが,源氏の嫡流と言っても過言ではありません。

頼光の弟には源頼親(初代大和源氏棟梁)や源頼信(初代河内源氏棟梁)がいました。

源頼朝源義経の父・源義朝河内源氏の棟梁です。

ドラマでは源氏嫡流と言っていますが,それはあくまで「河内源氏嫡流」というが正確なところ。

源氏は多岐に分かれているので嫡流はない,という方もおられます。しかしより上位にいたのが摂津源氏ということだけは抑えておきたいですね。

 

加えて摂津源氏からは,多くの武家の名門を輩出していました。

源平合戦に関わった多田行綱の多田氏だけでなく,戦国時代や江戸時代にまで残った一族も確認されています。

摂津源氏から出た馬場氏の馬場信春や山県氏の山県昌景は、戦国時代に武田信玄の四天王として大いに活躍します。

さらに安芸国の山県氏は明治の元勲・山縣有朋を輩出しました。

 

摂津源氏出身の土岐氏は、室町時代になると美濃国守護職を拝命。室町幕府の元で四職(侍所所司を務める四つの家柄)の一つとして重用されました。

土岐氏の支族が明智氏明智光秀を輩出。本能寺の変織田信長を自害に追い込むという歴史的事件を起こしています。

 

福島氏からは尾張国福島正則を輩出。豊臣秀吉配下の猛将として知られ賤ヶ岳の七本槍にも数えられた人物です。関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒として活躍し、歴史の転換点に関わっています。

 

 

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、石橋山の戦いのシーンで北条時政が滔々と語っていましたよね。源氏の流れって、由緒あるし、その存在自体に正当性があったとも言えます。

大内(大内裏)守護であった祖父・源頼政

源頼政の活躍によって、源平合戦の火蓋が切られた。

続いて紹介するのは,摂津源氏棟梁・源頼政(みなもとのよりまさ)についてです。頼茂にとっては祖父にあたります。

 

長治元(1104)年、源頼政摂津源氏棟梁・源仲政の長男として誕生。生母は藤原友実の娘と伝わります。

頼政は保延年間(11351140年)ごろに家督を相続。従五位下に叙されて貴族(五位以上)となって、朝廷に仕えていました。

 

当時の武家(武士)の力は、それほど強くありません。江戸時代みたいに一国の主、なんという存在は数えるほどです。

多くの武士は、土着して地方に勢力を構築。3年に一度は大番役として京の都で警護にあたることになっていました。

 

しかし頼政は、摂津源氏の頭領として朝廷から格別の扱いを受けています。

摂津源氏摂津国を中心に勢力を保持。京に近い土地にありながら、摂関家とも関わりを持つなど存在感を発揮します。

頼政大内守護(皇室を警護する近衛兵)に抜擢。武家の中心的な存在として周囲から認識されていました。

いわば頼政は、武家たちの中では飛び抜けたエリート的存在だったわけです。

 

中央で覇権争いが起きた時にも、頼政は軍勢を率いて出動しています。

朝廷の内部争いである保元平治の乱では、いずれも勝利した側に従軍。摂津源氏の地位を盤石なものとしています。

一方で敗軍に従った河内源氏棟梁であった源為義(頼朝の祖父)、源義朝(頼朝の父)らは落命。頼朝は伊豆国流罪となるなど、滅亡状態となっていました。

 

摂津源氏は、血筋でも源氏の嫡流でしたが、立場や官位においても、頼朝らの河内源氏を大きく凌駕しています。

 

 

やがて平清盛が政権を掌握して太政大臣に就任。頼政は中央政界にあって、源氏の長老的存在として君臨します。

 

安元31177)年には、73歳という高齢で御所の警備に出動。延暦寺大衆による強訴に対処しています。

平安時代でありながら、門中の名門で元気過ぎるおじいちゃん。それが源頼政でした。

 

清盛は忠実な頼政を信頼し、治承21178)年に従三位に推挙。頼政公卿(くぎょう:三位以上の貴族。国政の中枢に関わる)となって「源三位」と称される絶頂期を迎えます。

九条兼実の日記『玉葉』では、この人事を「第一之珍事也」と表現。平家以外の武士が公卿に上ることは異例であったことがわかります。

源平合戦の敗北から復活!父・源頼兼の波瀾万丈な人生

非蔵人として朝廷に出仕

後白河法皇平清盛との対立は時代を動かしていく…

摂津源氏の歴史ある家系図の中で、少しずつ頼茂に近づいてきているのがわかるかと思います。

次に紹介するのは、頼茂の父・源頼兼(みなもとのよりかね)についてです。

 

源頼兼は、頼政の次男として生を受けました。

生年は明らかではありませんが、幾らか推定することはできます。

頼政の長男・源仲綱(みなもとのなかつな)が大治元(1126)年ごろの誕生。つまり頼兼はそれ以降に生まれたと考えられます。

 

頼兼も摂津源氏の貴公子らしく、中央政治の世界に身を投じていました。

九条兼実の日記『玉葉』では、安元21176)年6月の段階で既に九条院(藤原呈子)の非蔵人(蔵人の見習い)として、五位に叙せられていたことがわかります。

本来であれば、頼兼はそのまま摂津源氏の一族として順風満帆な人生を歩むはずでした。

 

頼兼の運命が変わったのは、平家と後白河法皇の対立によってでした。

治承31179)年11月、平清盛はクーデターを実行。院政を停止させた上で、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉するという事件が起きます。世にいう治承三年の政変です。

この政変によって平家の知行国は大幅に増加。『平家物語』によれば全国66ヵ国のうち実に32ヶ国にまで及びました。

 

知行国というのは、自分がその国の守護と地頭を任命できる地位です。実質的支配者と言ってもいいでしょう。

つまり平家は日本のおよそ半分を支配下に収めていたことになりますね。すごいすごい。

以仁王の挙兵の敗北と返り咲き

平家の棟梁・平清盛。政治の中心に君臨するが、次第に後白河法皇と対立していく。

当然、平家の専横に対して不満が爆発します。

翌治承41180)年5月、以仁王後白河法皇の第三皇子)が園城寺で挙兵。各地の源氏と大寺社に対して平家打倒の令旨親王の命令文書)を送ります。

 

平清盛源頼政に鎮圧を命令。頼政園城寺に向かうと、なんと以仁王に同心して反平家の陣営に加わりました。

どうやら最初から頼政以仁王と組んでいたようです。

頼政の陣営は1000にまで膨れ上がり、平家を迎え撃とうと意気込みます。

 

