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【千鳥かまいたちでサイゼリヤ】「格安の裏側」!なぜ安い?1号店と驚きの歴史を徹底解説

「どうしてサイゼリヤは、こんなに安いのだろう?」

サイゼリヤで食事をしたことがある人なら、一度くらいはそんな疑問を抱いたことがあるのではないでしょうか。

令和8(2026)年9月16日放送の『千鳥かまいたちゴールデンアワー』では、そんなサイゼリヤの「格安の裏側」が取り上げられます。

番組は「全国早押しクイズ ちどかま事件簿」の2時間スペシャル。番組情報では、大人気チェーン店・サイゼリヤの1号店にまつわる問題や、「サイゼに詳しすぎるおじさん」が登場して秘密を語ることが予告されています。放送は日本テレビ系で9月16日午後7時から午後9時までです。

サイゼリヤといえば、ミラノ風ドリアをはじめ、気軽に注文できる価格のイタリア料理で知られています。

しかし、その安さは「食材を安く仕入れているから」という一言だけで説明できるものではありません。

実はサイゼリヤの低価格路線をたどっていくと、昭和42(1967)年に千葉県市川市・本八幡の小さな店舗から始まった創業史、価格を一気に引き下げた大胆な実験、直輸入、自社工場、物流改革、計画生産など、半世紀以上にわたる試行錯誤が見えてきます。

では、なぜサイゼリヤは格安価格を実現できるのでしょうか。

『千鳥かまいたちゴールデンアワー』で注目される1号店の秘密とともに、その歴史をひも解いてみましょう。

 

 

千鳥かまいたちでサイゼリヤ「格安の裏側」を紹介

千鳥かまいたちゴールデンアワーでサイゼリヤを特集

令和8(2026)年9月16日の『千鳥かまいたちゴールデンアワー』は、「全国早押しクイズ ちどかま事件簿」の2時間スペシャルとして放送されます。

MCは千鳥とかまいたち。

ゲストには広瀬アリスさん、藤本美貴さん、鈴木福さん、神田愛花さん、タイムマシーン3号、とにかく明るい安村さん、紅しょうがらが出演。VTRにはU字工事が登場します。

番組ではサイゼリヤだけでなく、大阪桐蔭高等学校吹奏楽部の協力による「夏の甲子園応援で最も熱くなる楽器」をめぐる問題や、ポメラニアンの警察犬、「サッポロ一番」にまつわる秘密など、身近なものに潜む「なぜ?」がクイズ形式で紹介される予定です。

その中でも気になるのがサイゼリヤ。

番組表では、

「大人気チェーン店『サイゼリヤ』1号店は○○になっていた!」

という問題が予告されています。

さらに、その場所に「サイゼに詳しすぎるおじさん」が現れ、サイゼリヤの秘密を語ることも明かされています。

身近なファミリーレストランだけに、「サイゼリヤはなぜ安いのか」「1号店はどこにあるのか」と気になった人も多いでしょう。

しかし、この疑問を調べていくと、単なる飲食チェーンの裏話にとどまらない、興味深い企業史が浮かび上がってきます。

番組で注目される「サイゼリヤ1号店」とは?

サイゼリヤの原点は、東京でも大阪でもありません。

千葉県市川市の本八幡です。

サイゼリヤ公式の採用サイトによれば、昭和42(1967)年、まだイタリア料理が現在ほど一般的ではなかった時代に、八百屋の2階にあるわずか15坪ほどの店舗から歴史が始まりました。

現在、全国各地で見られる大きなサイゼリヤ店舗からは想像しにくい、小さな店が出発点だったのです。

そして、その創業店舗は現在、通常のレストランとして営業しているわけではありません。

旧1号店は「サイゼリヤ1号店教育記念館」として保存されています。

所在地は千葉県市川市八幡2丁目。創業当時の店舗空間や資料などが残されています。

つまり番組で予告されている、

「サイゼリヤ1号店は○○になっていた」

という問題の背景には、創業地を保存し、サイゼリヤの歴史を伝える場所として残してきた事情があります。

ただし、番組が実際にどのような表現で正解を発表し、どの部分を紹介するのかについては、放送内容を確認する必要があります。

「サイゼに詳しすぎるおじさん」は誰?