これに対して清盛は激怒。自らの五男・平重衡を大将とする28000騎もの大軍を差し向けます。

 

頼政以仁王を逃すべく寡兵で奮戦。やがて宇治の平等院に入ると、そこで自害して果てました。

以仁王は南都(奈良)を目指して馬を走らせますが、流れ矢が命中。非業の最期を遂げています。

 

このとき、頼政の子である仲綱らも自害。しかし頼兼は生き抜いて、京を逃れていました。

 

寿永21183)年7月、源氏方の木曽義仲が平家の軍勢を打ち破って入京。頼兼はその軍勢に加わっていたのか、事後に大内裏の警護役となっています。

かつて父祖代々の職務であった大内守護が、再び頼兼ら摂津源氏の手に戻ってきた瞬間でした。

頼朝への接近と国司就任

初代鎌倉殿こと源頼朝。坂東に武家政権を築いた。

平家の都落ちによって、源平合戦は大きく推移していきます。

鎌倉では源頼朝が坂東の武士たちを従えて君臨。鎌倉殿(鎌倉の支配者)と称せられて一大勢力を築きます。

やがて木曽義仲後白河法皇と対立。頼朝と戦って敗れて命を落とすこととなりました。

 

京の支配者が入れ替わる中で、頼兼は難しい舵取りを迫られたはずです。

しかし頼兼はあくまで朝廷を守る大内守護として奉職。鎌倉の御家人となりながら、職務を全うしていきました。これは難しいバランス感覚ですよ…

 

文治元(1185)年5月には、清涼殿から御剣を盗んだ犯人を捕縛。鎌倉に自ら下って頼朝に報告しています。

6月には父の仇・平重衡の護送を担当。南都に身柄を引き渡す役を仰せつかるなど、頼朝から厚い信任を受けています。

同年10月には従五位上に昇るなど、窃盗犯追捕の功績を朝廷からも認められました。

 

本来は摂津源氏は源氏嫡流と称してもおかしくない家柄です。

しかし頼兼は現実的な判断に加え、自分の職務と家を守ることを優先していました。

翌文治21186)年、頼兼は所領の丹波国五箇庄が後白河法皇の自領に組み込まれようとしていると頼朝に上申。取り次ぐ約束をさせています。

 

武家の棟梁は家人の領地を保証するのが役目です。このときは既に、頼兼は頼朝を主人として仰ぎ、頼朝もそれに応じていました。

その後も頼兼は頼朝の行く場所に随行御家人の一人として鎌倉幕府の行事に参加していきます。

一方で大内守護の役職にも尽力。建久51194)年3月には、仁寿殿前で大内裏を放火しようとした者を捕らえて処刑しています。

 

建久91199)年に頼朝が病没しますが、頼兼に対する鎌倉幕府の信頼は変わっていませんでした。

元久21205)年には石見守に叙任。国司として朝廷と幕府を支えることを許されています。

源頼茂は鎌倉殿にも手が届いた!?尊き摂津源氏家系図

源頼茂の烏帽子親は伊豆介!?サラブレッドゆえの華麗なる元服

烏帽子。元服武家にとっての成人を意味していた。

摂津源氏は、朝廷と幕府の庇護によって大きく飛躍を続けていました。そして代は、いよいよ源頼茂の代に移ります。

 

治承31179)年ごろ、頼茂は源頼兼の長男として生を受けました。

翌治承41180)年には源平合戦が始まり、祖父・頼政は敗北の末壮絶な最期を遂げています。

 

頼茂はまだ幼少でしたが、置かれた環境は過酷だったことは想像に難くありません。

当時の平家は天皇外戚として君臨。知行国も膨大であり、諸国の武士の多くが従っていました。

父・頼兼も一時京を離脱。再び中央に返り咲くまで、摂津源氏の一門は冬の時代を耐え忍んでいたのです。

 

 

頼茂自身はどういう少年時代を過ごしていたのでしょうか?

生年から推測するに、元服武家の成人)は建久元(1190)年ごろだったと予想できます。

以下、諱について考察してみましょう。

 

  • 摂津源氏通り字(一族の人間が受け継ぐ特定の文字)です。祖父・頼政や父・頼兼もこれを受け継いでいました。

 

  • 偏諱だとわかります。おそらく元服時に、烏帽子親(加冠役)から一字を貰ったようです。

 

では「茂」の字は、誰から貰ったのでしょうか?

烏帽子親は仮親であり、将来的な庇護や協力関係を約束する間柄です。おそらく親子ほどは年齢が上であり、祖父母より離れていない人物でしょう。

 

個人的には頼茂の烏帽子親は、狩野宗茂伊豆国狩野庄を本貫地とする武士)かと考えています。何故そう思ったのにかについては、根拠がいくつかあります。

 

狩野宗茂の父は、頼朝の挙兵に従って戦死した工藤茂光です。茂光は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場して、劇中で善児に暗殺されていました。

狩野宗茂はその後頼朝に従い、源平合戦にも参陣。建久41193)年に起きた曽我兄弟の仇討ちの際には、兄弟の尋問に立ち合っています。

宗茂以降、狩野氏は「狩野介」に就任。伊豆国の在庁官人(地方官僚)として活動していました。

○○介」という呼び方は、相模国の三浦氏や下総国の千葉氏にも見られます。在庁官人として代々、介職(国司で上から2番目。○○守に次ぐ)に任官されている家柄を指します。

 

そして実は、摂津源氏伊豆国の間には、重要な接点が存在していたんですよ。

伊豆国は頼茂の祖父・頼政知行国でした。実際に頼政の子(頼茂の叔父にあたる)有綱らは、以仁王の挙兵の際に伊豆に在国。生き残って頼朝の挙兵に従っています。

知行国ですから伊豆国とは密接な繋がりがありました。頼茂の叔父・仲綱も伊豆守となったこともあり、在地の武士たちと関係を築いていたことは想像できます。

 

頼茂が元服するにあたり、烏帽子親は誰にしようかと問題になるとします。誰でも良いわけではありません。烏帽子親は未来に渡って庇護を与え、強固な関係を築くわけですから。

 