もう一つ気になるのが、予告に登場する「サイゼに詳しすぎるおじさん」です。

番組表には、

「そこに現れたサイゼに詳しすぎるおじさんが秘密を語る」

とあります。

しかし、放送前に公開されている番組情報では、この人物について氏名まで明記されていません。

サイゼリヤの創業者は正垣泰彦氏ですが、だからといって「謎のおじさん=正垣氏」と決めつけることはできません。

教育記念館にはサイゼリヤの歴史を知る関係者も存在しますし、番組独自の案内役である可能性もあります。

したがって、現段階では人物の正体を推測して断定するのではなく、

「放送で明らかになる部分」

として扱うのが妥当でしょう。

一方、人物の正体が誰であっても、その人物が語ると思われる「サイゼリヤの格安の裏側」については、サイゼリヤ自身がかなり詳しく公開しています。

ここからは、それを見ていきましょう。

サイゼリヤはなぜ格安?安さを実現できる秘密

素材調達から店舗まで自社でつなぐ「製造直販」

サイゼリヤが低価格を実現できる最大の鍵の一つが、製造直販という考え方です。

通常、飲食店で料理が提供されるまでには、多くの企業や事業者が関係します。

農家や生産者が食材をつくり、卸売業者が仕入れ、食品メーカーが加工し、物流会社が運び、それを飲食店が購入して料理する。

それぞれに役割がありますが、工程が増えれば、それだけ途中のコストも発生します。

サイゼリヤは、この一連の流れに自ら深く関与します。

同社によると、素材開発や原料調達から加工、配送、そして店舗での提供までを一貫して手掛ける仕組みが製造直販です。

自ら工程を管理することで、どの品質の原料を使うのか、どのように加工するのか、どのように運ぶのかを管理できるだけでなく、不要なコストを減らすことも可能になります。

言い換えれば、

「安い材料を買う」

ことより、

「料理がお客に届くまでの仕組みそのものを変える」

ことを目指しているわけです。

これはサイゼリヤの安さを考える際に、非常に重要なポイントです。

自社工場で加工して店舗での作業を減らす

製造直販を支えているのが、サイゼリヤの自社工場です。

公式サイトでは、国内外の工場を活用して、店舗で提供するさまざまな食材の加工や仕分けなどを行っていることが紹介されています。

平成9(1997)年には吉川工場が稼働。その後も神奈川工場や福島工場、オーストラリア工場、兵庫工場、千葉工場など、生産・物流体制を拡大してきました。

ここで重要なのは、工場を持つ目的が単純な大量生産だけではないことです。

たとえば店舗で一から食材を加工しようとすれば、下処理をするための設備、人員、時間、保管スペースなどが必要になります。

同じ料理でも、店舗ごとに調理工程が複雑であれば、味や仕上がりに差が出る可能性もあります。

そこで工場側で、店舗が調理しやすい状態まで加工して届ける。

そうすれば、店舗では最終的な調理や仕上げを中心に作業できます。

サイゼリヤによれば、この仕組みによって調理の手間を軽減するとともに、片付けや保管もしやすくなり、品質の安定や提供時間の短縮にもつなげています。

安さと速さと品質。

一見すると同時に成立させるのが難しそうな三つの条件を、「店舗で頑張る」のではなく、工場から店舗まで含めて設計することで実現しようとしているのです。

「計画生産」で食品ロスや無駄を減らす

もう一つ重要なのが、計画生産です。

飲食店にとって難しい問題の一つが、需要予測でしょう。

食材を大量に仕入れたものの売れなければ、廃棄が生じるかもしれません。

逆に少なすぎれば品切れになります。

しかも、生鮮食品は長期間保存できないものも少なくありません。

サイゼリヤでは長年販売している人気商品を中心に扱うことで、販売数を予測しやすくしています。

何が、いつ、どれほど売れるのか。

それまで蓄積してきた販売実績などから必要量を見積もり、それに合わせて原料調達や生産を行います。

サイゼリヤはこれを「計画生産」と説明しています。

これは低価格を考える上で非常に重要です。

どれだけ食材を安く仕入れても、大量に廃棄してしまえば意味がありません。

反対に、必要な量を必要な時期につくり、効率よく運び、店舗で使い切れれば、食品ロスや保管コストを減らせます。

「安さ」と聞くと、つい仕入れ値だけに注目してしまいます。

しかしサイゼリヤの場合、

生産する。

加工する。

保管する。

運ぶ。

店舗で調理する。

提供する。

という一連の工程全体から無駄を減らしているのです。

産地との関係も価格を支えている

さらにサイゼリヤでは、野菜などについて契約産地との供給体制づくりも進めています。

公式サイトでは、契約農家と規格や購入量を決め、年間を通じて安定して出荷できる仕組みを構築しているとしています。

また、見た目や大きさだけではなく鮮度を重視する規格を設けることで、産地で廃棄される野菜を減らす取り組みも行っています。

ここでも、単純に

「安い野菜を探して買う」

という発想ではありません。

必要量を見通せるなら、生産者側も計画的に生産できます。

店舗側も安定して食材を確保できます。

つまり、価格を抑えるためには、厨房だけではなく畑の段階から仕組みをつくらなければならない。

これがサイゼリヤの特徴といえるでしょう。

サイゼリヤの格安価格は創業時から始まっていた

昭和42(1967)年、本八幡の小さな店舗からスタート

では、この低価格へのこだわりはいつ始まったのでしょうか。

実は、その原点は半世紀以上前にまでさかのぼります。

昭和42(1967)年、サイゼリヤは千葉県市川市本八幡でスタートしました。

公式サイトによれば、場所は八百屋の2階。

店舗面積はわずか15坪ほどでした。

当時の日本では、現在のようにイタリア料理が日常的な外食として浸透していたわけではありません。

「パスタを食べに行く」「イタリアンで気軽に食事をする」という現在では当たり前の習慣も、まだ一般的とはいえない時代でした。

しかも、目立つ立地の大型店ではありません。

八百屋の2階にある小さなレストランです。

サイゼリヤ公式の創業史によれば、開店当初は思うように客が訪れず、さらに火事にも見舞われました。

その後、創業者の正垣泰彦氏はヨーロッパを訪れ、イタリアの食文化に触れます。

ローマで出会ったレストランで、料理単体ではなく、飲み物や料理を組み合わせて食事そのものを楽しむイタリア式の食文化に大きな影響を受けたとされています。

現在のサイゼリヤを見ると、完成された巨大チェーンのように感じます。

しかし、その始まりは「客が来ない小さな店」だったのです。

客が来ないため価格を相場の約3分の1へ

そんな創業期に、一つの大きな転機が訪れます。

それが価格です。

サイゼリヤ公式の採用サイトでは、創業当時に価格を相場の約3分の1にしたことが紹介されています。

「料理がおいしければ客は来る」

そう考えていたものの、現実には客が来ない。

では、何が問題なのか。

そこで価格を大幅に下げてみたわけです。

すると状況が変わりました。

客が集まり、行列ができるようになったのです。

ここでサイゼリヤは、後の経営を支える一つの考え方を得ます。

良い料理をつくるだけでは足りない。

消費者が、

「この価格なら注文したい」

と思える価格にする必要がある。

これは一見すると当たり前に思えるかもしれません。

しかし飲食店にとって、値下げは簡単な話ではありません。

価格を下げれば、一皿から得られる売上も減ります。

材料費や人件費が同じままなら、利益も減ってしまいます。

だからこそ、安くした上で経営を成立させる仕組みが必要になります。

サイゼリヤがその後、調達・加工・物流・店舗運営まで改革していく背景には、創業期から続く「注文しやすい価格」に対するこだわりがあったと考えると、歴史の流れが見えやすくなります。