頼茂は伊豆の知行国主の家柄で、叔父は伊豆守。対して狩野宗茂の家は狩野介の家柄です。

伊豆国関係の武家元服においては、最適解の烏帽子親選定だったと推定することができます。決めつけですが、一番しっくりくるのがこの人選です。

家司?大内守護?源頼茂と鎌倉殿・源実朝の関係とは

三代鎌倉殿こと源実朝。彼の死によって源氏将軍は断絶した。

元服後の頼茂は、祖父や父と同じ道を歩んでいくこととなります。

長じた頼茂は大内裏守護を拝命。同時に鎌倉幕府御家人として在京のまま活動していきます。

京には朝廷がありますから、幕府との関係を調整・仲介するのが在京御家人の役割でもありました。

 

当時の頼茂は、立場上からも朝廷と幕府双方からかなりの厚遇を受けていたようです。

朝廷は頼茂を正五位下に叙任。国司としては安房守や近江守などに任命されています。

さらに頼茂は馬寮(めりょう:朝廷の馬を管理する部署)の最高官である右馬権頭を拝命。平安時代には名だたる武家が目指した栄誉ある官職でした。

 

一方で鎌倉幕府も最高の待遇で頼茂に答えています。

頼茂は坂東において三代鎌倉殿・源実朝家司(けいし:花柱を取り仕切る役職)を拝命。実朝とは個人的にも親しい関係を築いていました。

建保41216)年には、政所別当(最高官。定員は複数)に就任。いわば北条義時大江広元らと肩を並べる存在となっていたことがわかります。

 

頼茂は、摂津源氏の流れを汲む人物として絶頂期を迎えていました。

大内裏守護だけでなく、朝廷と幕府双方に官職で足場を築き、絶大な権勢と名望を誇っていたようです。

 

しかし頼茂の安穏とした日々は突如として終わりを告げることとなります。

承久元(1219)年1月、源実朝鶴岡八幡宮において右大臣就任の拝賀式に望みます。このときは頼茂も随行して儀式に参列していました。

 

実朝一行が儀式を終えて帰途に付いたとき、事件は起こります。

鶴岡八幡宮別当公暁(二代鎌倉殿・源頼家の子)が抜刀して実朝一向を襲撃。実朝は暗殺されてしまいました。

 

実朝の死によって源氏将軍は三代で断絶鎌倉幕府の行先には不穏な影が立ち込めていました。

火を放っての自害は抗議のため?源頼茂は謀反を企んだのか

平安京内裏図。頼茂らの一族が代々命をかけて守ってきた。

実朝襲撃事件後、頼茂は京の都に戻って大内守護の役目に戻っていたようです。

実朝には後継が不在であり、かねてから後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を鎌倉殿に据える約束がされていました。

 

しかし後鳥羽上皇は難色を示し、約束を反故にする気配を見せ始めます。

結果、九条家に連なる西園寺公経の外孫である「三寅(のちの藤原頼経)」が公卿の鎌倉殿に決定。そのまま坂東に派遣されています。

三寅はまだ2歳と幼く、結果的に幕府は執権・北条義時と尼将軍・北条政子らによって運営されていきました。

 

交渉に関しては、在京していた頼茂らの働きもあったものと考えられます。通常であれば、このまま平穏な時代が続くはずでした。

ところが後鳥羽上皇らは、鎌倉幕府の討幕を計画北条義時を討つべく院宣を発出準備を進めていました。

 

承久元(1219)年713日、命を受けた藤原秀康ら在京御家人が頼茂の宿舎としている昭陽舎を襲撃。頼茂は息子の頼氏らと応戦しますが、多勢に無勢でした。

やがて頼茂は仁寿殿(儀式や行事の観覧場所)の殿舎に篝火の火をかけて自刃。壮絶な最期を遂げました。享年は41と伝わります。

 

大内裏守護の頼茂が何故、在京御家人たちに襲撃されたのでしょうか。そこには複雑な事情が絡んでいました。

慈円僧正の日記『愚管抄』などでは、頼茂が将軍になろうとしたと記述。しかし鎌倉幕府の歴史書吾妻鏡』では後鳥羽上皇の意志に反いたことが指摘されています。

 

討幕計画を察知した頼茂が従わなかったから討伐された、と考えると合点がいきますね。

加えて事件には政治的対立も絡んでいました。

 

当時、藤原兼子後鳥羽上皇の乳母)は、西園寺公経と対立。三寅の鎌倉殿就任は、西園寺公経の政治的立場の上昇を意味していました。

つまり頼茂の事件は、三寅の鎌倉殿就任の妨害の一環として起こった可能性が指摘されています。

 

自害したとき、頼茂の放った火は激しく燃え続けました。

火災は仁寿殿から宜陽殿(御物や宝物の管理場所)や校書殿(文書の管理施設)まで延焼。宝物の多くが焼失してしまいました。

 

頼茂は大内裏守護として朝廷を守る役目を担っていました。

むしろ自刃して火を放ったことは、後鳥羽上皇に対する抗議の意味もあったのかも知れませんね。

 

 

○参考サイト

https://kotobank.jp/word/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E8%8C%82-1113210

 

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https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/namekawa.pdf

 

【藤原秀康】華麗なる一族の系図!承久の乱の京方総大将の人生に迫る

俵藤太こと藤原秀郷藤原秀康は秀郷の子孫と言われている。

藤原秀康系図から見る、華麗なる武官一族

藤原秀康の父方は、藤原北家か坂東武者か?

藤原秀康(ふじわらのひでやす)は、藤原秀宗の嫡男として生を受けました。生母は源(土岐)光基の娘です。

 

生年について詳しいことはわかっていません。しかし弟・藤原秀能(ふじわらのひでよし)は、元暦元(1184)年の生まれで同母弟とされています。

つまり早くとも秀康は、寿永21183)年には生まれていたことは確かなようです。

 

秀康の血脈と系図は、武家の名族である源氏平氏によって濃く彩られたものでした。

 

それではここで、日本の系図集である尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)を参考に秀康の一族を見ていきたいと思います。

 

秀康の一族は、大百足退治でも有名な藤原秀郷(俵藤太)を祖とする藤原北家秀郷流の家です(ムカデ退治については、絵本等を参考にしてください。すいません)。

 

父・藤原秀宗は、和田三郎平宗妙の子として誕生。藤原秀忠(秀康の祖父にあたる人物。実際は曽祖父)の外孫であったため、養子となって藤原姓を名乗ったとされています。

 

「和田三郎平宗妙って誰?」と思われますよね。このお方、実は鎌倉幕府初代侍所別当和田義盛さんの弟にあたる方なんです。

以下、軽めに分析してみましょうか。

 