安くしたことで行列ができる人気店へ

大幅な値下げによって客が増えたサイゼリヤは、店舗を増やしていきます。

昭和50年代には店舗数を増やし、多店舗化へ進みました。

公式の沿革では、昭和52(1977)年12月、千葉県市川市に第3号店となる市川北口店を開店し、多店舗化に着手したことが確認できます。

店舗が増えれば、同じ作業をそれぞれの店舗で繰り返すより、一カ所にまとめた方が効率的になる作業が出てきます。

こうした合理化の考え方が、後の製造直販につながっていったのです。

サイゼリヤの安さを支えた「合理化」の歴史

昭和62(1987)年ごろから店舗作業を改革

サイゼリヤは、食材だけでなく店舗での働き方についても合理化を進めました。

店舗数が増え、規模の大きな店舗も運営するようになると、大量の客をどう効率よく案内し、注文を受け、料理を提供するかが重要になります。

公式の沿革では、昭和62(1987)年10月、市川北口店で手書き注文からオーダーエントリーシステムへ変更したことが確認できます。

安く料理を売るためには、多くの客に効率よく料理を届ける必要があります。

価格だけを下げ、店舗作業が以前のままなら、従業員の負担が増えてしまいます。

したがって、

「どう動けば一番少ない作業で料理を提供できるのか」

まで考えなければなりません。

サイゼリヤの低価格は、厨房の裏側だけではなく、ホールスタッフの動線や注文方法にまで及ぶ改善の積み重ねでもあるのです。

イタリア食材の直接輸入を拡大

サイゼリヤの歴史を大きく変えたもう一つの出来事が、食材の直接輸入でした。

サイゼリヤではワインやパスタ、チーズ、デザートなど、本場イタリアから調達する食材を数多く扱っています。

公式採用サイトでは、自社のバイヤーが直接現地を訪れ、生産者とサイゼリヤが求める品質を検討しながら商品をつくっていることが説明されています。

商社などに任せきりにせず、自ら産地や生産者との関係を築いていく。

ここにも製造直販という考え方が表れています。

大量の店舗で共通の商品を販売するチェーンだからこそ、大量に使用する食材について生産者と直接関係を構築するメリットも大きくなります。

その結果、品質を管理しながらコストを抑える余地も生まれます。

平成9(1997)年、自社工場へ

そして平成9(1997)年。

サイゼリヤは吉川工場を設けるなど、自社工場を活用した生産体制を本格化させていきました。

工場では、店舗で使用する食材の生産や一次加工、配送のための仕分けなどが行われています。

現在の完成された仕組みだけを見れば、

「自社工場を持てば安くなる」

と簡単に思えてしまいます。

しかし工場を持つには設備投資が必要です。

製造技術も必要です。

衛生管理も必要です。

作った商品を全国へ届ける物流網も整えなければなりません。

つまり、サイゼリヤの安さは魔法ではありません。

工程を改善し、自社でコントロールできる範囲を少しずつ広げてきた結果なのです。

ミラノ風ドリアの値下げが象徴するサイゼリヤの価格戦略

平成11(1999)年、480円から290円へ

サイゼリヤの価格戦略を象徴する商品といえば、やはりミラノ風ドリアでしょう。

ミラノ風ドリアは昭和58(1983)年に登場しました。

そして平成11(1999)年、大きな価格改定が行われます。

当時480円だったミラノ風ドリアを、290円へ値下げしたのです。

値下げ幅は190円。

率にすれば約4割です。

しかも売れていない商品を処分するための値下げではありません。

当時すでに人気商品だったミラノ風ドリアを値下げしました。

「値下げした分、一皿当たりの売上は減る」

という見方だけでは、この決断は理解しにくいでしょう。

しかし一皿をより多くの人が注文するようになれば、生産量を増やせます。

生産量が増えれば、工場を効率よく動かせます。

大量に必要になる食材を計画的に調達することもできます。

そして販売数量が安定すれば、翌年、翌月、翌日の需要も予測しやすくなる。

つまり、

「安くするために大量に売る」

だけではなく、

「大量に売れるから、さらに効率化できる」

という循環が生まれます。

サイゼリヤの価格戦略を理解するには、この点が非常に重要です。

オーストラリア工場がミラノ風ドリアを支える

その後、サイゼリヤはオーストラリアにも自社工場を設けました。

公式サイトによれば、オーストラリア工場では良質なミルクや牛肉を現地で調達し、ミラノ風ドリアに使用するホワイトソースやミートソースなどを生産しています。

日本で原材料を購入してから加工するのではありません。

原材料の産地に近い場所で調達し、その土地で加工する。

そして自社の基準で品質を管理する。

この発想も、製造直販の延長線上にあります。

また福島工場では、ドリアに適した米を選び、精米や炊飯を行う体制も整えました。

私たちが店舗で見る一皿のミラノ風ドリア。

その背後には、

牛乳。

牛肉。

米。

ソース。

工場。

倉庫。

物流。

店舗。

という長い工程があります。

サイゼリヤは、その一つ一つに自ら関わることで、品質と価格を両立させようとしてきたのです。

サイゼリヤ1号店はどこ?現在はどうなっている?