  • 和田苗字。
  • 三郎通称。三男であったと思われる。義盛の通称は小太郎。
  • 和田氏(出身は相模の三浦氏)は坂東平氏の一族。公的な場所では「平〜」と名乗る。
  • 宗妙諱かあるいは僧籍に入ってからの名かと思われる。

 

尊卑分脈』は実際、いくつか間違いのある史料であるとも指摘されています。完全に信じることは難しいですが、正しいかどうか推測できます。

 

和田氏には、同じ三郎と名乗る「和田宗実」という人物がいました。宗実さんは和田合戦で北条方に味方して、和田方の朝比奈義秀に討たれています。

 

「あれ?宗妙さんと宗実さんて同一人物?」と思いますよね。実際にそう考えている研究者もいますが、違うとも言われています。

越後の和田一族の史料には、祖父の藤原秀忠らは登場しません。このことから繋がりがなかったかとも考えられています。

ただし、父・秀宗や弟の秀能と秀澄の名前から、坂東と繋がりがあったことは確かだと考えられています。

 

  • 秀宗秀(通り字)+宗(偏諱。烏帽子親は和田義盛の父・杉本義宗か?)
  • 秀能秀(通り字)+能(偏諱比企能員が烏帽子親か?)
  • 秀澄秀(通り字)+澄(偏諱三浦義澄が烏帽子親か?)

 

など、秀康の周辺には鎌倉殿の13人関係者が3も確認されています。和田氏との関係がない、というより、むしろ後世隠蔽されたという方が正しいのではないでしょうか(後述します)。

鎌倉幕府初代侍所別当和田義盛。秀康の大叔父にあたるとも言われる。

 

藤原秀康の母方は北面武士として朝廷に仕えた

一方、秀康の母方はどのような一族だったのでしょうか。源(土岐)光基(みなもとのみつもと)の一族についてみていきましょう。

 

よく聞く源氏と平氏ですが、そうでない武家と比べてどのような違いがあるかご存知ですか?

実は源氏も平氏も、天皇家の流れを汲んでいるですよ。

 

秀康の母方は、清和源氏頼光流の流れを汲む一族(美濃源氏)でした。美濃国土岐郡を本貫地として土着し、土岐の苗字を名乗ってもいます。

 

後の世ですが、土岐氏室町時代美濃国守護職を拝命。室町幕府内で四職(侍所所司を務める家柄)の一つにも数えられるほどに重用されました。さらに戦国時代には土岐氏の一族明智氏から明智光秀を輩出するなど、天下人に近い人間も生み出しています。

 

その土岐一族の嫡流たる立場が、秀康の母方の祖父・源(土岐)光基です。父・光信(秀康にすれば曽祖父)は白河法皇鳥羽法皇に仕えた北面武士(ほくめんのぶし:身辺警護役)でした。

 

光基は検非違使や左衛門尉として朝廷に出仕。その荒々しさは折り紙付きで、高陽院(鳥羽上皇の皇后)に仕える下級役人と乱闘事件を起こし、刀傷を負うほどでした。

 

保元元(1156)年7月、保元の乱が勃発。朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれての争いが始まりました。

光基の叔父・光保は後白河天皇方として鳥羽殿に参上。このことから、光基自身も後白河天皇方に従っていたと考えられます。

 

しかしそれで埋没する光基ではありません。程なくして、再び歴史の表舞台で名前を轟かせることとなります。

 

平治元(1159)年12月に平治の乱が勃発。後白河上皇院政派の藤原信頼が同派の信西を殺害した上、二条天皇の親政派と結ぶという事件が起きます。

河内源氏棟梁・源義朝(頼朝の父)は、藤原信頼の下に参集。信頼方の中心人物として活動していました。

 

光基は叔父・光保と共に当初は、信頼方として義朝の下に従軍。しかし途中で平清盛らに寝返り、三条殿襲撃に加わって功を立てています。

光基は戦後に後白河上皇の移送では護衛にも加わり、その罪を問われなかったことが見てとれます。

北面武士は、院(上皇法皇)の警護役。加えて直属の軍事力でもあった。

藤原秀康の名付け親の系図とは?

秀康の父方と母方が武家の名門である(可能性がある)ことを見てきました。では秀康自身の名前は、どのように決まったのか見ていきましょう。

 

  • 藤原にあたります。これとは別に本貫地や官職から苗字を名乗ることもありますが、姓と苗字は区別することが大事です。

 

  • 秀康にあたります。「秀」が父祖代々の通り字。「康」は烏帽子親などからもらった偏諱であると考えるのが妥当でしょう。

 

 

では秀康の烏帽子親は誰だったのでしょうか。記録が残されていないので、推測にはなりますが周辺の人物から考えてみたいと思います。

 

当時の男子は成人年齢(数え年で1115歳)になると、幼名を名乗るのをやめて通称と諱を名乗ることとなっていました。

 

例)鬼武者(幼名。元服前)源三郎頼朝(三郎は通称。頼朝が諱です)

 

烏帽子親というのは、いわゆる仮親です。実の親と並ぶほどの存在のため、誰でもなれるわけではありません。

身内の有力者や主君、家臣であれば信頼関係が強固で累代にわたって仕えた家ということになりましょうか。

 

さて、秀康の「康」の一字ですが、同時代に諱に使用した人間は複数おります。その中で近いだろうなぁ、と思う人物を挙げてみます。

 

 

 

康頼さんも知康さんも、ともに北面武士でした。秀康の母方とも面識や交流があっったことは想像に難くありません。

 

ただ、秀康の幼少期に知康さんは京から鎌倉に下っています。帰還したのは建仁31203)年以降なので、知康さんではないと思われます。

 

では康頼さんだとすると、どうでしょうか。

伝承によると、康頼さんは承久21220)年ごろに自分の生涯(75年間)を記録したと伝わります。

当時の年齢は数え年なので、康頼さんの生年は久安21146)年ごろとなります。

 

先述の通り、秀康の生年は1183年以前です。これを11801183年でシュミレーションしてみましょう。

元服が満年齢11歳だとして、儀式は11911194年です。このとき、康頼さんは4548歳ごろになりますね。

 

仮親は、烏帽子子(えぼしこ:この場合は秀康)の将来的な庇護や援助も約束された存在です。

年齢や立場から言っても丁度良いのではないでしょうか。

 

ということで結論は、藤原秀康の烏帽子親は平康頼である(可能性がある)ということを指摘しておきます。

元服時に被る烏帽子。加冠役(烏帽子親)は有力な人物が選ばれた。

藤原秀康承久の乱に至るまでの道筋〜出世街道

後鳥羽上皇から抜擢され、左兵衛少尉となる

藤原秀康は、藤原北家出身として順調に出世街道を歩んでいきます。

 

建久71196)年、朝廷内部で政変が勃発。関白・九条兼実らが罷免され、鎌倉幕府と近い公卿が追放されました。世に言う建久七年の政変です。

この政変の後、皇子(土御門天皇)に譲位した後鳥羽上皇院政を開始します。

 

治天の君である後鳥羽上皇は、人事改革に着手。ここで抜擢されたのが藤原秀康でした。

秀康はおよそ15歳ごろに内舎人天皇に近侍する役職。身辺警護役)に抜擢。正六位上に叙任されています。家柄や能力はもちろんですが、後鳥羽上皇から信頼されていたことが窺えます。

 

その後も秀康は武官としての道を歩んで行きました。

建久91198)年、秀康は左兵衛権少尉を拝命。左兵衛少尉が所属する衛門府は、天皇の居住する内裏の内側を警備する部署でした。

このときは権官(定員外の官職)ではありましたが、翌建久101199)年には正式に左兵衛少尉となっています。左兵衛少尉は定員が2名であり、秀康の能力や家柄が認められての任官でした。

秀康は先祖が北面武士西面武士として朝廷に仕えています。公家というよりも武家としての側面が強く、むしろ異質な存在であったことが予想されます。

後鳥羽上皇。秀康の抜擢と昇進に深く関わった。

国司としてのキャリアを形成する

秀康は武官職として官途を歩みながら、国司(地方官)としての経験も積んでいました。

元久元(1204)年ごろ、秀康は従五位下に叙任。貴族(五位以上)として殿上人(清涼殿に昇殿できる地位)にまで上り詰めます。

元久21205)年には下野守(現在の栃木県知事)に就任。国司としてのキャリアをスタートさせました(実際に赴任したかどうかは定かではありません。悪しからず)。

 

「1192作ろう鎌倉幕府」というお言葉を聞いた方もおられると思います(最近は1185年らしいです)。そうです。もう時代は鎌倉時代に入っており、坂東(関東)は鎌倉幕府の勢力下にありました。

下野国はかつて源義朝(頼朝の父)が国司を務めた国です。後鳥羽上皇があえて秀康を下野守にしたのには意味があったと考えるべきでしょう。

 

これは後の後鳥羽上皇や秀康の行動からの予想ですが

「いずれ鎌倉幕府は潰す。そのための下準備が必要だ」と考えていても不思議はありません。

そして後鳥羽上皇は、秀康を単純な武官として考えてはいません。むしろ地方に勢力を扶植して、自分の力となって欲しいと考えていたようです。

 

建永元(1206)年、秀康は河内守に転任。今度は朝廷の支配が及ぶ地域の国司です。

 

転任と言うと、場合によってネガティブに聞こえます。しかし秀康は確実に栄転していました。

 

赴任する国にはそれぞれランクがあり、上から大国上国中国下国(小国)となっています。

上であればあるほど、人口や経済力が潤沢。土地の面積も広く、豊かな国として位置づけられていました。

 

 

 

承元41210)年ごろ、秀康は上総国(現在の千葉県中央部)の次官・上総介(かずさのすけ)に就任。同地は坂東において要地中の要地でした。

後鳥羽上皇としては、鎌倉幕府の支配を揺るがせにする思惑があったことは想像に難くありません。

 

このとき、秀康は赴任して早々、上総国の役人によって「横暴」によって鎌倉幕府に訴えられたと伝わります。

しかし後鳥羽上皇の側近である秀康を罰することは容易ではありません。結局は処罰されることはありませんでした。

 

秀康としてはあえて諍いを起こし、幕府の反応を見た可能性もあります。だとすれば、武官だけでなく政治家としての能力も持ち合わせていたことになります。

上総介であった上総広常。坂東随一の勢力を持っていた。

栄達を極めた藤原秀康と不穏な鎌倉

秀康の栄達ぶりは、京の都でも話題となっていました。

建暦31213)年、秀康は洛中の諸寺修復事業に参加。多額の寄付金を納めたと伝わります。

名だたる国の国司を務めたことで、秀康の身入りも充実していたことは確かなようです。

 

同年には、京とは対照的に鎌倉では不穏な情勢となっていました。以下、少しだけ見てみましょう。

このとき、鎌倉では北条義時が政治的権力を掌握。反対する御家人たちを次々と粛清していました。

侍所別当和田義盛は北条氏に対して挙兵。和田一族が将軍御所に討ち入る事件に発展しています。世にいう和田合戦です。

 

大河ドラマで義盛が「上総介にして欲しい」と、源実朝に頼んだシーンがありましたね。あの前後は、秀康が上総介だったはずです。

仮に義盛が上総介に任官を求めれば、鎌倉方と京方との政治的諍いにも発展しかねません。

そういう裏事情もあったんだなぁ、という視点で見てみると面白いですね。

 

加えて同年には坂東で大規模な地震が発生。鎌倉でも建物が次々と崩落して地割れが起きたとの報告もあります。

御家人が粛清されそうになったり政治的情勢は不穏な気配を怯えていました。怖い怖い

和田合戦の様子。戦後、執権北条氏の専制体制が固まった。

盗賊退治と右馬権助任官

順調に昇進を重ねた秀康でしたが、少しずつ別な道を歩み始めていくこととなります。

 

建保31215)年ごろ、秀康は伊賀守に就任。翌建保41216)年には淡路守となりました。

 

伊賀国と淡路守は、共に下国(小国)です。上国や大国の国司を務めた秀康からすれば、左遷?と思うような人事でした。

「あれ?秀康さん、もしかして後鳥羽上皇に嫌われちゃった?」と思う方もいらっしゃるかと思います。実際は違うようです。

 

先述しましたが、坂東の鎌倉幕府北条義時らによって固められていました。対立する御家人はほとんどいません。

加えて坂東は鎌倉幕府の勢力圏です。北条氏を中心とする勢力が国司の独占傾向を強め始めており、かつて国司を務めた下野国上総国も、国司となるのには難しい状況だったのかも知れません。

実際にこの前後には、鎌倉の御家人・千葉常秀が上総介に就任。京方の付け入る隙は無かったようです。

 

 

しかし秀康は自分の状況を不遇だとは嘆いていませんでした。むしろ以前より職務に精励するようになります。

この頃、京の都では盗賊が出現。武官出身でもあった秀康は、弟・秀澄と共に盗賊たちを追捕します。

 