サイゼリヤ発祥の地は千葉県市川市・本八幡

では改めて、番組でも注目される1号店について見てみましょう。

サイゼリヤ発祥の地は、千葉県市川市の本八幡です。

現在残っている旧1号店は、市川市八幡にある「サイゼリヤ1号店教育記念館」として知られています。

現在のサイゼリヤといえば、ショッピングセンターや駅前、ロードサイドなどで大きな看板を掲げる姿がおなじみです。

しかし原点は、八百屋の2階にある15坪ほどの店舗。

この違いを見るだけでも、サイゼリヤがどれほど大きく成長したかがわかります。

旧1号店はその後、創業時代を伝える場所として保存されてきました。

巨大チェーンの歴史というと、本社ビルや最新工場を思い浮かべるかもしれません。

しかしサイゼリヤの場合、その出発点となった小さな店舗そのものが残っている。

これは非常に興味深いことです。

1号店から全国チェーンへ拡大した歴史

1号店から始まったサイゼリヤは、少しずつ店舗を増やしていきます。

昭和52(1977)年には第3号店を開き、多店舗化を本格化。

平成4(1992)年9月には商号を株式会社サイゼリヤに変更しました。

平成6(1994)年には通算100店舗目となる江ノ島店を開店。

その後も店舗網を全国へ拡大していきます。

ここで注目したいのは、単純に店舗だけを増やしたわけではないことです。

店舗が増えるたび、

工場をつくる。

物流を整える。

直接輸入する。

農家と関係を築く。

調理方法を標準化する。

注文方法を変える。

といった「裏側の仕組み」も同時に拡張しています。

店舗数だけを増やしても、それを支える生産能力がなければ料理を提供できません。

料理を作れても、配送できなければ意味がありません。

配送できても、店舗の厨房が複雑なら大量の注文をさばけません。

サイゼリヤの歴史とは、店を増やした歴史であると同時に、

「安い料理を大量かつ安定して提供するシステムをつくった歴史」

でもあるのです。

「安い=質が低い」では説明できないサイゼリヤの仕組み

サイゼリヤの格安価格を見て、

「安い材料を使っているからでは?」

と考える人もいるでしょう。

しかし、同社が公式に説明している仕組みを見る限り、それだけで説明することはできません。

サイゼリヤは原材料について、産地や加工、保管、輸送など、料理がお客に届くまでの各工程を効率化しようとしています。

もちろん、これはサイゼリヤ自身による説明ですから、企業側の情報として読む必要があります。

それでも少なくとも、

「質を下げれば安くなる」

という一方向の発想ではなく、

「必要な品質を決め、その品質を効率よく実現できる仕組みをつくる」

ことを目指してきた企業であることは、その沿革からもうかがえます。

特に重要なのが標準化です。

店舗ごとに料理人の技量が大きく違い、料理のつくり方もばらばらなら、全国チェーンで同じ料理を提供することは難しくなります。

一方、工場で一定の状態まで加工し、店舗では決められた工程で仕上げれば、品質差を小さくできます。

作業が単純化されれば、教育に必要な時間も短縮できます。

調理時間が短くなれば、客への提供も速くなる。

結果として、一つの改善が複数のコスト削減につながります。

これこそが「格安の裏側」なのでしょう。

千鳥かまいたちで紹介されるサイゼリヤのクイズ・答えを確認

サイゼリヤ1号店に関するクイズの答え

令和8(2026)年9月16日の『千鳥かまいたちゴールデンアワー』では、

「サイゼリヤ1号店は○○になっていた!」

というクイズが出題される予定です。

公開されている資料から確認すると、サイゼリヤの旧1号店は現在「サイゼリヤ1号店教育記念館」として保存されています。

したがって、番組で扱われる1号店の「現在」に関係する重要なキーワードが「教育記念館」であることは確認できます。

ただし、番組が問題文をどのように構成し、正解としてどこまでを求めるのかは、実際の放送確認が必要です。

放送前の段階で番組の演出や出演者の発言まで予想して書くことは避けるべきでしょう。

番組で紹介される「格安の秘密」をまとめて確認

では、ここまで見てきたサイゼリヤの安さの仕組みをまとめてみましょう。

最初の転機は創業期でした。

客が集まらなかった小さな店で、価格を相場の約3分の1にすると客が集まった。

そこからサイゼリヤは「注文したくなる価格」を強く意識するようになります。

しかし値段を下げるだけでは経営は続きません。

そこで店舗数の拡大とともに、店舗オペレーションの合理化、食材の直接輸入、自社工場、海外工場、計画生産、産地との連携などへ取り組みを拡大していきました。

つまりサイゼリヤの格安価格は、

「一つの秘密」

によって実現しているわけではありません。

半世紀以上にわたって、

「この工程はもっと簡単にできないか」

「この食材を直接仕入れられないか」

「店舗で行っている作業を工場でできないか」

「販売数を予測して無駄を減らせないか」

という改善を積み重ねた結果なのです。

安さそのものがサイゼリヤの歴史だった

サイゼリヤと聞けば、私たちはついミラノ風ドリアやパスタ、ワインなどの商品を思い浮かべます。

しかし歴史を追ってみると、サイゼリヤをサイゼリヤたらしめているものは、料理そのものだけではありません。

昭和42(1967)年、本八幡の小さな店から始まり、

客が来ない。

価格を下げる。

客が増える。

店舗を増やす。

作業を合理化する。

直接輸入する。

工場をつくる。

海外で生産する。

需要を予測する。

そして再び価格へ還元する。

そんな長いサイクルが続いてきました。

平成11(1999)年のミラノ風ドリア480円から290円への値下げも、その象徴的な出来事だったといえるでしょう。

サイゼリヤは「格安だから成功した」というよりも、

「格安で提供し続けるための仕組みをつくり続けたから成長した」

と考えた方が、その歴史を理解しやすいのではないでしょうか。

まとめ

令和8(2026)年9月16日放送の『千鳥かまいたちゴールデンアワー』では、サイゼリヤの1号店や「格安の裏側」がクイズ形式で取り上げられます。

サイゼリヤの歴史は、昭和42(1967)年、千葉県市川市本八幡にあった八百屋の2階、わずか15坪ほどの店舗から始まりました。

創業期には思うように客が集まらず、価格を相場の約3分の1へ引き下げる大胆な試みを実施。

すると客が増え、後の「注文したくなる価格」という考え方につながっていきました。

しかし、本当に重要なのはここからです。

安さを維持するため、サイゼリヤは店舗作業の合理化、食材の直接輸入、自社工場での生産、海外での原材料調達、物流の効率化、計画生産などを次々と進めました。

一皿を安く売るために、一皿の原価だけを見るのではない。

畑から工場へ。

工場から物流へ。

物流から店舗へ。

そして店舗から客のテーブルへ。

そのすべてを一つの流れとして見直してきたことこそ、サイゼリヤの「格安の裏側」といえるでしょう。

そして、その巨大なシステムの原点となった本八幡の1号店は、現在も「サイゼリヤ1号店教育記念館」としてその歴史を伝えています。

『千鳥かまいたちゴールデンアワー』をきっかけにサイゼリヤの歴史を振り返ってみると、普段何気なく注文している一皿の向こう側に、50年以上にわたる価格への挑戦が存在していたことがわかります。

「なぜ、サイゼリヤはこんなに安いのか?」

その答えは、「安い食材を使っているから」といった単純なものではありません。

料理をお客へ届けるまでの仕組み全体を、徹底的に改善し続けてきたから。

これこそが、サイゼリヤの格安価格を支えてきた最大の秘密なのではないでしょうか。

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【ひみつのドアーズ】ギリシャ・イカリア島はなぜ長寿?「死ぬことを忘れた島」の秘密を徹底解説

2026年9月16日放送予定のNHK総合『世界で開け!ひみつのドアーズ』では、「ギリシャ長寿の秘密を探る旅」と題し、エーゲ海に浮かぶ長寿の島を訪ねます。

その舞台となるのが、ギリシャのイカリア島です。

番組予告には、なんとも印象的な言葉が並んでいます。

「死ぬことを忘れた島」

さらに、毎日のように海を泳ぐ95歳、88歳で出会った機織りに生きがいを見いだした97歳、ヨットを操る90歳など、90歳を超えてなお活動的に生きる島民たちが登場する予定です。番組では食事や運動といった健康法だけではなく、恋愛や死生観、人生そのものに対する考え方にも迫ると紹介されています。

「どうして、この島では元気な高齢者が多いのか?」

そう疑問に思う人も多いでしょう。

もっとも、長寿について考える際には注意も必要です。

「この食べ物を食べれば100歳まで生きられる」「昼寝をしているから長寿になった」といった具合に、一つの習慣だけを取り上げて長寿の原因と断定することはできません。

実際、イカリア島ではこれまで高齢者を対象とした複数の研究が行われており、食生活、運動、喫煙、昼寝、家族関係、社会交流など、さまざまな特徴が報告されてきました。しかし研究者たちも、複数の環境・行動・健康要因がどのように組み合わさって長寿につながっているのか、さらなる研究が必要だとしています。

今回は『ひみつのドアーズ』の舞台となるギリシャ・イカリア島について、その場所や歴史、食事、運動、人間関係、そして「長寿の島」という評価の科学的根拠まで詳しく見ていきましょう。

 

 

『ひみつのドアーズ』が訪れるギリシャの「長寿の島」とは?

舞台となるギリシャ・イカリア島はどこにある?