盗賊たちは一網打尽にされ、京の都には平穏が訪れました。めでたしめでたしで終わるわけがありません。

秀康は盗賊たちが奪った品々を確保。全て持ち主に返して、その清廉さを周囲に印象付けました(カッコイイです、秀康さん)。

 

程なくして秀康は馬寮(めりょう)の次官・右馬権助(うまのごんのすけ)を拝命(権官ですが立派です)。朝廷の軍馬の管理にあたる役職を与えられます。

馬寮は、かつては武家にとって憧れの官職でした。長官職である左馬頭(さまのかみ)や右馬頭(うまのかみ)には、源氏や平氏から名だたる武士たちが就任しています。

しかも近衛大将(このえのたいしょう:左と右がある)との兼務が通常で、従三位相当の役職となっていました。

 

秀康はこの瞬間、実質的に公卿(官位が従三位以上)と認定されたことになります。加えて国政に対して意見を言える立場となっていたのです。

公卿は国政において強い発言力を有していた。

藤原秀康承久の乱で京方総大将に抜擢される

藤原秀康源頼茂粛清に動く

大河ドラマ鎌倉殿の13』を見ていて、次々と人が死んでいきますよね。あれは鎌倉方だけではなく、京方でも行われていました。

その粛清の実行役となったのが、他ならぬ藤原秀康だったのです。

 

まずはその前に鎌倉の情勢から見ていきましょうか。

建保71219)年127日、鎌倉殿・源実朝は右大臣就任を祝う拝賀式のために鶴岡八幡宮に参拝。儀式を終えて帰途に着いた瞬間、事件は起こりました。

実朝の甥・公暁(こうぎょう)が実朝一行を襲撃。実朝は太刀持の源仲章と共に暗殺されてしまいました。

公暁は先代鎌倉殿・源頼家の息子です。襲撃の際、公暁は「親の仇はかく討つぞ!」と叫んでいたと記録には残ります。

実際は実朝と北条義時(本来は太刀持を務めるはずだった)を襲撃するはずだったと言われてきました。

事件の背後には、実朝を排除しようとした御家人たちの動きがあったとも言われています。

公暁も程なくして御家人三浦義村によって殺害。この時点で源氏将軍の家系は途絶えてしまいました。

 

しかし鎌倉方も何も手を打っていなかった訳ではありません。

事件より先、実朝の生母・北条政子らは上洛。実朝に後鳥羽上皇の皇子(頼仁親王)を養子に迎える約束を取り付けています。

 

源氏将軍が途絶えたことで、本来であれば頼仁親王が鎌倉に赴くこととなっていました。ところが後鳥羽上皇は難色を示し始めます。

それどころか後鳥羽上皇は鎌倉方に対して挑発的な行動を開始。少しずつ京方と鎌倉方の対立は激化していくのです。

 

やがて将来の鎌倉殿が九条家の血を引く三寅(みとら:後の九条頼経)に決定。しかし不満も渦巻いていました。

 

承久元(1219)年7月、鎌倉方の大内裏守護源頼茂(みなもとのよりもち)が京方と武力衝突。秀康は兵を率いて鎮圧に出動しています。

追い詰められた頼茂は、内裏に放火した上で自害。火事によって仁寿殿などの広い範囲が消失してしまいました。

愚管抄』などでは頼茂が将軍職に就任するべく決起したと説明。しかし本当かどうかはわかっていません。

頼茂は三寅の鎌倉殿就任に関しての政争に巻き込まれ、謀反人として粛清されたとも考えられています。

三代鎌倉殿・源実朝。彼の死によって、再び争乱の幕が開くこととなる…

京都守護・三浦胤義を京方に調略する

鎌倉方との対立が激しくなると同時に、秀康は京方の中心人物として活動していきます。

 

このとき、京には御家人三浦胤義京都守護として赴任していました。

胤義の父・三浦義澄は源頼朝死後に宿老に抜擢。胤義の兄である三浦義村も宿老を務め、北条義時とは従兄弟の関係にありました。

いわば胤義は「バチバチの鎌倉方の人物」ということになりますね。しかし秀康は胤義に接近します。

 

胤義は鎌倉方の要人でありながら、執権北条氏の専横に対して快く思っていませんでした。

胤義の妻は、かつて二代鎌倉殿・源頼家の側室でもあった人物です。しかし北条氏によって頼家は殺害され、間に生まれた子供も殺されています。

悲嘆に暮れる妻を見ていて、胤義は北条氏に対する憎しみを募らせていったようです。

 

武官である秀康ですが、人を見抜く力を調略する手法は心得ていました。北条氏と鎌倉方を倒すべく話し、三浦胤義を京方の協力者とすることに成功します。

そして遂に京方による武力蜂起が本格していくのです。

 

承久31221)年5月、後鳥羽上皇北条義時追討の院宣上皇法皇による命令文書)を発出。しかし京都守護・伊賀光季北条義時の義兄)は従いませんでした。

京方の兵は高辻京極にある伊賀光季の宿所を襲撃。自害に追い込むことに成功します。

秀康は三寅の外祖父・西園寺公経を捕縛。身柄を拘束するに及びます。

 

さらに挙兵に際して、秀康は配下・押松丸を鎌倉に派遣。鎌倉の御家人たちを離反させるため、北条義時追討の院宣を持たせていました。

二代執権・北条義時。将軍を凌ぐほどの絶大な権勢を誇った。

京方の総大将・藤原秀康美濃国に出陣する

秀康の従者・押松丸は、やがて京の都に帰還し、思いがけない知らせをもたらします。

鎌倉方が軍勢を動かして、京へ攻め上ろうとしているというのです。

院宣がもたらされた鎌倉では、北条政子御家人らに演説を展開。頼朝の恩顧を強調し、秀康らを討つべきだと主張します。

このとき、鎌倉方では秀康を三浦胤義と並んで京方の中心人物だと認識していました。

 

このとき、後鳥羽上皇流鏑馬揃えと称して西日本から軍勢を招集。京方にはおよそ2万ほどの軍勢が集まっていました。

対する鎌倉方は、進発時にはわずか18騎。しかし道々で軍勢は膨れ上がり、鎌倉方は総勢で19万騎にまで増えていました(戦力差、すげえ…)。

 