まず、イカリア島とはどのような場所なのでしょうか。

イカリア島はギリシャ領の島で、エーゲ海東部に位置しています。

現地観光情報によると、サモス島とミコノス島の間にあり、北東から南西方向へ細長く延びる島です。面積はおよそ270平方キロメートル。山がちな地形で、緑豊かな谷や海岸、豊富な水源などを持っています。

島の名前については、ギリシャ神話に登場するイカロスに由来するとされています。

父ダイダロスとともに蝋で固めた翼で空を飛んだものの、太陽へ近づきすぎたため蝋が溶け、海へ墜落したという有名な物語です。イカリア島の名称は、このイカロス神話と結び付けられてきました。

現在の島では観光だけではなく、農業や漁業も営まれています。

オリーブオイルや蜂蜜、ワインなども地域産品として紹介されており、自然と日常生活が密接につながっている島といえるでしょう。

大都市で暮らしていると、通勤、買い物、仕事、運動などを別々の行動として考えがちです。

ところが山がちな島で農業や地域活動をしながら生活する場合、歩くことや体を動かすこと自体が日常生活の一部になります。

こうした環境も、後に紹介するイカリア島の長寿研究を考えるうえで重要なポイントになってきます。

なぜイカリア島は「死ぬことを忘れた島」と呼ばれるのか?

今回の『ひみつのドアーズ』でも使われているのが、「死ぬことを忘れた島」という印象的な表現です。

これはもちろん、「島民が死なない」という意味ではありません。

イカリア島では90歳以上まで生きる人々が比較的多いことから、長寿を象徴する表現として広く使われるようになりました。

2026年9月16日の番組予告でも、イカリア島について「世界有数の健康長寿の島」と紹介され、90歳を超えてなお活動的な住民たちに焦点を当てる予定です。

では、本当に90歳以上の人が多いのでしょうか。

この点については、人口統計を利用した検証があります。

ブルーゾーン研究者らによる近年の検討では、2009年にイカリア島で生存が確認された90歳以上の人は124人で、人口に占める割合は約1.49%でした。同論文では、ギリシャ本土の0.33%と比較して高かったことが報告されています。

つまり、「死ぬことを忘れた島」という言葉そのものは比喩ですが、その背景には実際に高齢まで生きる人の割合が高かったという人口統計上の特徴が存在するのです。

イカリア島は世界的に知られる長寿地域「ブルーゾーン」

イカリア島を調べると、必ずと言ってよいほど登場する言葉があります。

それがブルーゾーンです。

ブルーゾーンとは、100歳以上の高齢者などが高い割合で存在すると確認された長寿地域を指す言葉として用いられています。

2025年に発表された研究では、長寿人口の確認や年齢検証などを経て、沖縄、イタリアのサルデーニャ、コスタリカのニコヤ、ギリシャのイカリアなどがブルーゾーンとして検証されてきた経緯が整理されています。イカリア島については、平成20(2008)年に調査が進められ、第4のブルーゾーンとして認定されたと説明されています。

ここで重要なのは、単に「100歳のおじいちゃんを見つけた」という程度で認定されているわけではないことです。

長寿研究では年齢そのものの確認が重要になります。

出生記録が不正確であれば、実際には98歳なのに「103歳」と伝えられている可能性もあります。そのため研究者は出生記録、死亡記録、国勢調査など複数の資料を利用して年齢を検証します。

イカリア島でも自治体の出生記録などを用いて高齢者の年齢確認が行われました。

ただし、「一度ブルーゾーンに選ばれたから、永遠に長寿地域である」と考えるのも正確ではありません。

この問題については後ほど改めて触れます。

なぜイカリア島の人々は長寿なのか?考えられる秘密

では、イカリア島の長寿にはどのような特徴が関係しているのでしょうか。

ここからは学術研究で確認されている内容を中心に見ていきます。

高齢になっても日常生活の中でよく体を動かす

第一に注目したいのが、身体活動です。

平成21(2009)年に行われたIkaria Studyでは、80歳を超える男女187人を含む住民の生活習慣が調査されました。

80歳以上の男性では身体活動が「低い」と分類された人が16.3%、女性では29.8%でした。逆にいえば、多くの高齢者が中程度以上の身体活動を行っていたことになります。

さらに、90歳以上の71人を対象に行われた別の調査では、71.8%が中~高レベルの身体活動をしていました。男性ではその割合が85.3%に達しています。

ここでいう運動とは、必ずしもスポーツジムに通って筋力トレーニングをすることではありません。

山がちな島で歩いたり、家事をしたり、農作業をしたり、人に会うために外へ出たりする。つまり「運動する時間」を特別に設けるというより、生活そのものの中に体を動かす行為が組み込まれている可能性があります。

身体活動と血管機能を調べたIkaria Studyの別の研究でも、活動的な人ほど血管内皮機能が良い傾向が示され、高齢者の身体活動が加齢による動脈壁への影響を和らげる可能性が指摘されています。

ただし、これも「イカリア島民が歩いているから長寿になった」と単純化することはできません。

長く健康だからこそ活動量が多いという逆方向の関係も考慮しなければならないからです。

それでも、「90歳を超えても動ける」という事実そのものが、イカリア島を考えるうえで大きな特徴なのは間違いありません。

家族・友人・近隣住民とのつながりが強い

次に興味深いのが、社会的交流です。

90歳以上の高齢者71人を対象とした研究によれば、77.9%が毎日社会的接触を持っていました。

週単位で交流していた人を加えると、その割合はさらに高くなります。研究者は結論として、調査対象者に「非常に高い水準の家族の連帯、社会的交流、身体活動」が見られたとしています。

現代社会では、長寿について考えるときに、血圧、血糖値、食事、運動などに注目しがちです。

しかし、人間は社会の中で生きる存在です。

90歳を超えても家族と会い、友人と話し、地域の行事へ参加し、「自分はまだ社会の一員である」と感じられる環境は、高齢者の生活そのものを支えている可能性があります。

もちろん「友達が多いから100歳になる」という単純な因果関係ではありません。

それでもイカリア島の研究を見る限り、長寿を考える際に人間関係を無視することはできないでしょう。

高齢になっても仕事や地域活動に参加する

年齢を重ねるにつれて、「もう高齢だから何もしない」という生活になるとは限りません。

イカリア島の90歳以上の人々を対象とした研究では、地域社会との関係が保たれている様子が確認されています。

今回の『ひみつのドアーズ』の予告でも、その象徴ともいえる人物が紹介されます。

88歳のときに機織りと出会い、97歳になった人物です。

ここで興味深いのは、88歳という年齢です。

一般的な感覚では「新しい趣味を始めるには遅い」と考えてしまう年齢かもしれません。

しかし、その年齢から新しい活動に出会い、それを続けている。

長寿を「病気にならない方法」だけで考えると、この人物の生き方は説明しきれません。

何歳になっても新しいことを始める。

誰かに必要とされる。

自分の手で何かを作る。

明日やりたいことがある。

こうした生活のあり方そのものが、今回の番組が描こうとしている「長寿の秘密」の一つなのかもしれません。

昼寝やゆったりした生活も関係している?

イカリア島の長寿を紹介する記事で、しばしば取り上げられるのが昼寝です。

80歳以上の住民を対象にしたIkaria Studyでも、日中の昼寝は高齢者の生活習慣の特徴の一つとして報告されています。研究者は、身体活動、健康的な食事、喫煙を避けること、社会交流、昼寝など複数の変更可能な生活習慣が長寿者の特徴となっている可能性を挙げています。

ギリシャ全体を対象とした別の大規模研究もあります。

心臓病や脳卒中、がんの既往がない2万人以上を追跡した研究では、昼寝をする人では冠動脈疾患による死亡率が低いという関連が報告されました。

ただし、この研究は「イカリア島民だけ」を対象とした研究ではありません。

また観察研究ですので、「昼寝をすれば心臓病を防げる」と断定することもできません。

睡眠時間、仕事、ストレス、生活リズムなど、昼寝をする人としない人にはさまざまな違いが存在する可能性があるからです。

したがって、イカリア島の長寿を、

「毎日昼寝をすればよい」

と結論付けるのは早計です。

むしろ重要なのは、休むべきときに休み、働くときに働き、人と会う時間も持つという生活全体のリズムなのではないでしょうか。

イカリア島の長寿を支える食生活とは?

長寿と聞いて、やはり気になるのが食べ物です。

「イカリア島の人たちは何を食べているのか?」

ここからは食生活を見ていきましょう。

野菜・豆類・魚・オリーブオイルを取り入れる地中海食

イカリア島の高齢者の食生活を考えるうえで欠かせないのが、地中海食です。

平成21(2009)年のIkaria Studyでは、80歳以上の187人について食生活も調査されました。

その結果、地中海食への適合度を示すMedDietScoreは平均38点/55点で、約69%の適合度でした。研究者は、同じ地中海地域の高齢者を対象とした別調査と比較しても、伝統的な食習慣への適合度が比較的高かったとしています。

具体的な食品を見ると、オリーブオイル、果物、野菜・サラダ、豆類、魚などが摂取されていました。

同研究ではジャガイモの摂取も比較的多く、一般にイメージされる「教科書通りの地中海食」と完全に同じというわけではありませんでした。

つまり、イカリア島の食生活を真似するなら、

「オリーブオイルだけ大量に摂ればよい」

という話にはなりません。

野菜、果物、豆、魚などを含む食事パターン全体を見る必要があります。

イカリア島では普段どんなものを食べている?

現地の観光情報でも、島ではオリーブオイル、蜂蜜、ワインなどが生産され、農業や漁業が行われていることが紹介されています。

Ikaria Studyの80歳以上の参加者では、男性で週平均約4.8回、女性で約3.5回の野菜・サラダ摂取が報告されました。

豆類は男性が週約2回、女性が約1.3回。魚は男性が週約2.1回、女性が約1.5回でした。

魚については別の研究もあります。

65~100歳のイカリア島住民673人を対象とした研究では、84%が週150グラムを超える魚を食べていたと報告されています。また魚の摂取量と腎機能指標との間に関連が見られました。

ただし、ここでも注意したいことがあります。

「魚を食べる=長生きする」

と直接証明した研究ではありません。

イカリア島で暮らす人は、食事だけではなく、運動量や家族関係、住環境なども異なります。

したがって「長寿食材」を一つ探すよりも、食卓全体を見る方が実態に近いでしょう。

ワインやコーヒーを飲めば長寿になるわけではない

イカリア島を調べると、ワインやギリシャ式コーヒーもよく登場します。

特に興味深い研究がコーヒーについて行われています。

66~91歳の142人を調べた研究では、87%が煮出して作るギリシャ式コーヒーを飲んでおり、主にそのタイプのコーヒーを飲む人では、他のタイプを飲む人より血管内皮機能の指標が良好だったという関連が報告されました。

また、平成21(2009)年から平成25(2013)年までを追ったIkaria Studyでは、コーヒーや茶、果物の摂取、オリーブオイルのみを使用することなどが心血管疾患発症の少なさと関連していました。