当然、京方はこの情勢に狼狽したと思われます。

後鳥羽上皇は秀康を総大将(大将軍)に任命鎌倉幕府の軍勢を迎撃すべく、出撃するように命じました。

秀康は弟・秀澄らと17500騎を率いて美濃国に進軍尾張国の国境にある尾張川沿いに布陣していました。

秀康の母方が美濃国土岐氏であるため、土地勘があった可能性は十分にあります。加えて美濃国は東西交通の要衝であり、戦いの最前線となる土地でした。

 

歴史ある武家の流れを汲む秀康です。武官や国司として順調にキャリアも積んできています。しかし秀康は味方や敵が想像しない失態を犯していました。

あろうことか兵力で劣る京方の軍勢を、分散させて布陣させるという失敗をしてしまいます。

 

承久31221)年65日、京方と鎌倉方は衝突。京方の高桑大将軍が討ち取られるという結果を招きます。

秀康は胤義らと共に撤退を決意。承久の乱が鎌倉方の大勝という流れを決定づけてしまいました。

承久の乱関係図。出典:ウィキペディア(著者:味っこ)

承久の乱終結と戦後処理

京に退いた後も、秀康は巻き返しを諦めてはいませんでした。

すでに京方の兵力は2400騎まで減少。後鳥羽上皇の周囲にはそのうち1000騎が配置され、前線にはわずか1400騎しかいません。

 

秀康と三浦胤義は宇治・瀬田に軍勢を展開宇治川の防衛ラインを死守すべく、迎撃体制を整えていました。

 

613日、京方は鎌倉方と再び衝突。秀康らは宇治川にかかる橋を落とし、弓矢で防ぐ策を採用します。

しかし翌日、鎌倉方の佐々木信綱が渡河に成功。鎌倉方によって宇治川の防衛ラインが突破され、兵力に劣る京方は総崩れとなってしまいます。

 

秀康と三浦胤義は京に敗走。院御所(いんのごしょ:上皇の御所)に立て籠ろうとします。しかし院御所の門は固く閉ざされていました。

それどころか、後鳥羽上皇は鎌倉方に使者を派遣。「謀臣たちが勝手にやった」ことだと切り捨てました。そして秀康らの追討を命じる院宣が下されました。

 

完全に見捨てられた秀康らは、洛中の東寺に立て篭もります。

やがて鎌倉方の三浦義村の軍勢が東寺を包囲。三浦胤義は兄である義村に一騎討ちを所望しますが、応じることはありませんでした。

 

胤義が東寺で自害して果てると、秀康らは敗走。しかし共にいた味方は次々と殺害され、あるいは自害していきました。

 

秀康は一時は弟・秀澄と共に南都(奈良)に逃亡。やがて旧領である河内国に潜伏しますが、鎌倉方に捕らえられてしまいました。

 

承久31221)年1014日、秀康は秀澄らと共に京で斬首。かつて栄華を極めた藤原北家秀郷流の貴公子は、謀反人としての汚名を着ることになってしまいました。

 

非常に有能であった藤原秀康でしたが、時代や環境が違えば、違う形で歴史に名を残していたはずです。

しかし国司や盗賊退治といった功績は、歴史の中に残されています。秀康がこの国をよくしようとしたことは、紛れもない事実なのです。

秀康が戦った瀬田の唐橋。出典:ウィキペディア(著者:Bakkai)



 

参考サイト

 

  • 承久の乱で鎌倉方(幕府)はなぜ勝てたのか」玉川学園HP

http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/joukyu/index.html

 

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  • 樽瀬川「戦経験ゼロで総大将にされちゃった藤原秀康!超エリートのしくじりから学ぶこととは」和楽HP

https://intojapanwaraku.com/culture/100245/

 

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2097

 

https://www.city.ichinomiya.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/052/356/miyamae.pdf

 

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【三浦光村(駒若丸)の妻】夫婦の出会いと悲しい別れの物語に迫る!

三浦光村の妻は『吾妻鏡』として絶世の美女と言わしめたほどであった。



 

三浦光村の妻、その前歴〜北面武士・藤原能茂の娘として生まれる〜

後鳥羽上皇に寵愛された北面の武士・藤原能茂の娘として生を受ける

 

駒若丸こと三浦光村は、正室藤原能茂(ふじわらのよしもち)の娘を迎えていました。まずは藤原能茂について紹介していきましょう。

 

藤原能茂は、後鳥羽上皇に仕えた人物です。

能茂は藤原氏出身でありながら、北面武士(ほくめんのぶし:上皇の護衛)として出仕。元服前から後鳥羽上皇の親衛隊として活動していました。

 

娘である三浦光村の妻について、吾妻鏡では「絶世の美女」として形容しています。その父親である能茂も相当な美男子であったことは想像に難くありません。

 

後鳥羽上皇は、そんな能茂に対して特別に目をかけます。一緒に蹴鞠をしたり、荘園を与えるなど側近の中で特に厚遇していました。

 

藤原氏出身であることに加え、後鳥羽上皇から信任を受けていたことで、能茂の将来は約束されたものだったのです。

しかし能茂の置かれた環境は、時代の趨勢によって一変します。

 

北面武士上皇の親衛隊であり、直属の軍事力であった。

 

承久の乱後、能茂は出家して西蓮を名乗る

 

承久31221)年、京方の後鳥羽上皇鎌倉幕府執権・北条義時を討つべく院宣を発出。鎌倉方の武士たちとの間で承久の乱が勃発しました。

このとき、おそらくは能茂も北面武士として京方の一員として参加したと考えられます。

ところが京方は鎌倉方に大敗。主戦派に付いた京方の武士たちはあらかた自害、あるいは処刑されてしまいます。

首謀者である後鳥羽上皇隠岐国への配流が決定。その時、後鳥羽上皇が希望したのが藤原能茂との面会でした。

 

京方に付いたことからでしょうか、能茂は剃髪して出家。僧名を「西蓮」と名乗っていました。

後鳥羽上皇は能茂を見て出家を決意。やがて隠岐国へ流されていきました。

 

隠岐島に流された後鳥羽上皇は、京にいる能茂に歌を送ります。

「都より 吹きくる風も なきものを 沖うつ波ぞ 常に問いける」

 

能茂は後鳥羽上皇に対して返歌を認めます。

「すず鴨の 身とも我こそ 成らぬらめ 波の上にて 夜を過ごすかな」

 

『鎌倉殿の13人』の中に、源実朝北条泰時の歌や返歌のやり取りをするワンシーンがありましたね。通常、返歌は贈られた歌に対してのものです。そこには特別な間柄を感じさせる何かがありますね。

 

延応元(1239)年220日、後鳥羽上皇隠岐島崩御。遺体は能茂によって火葬されます。

能茂は後鳥羽上皇の遺骨を守って帰京。後鳥羽上皇のいた水無瀬離宮の隣に西蓮寺を建て、後鳥羽上皇の菩提を弔いました。

 

後鳥羽上皇は、藤原能茂を厚く信頼していた。



宝治合戦勃発!三浦光村とその妻は互いに小袖を交換して別れを告げる

三浦光村とその妻の出会い

 

さて肝心の三浦光村と、その妻の出会いについて触れていきましょう。

承久の乱では、京方の中心人物として三浦胤義が活動。胤義は三浦義村の弟で、光村にとっては叔父にあたります。

同じく京方中心人物の藤原秀康には、和田氏(三浦氏の一族)の血が流れているなど、三浦氏と京方との繋がりは非常に強いものでした。

 

元久元(1205)年に三浦光村は出生。当時の武家の男子の元服は数え年で1116歳(満年齢で1115歳)です。

通常は建保41216)年に元服してもおかしくはありません。しかし光村は三男(四男とも)であったため、嫡男ではなく元服が遅れた可能性があります。実際、この年は駒若丸と名乗っていたことが確認されています。

 

建保71219)年、仕えていた公暁が将軍・源実朝を暗殺。その後公暁も命を奪われてしまいました。おそらくこの後、元服して光村と名乗ったと推測されます。

 

 

承久31221)年、承久の乱が勃発。京方は鎌倉方に敗れ、後鳥羽上皇隠岐国へ流されてしまいました。

承久の乱の年、光村はまだ16歳(数え年)の若者です。おそらくはこれ以降に妻である藤原能茂の娘と出会ったと推察されます。

乱後に藤原能茂は出家しており、後鳥羽上皇に近い立場から鎌倉幕府からも警戒されていたはずです。

その娘を妻に娶ることは、光村にとって執権北条氏らから疑いの目を持たれることになります。

しかし光村はそんなことは気にせず、藤原能茂の娘を正室に迎え入れ、仲睦まじく暮らしていました。

 

三浦光村の妻(藤原能茂の娘)に関しては、史料がないので確かな年齢は分かりません。しかし光村とおそらく同年代か、いくらか若い年齢だとは推測されます。

光村は任務で京を訪れこともあったため、二人は順調に愛を育んでいったようです。

鎌倉幕府3代将軍・源実朝。実朝の死によって、承久の乱が始まった。



 

光村の妻、嫡男・駒王丸に恵まれる

 

結婚した光村と妻との間には嫡男・駒王丸が生まれ、二人は幸せな家庭を築いていました。

 

しかし鎌倉幕府の内部では、勢力争いが激化の一途を辿りつつありました。

仁治31242)年に、3代執権・北条泰時が病没。泰時の嫡孫・北条経時が執権となります。

その経時も寛元41246)年にわずか22歳で病没。5代執権に経時の弟である北条時頼(ほうじょうときより:時宗の父)が就任するなど、北条得宗家は揺るぎつつありました。

 

当時の鎌倉幕府は、執権と連署(執権の補佐役)、及び11人の評定衆によって意思決定がされていました。

 

ところが時頼が執権に就任した時には、三浦泰村(光村の兄)が評定衆の一人として北条氏と対立。火種が燻っていました。

かつて鎌倉幕府創立に尽力した三浦氏は、北条氏と並び立つほどに強大化。幕府を二分するほどの存在となっていたのです。

 

さらに光村は苦しい立場に立たされていました。

時頼の執権就任後、光村の烏帽子親である北条氏の庶流である名越光時が挙兵を計画。事前に察知されて隠居に追い込まれるという事件が起きます。世にいう宮騒動です。

当時の鎌倉幕府4代将軍・九条頼経は事件に絡んで追放。事件には光村も関与していましたが、許されて罪を問われませんでした。

光村は京に護送される頼経の警護を担当。涙にくれながら「再び鎌倉の将軍に致します」と頼経に誓ったとされます。

光村はその後、護送先の京で九条道家と接近。次第に北条氏に危険視されていくのです。

鎌倉幕府5代執権・北条時頼。光村ら三浦氏との対立は激化していく…



 

 

宝治合戦と小袖の交換をしての別れ

 

宮騒動の鎮圧後、鎌倉幕府の内部では北条氏と三浦氏が反目していきます。

光村は5代将軍・九条頼嗣(頼経の子)と接近。より反北条氏の姿勢を鮮明にしていました。

 

執権・北条時頼は穏健な路線を堅持しており、三浦氏との妥協案を探り続けていました。対して三浦泰村も和睦を結ぶべく考えていたようです。

しかし光村は違いました。あくまでで武力挙兵によって北条氏を打倒すべしと兄・泰村に進言します。

 

宝治元(1247)年6月、執権に近い安達景盛らが三浦氏に攻撃。鎌倉を二分する争いが始まりました。世にいう宝治合戦の始まりです。

光村は陣頭で戦いますが、泰村はあくまで和平を望んでいました。

戦況は北条氏側が有利なままに推移。それでも三浦氏の惣領・泰村は挙兵に慎重なままでした。

 

光村はこの事態に後悔を無念さを滲ませています。そして光村の妻と互いの小袖を交換し、最後の別れを告げました。

少しずつ三浦勢は追い詰められ、源頼朝墓所がある法華堂まで追い詰められます。

光村は自分の首が北条氏に取られることを嫌い、刀を抜いて自らの顔を切り刻みました。

そのまま光村は兄・泰村、郎党らと法華堂に火を放って自害。43年の生涯を閉じました。

 

戦後、三浦氏の縁者らは幕府から事情聴取を受けています。その中には光村の妻の姿もありました。

光村の妻は小袖のことを涙を流しながら話します。小袖には夫の匂いがまだ残っていると話していたそうです。

 

光村の子供たちは、そこからどうなったのでしょうか。

嫡男・駒王丸は宝治合戦によって死亡。妻のお腹の中には光村の子が宿っており、程なく生まれたと推察されます。

その後、三浦一族の生き残りは鎌倉から追放されました。

しかし光村の妻や生まれた子については、詳細なことはわかっていません。京に戻ったのか、それともどこか別の地で暮らしたのか。

確かなことは、光村が妻と子供たちを愛し、そして自らが信じた道に殉じたということだけです。

 

三浦光村とその妻の物語は悲劇的な結末であった…

 

 

 

 

○参考文献

 

 

  • 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史:その発祥から江戸期まで』 新人物往来社 2007