しかし、これを、

「ギリシャコーヒーを飲めば長寿になる」

と受け取るのは危険です。

あくまで「関連」が確認されたのであって、「コーヒーが長寿を引き起こした」と証明されたわけではありません。

ワインについても同じです。

地中海地域では伝統的に食事とともにワインが飲まれてきましたが、現在では少量のアルコールについても健康上の不利益が議論されています。地中海食の研究を紹介するときに、飲酒だけを健康法として取り出すべきではありません。

長寿の島を紹介する番組を見ると、つい「秘密の食材」を探したくなります。

しかし、研究から見えてくるのはむしろ逆です。

魔法の食品が一つあるのではなく、食生活全体、身体活動、人間関係などが複雑に重なっているのです。

イカリア島の長寿の秘密は食事だけではない

ここまで見てきたように、イカリア島の長寿研究は食事だけでは説明できません。

むしろ興味深いのは、高齢者が社会から切り離されずに暮らしている点です。

家族との強いつながりが高齢者を支える

90歳以上の71人を対象とした研究では、研究者が強調した特徴の一つが家族の連帯でした。

高齢になってからも家族との関係を保ち、さらに地域の人々とも接触する生活が確認されています。

日本でも高齢者の孤立は大きな問題になっています。

仕事を引退する。

子どもが独立する。

友人が減る。

外出の機会がなくなる。

こうした変化が重なると、人との接触そのものが急激に少なくなる場合があります。

一方、イカリア島の高齢者研究では、90歳を超えても毎日のように誰かと接触している人が多数を占めていました。

長生きを「身体の問題」だけではなく、「社会との関係の問題」として捉える必要性を感じさせる数字です。

祭り「パニギリア」が生み出す人との交流

イカリア島の文化で忘れてはならないのが、パニギリアと呼ばれる地域の祭りです。

現地観光情報によると、島の村々では祭りが開かれ、住民たちはイカリオティコスと呼ばれる伝統舞踊を踊ります。

これが単なる観光イベントというわけでもありません。

90歳以上の住民を調査した研究では、62%がパニギリアへ参加していました。さらに81.4%が宗教行事にも参加していました。

90歳を超えた人が地域の祭りへ参加する。

これは非常に象徴的です。

祭りへ行けば、人に会います。

話をします。

音楽を聴きます。

場合によっては踊ります。

「自宅で健康のために何を食べるか」とはまったく異なる種類の健康要因が、そこには存在します。

もちろん祭りに参加すれば寿命が延びるという意味ではありません。

しかし、社会との接点を失わずに暮らしている高齢者が多いという事実は、イカリア島の特徴を考えるうえで見逃せません。

「生きがい」を持ち続けることも長寿につながる?

今回の『ひみつのドアーズ』で筆者が特に注目したいのが「生きがい」です。

番組予告では、88歳で機織りに出会った97歳の人物が紹介されています。

88歳と聞くと、多くの人は人生の「終盤」を想像するでしょう。

しかし本人にとっては、そこが新しい生活の入口だったのかもしれません。

年齢を重ねても、

「来年もこれをやりたい」

「もっと上手になりたい」

「誰かと会いたい」

「自分の作品を完成させたい」

という理由がある。

それは健康診断の数値には表れないものです。

長寿研究では、身体活動や食事のように数値化しやすい要因が注目されます。一方、「人生に意味を感じているか」「明日を楽しみにしているか」といった感覚を正確に測定することは簡単ではありません。

だからこそ、テレビ番組で実際の90代の人々の暮らしを見る意味があります。

統計だけでは分からない長寿の姿が、そこに現れるかもしれないからです。

イカリア島は本当に「長寿の島」なのか?

ここで、一度立ち止まって考えてみましょう。

そもそもイカリア島は本当に「世界有数の長寿の島」なのでしょうか。

長寿地域には魅力的な物語が生まれやすいからこそ、研究データも確認しておく必要があります。

イカリア島の80歳・90歳以上を調べた研究

Ikaria Studyでは、島の住民を対象にさまざまな医学・生活習慣調査が実施されてきました。

平成21(2009)年の研究では、80歳を超える男性89人、女性98人の合計187人が詳しく調査されています。

論文では、調査サンプルに占める80歳以上の割合が大きく、90歳以上の割合も比較対象となったヨーロッパ人口より高かったと報告されました。

また、平成24(2012)年から平成25(2013)年にかけて行われた別研究では、90歳以上の71人が自宅で調査を受けました。

平均年齢は94.1歳。

高齢だからといって全員が病気と無縁だったわけではありません。

高血圧は70.4%、糖尿病は19.7%で、66%には一つ以上の慢性疾患がありました。

これは非常に重要な数字です。

「長寿の島」と聞くと、

「100歳まで病気一つせず元気に暮らす人ばかり」

というイメージを抱いてしまいます。

しかし現実には、高血圧や慢性疾患を抱えている高齢者もいます。

それでも90歳以上まで生活している。

イカリア島の研究は「病気ゼロこそ長寿」という単純な物語とは少し違う世界を示しています。

「ブルーゾーン=必ず長寿」と単純化できない

ブルーゾーンという言葉は魅力的です。

しかし、長寿研究では年齢記録や人口統計そのものについて議論があります。

令和7(2025)年に発表されたブルーゾーン研究の総説では、イカリア島が過去に長寿地域として確認された経緯を整理する一方、現在も同じ程度の長寿状態が続いているかどうかについては、必要な人口統計データを更新できていないとしています。

これは、

「イカリア島は長寿ではなかった」

という意味ではありません。

過去の調査では、実際に90歳以上の人々がギリシャ全体より高い割合で存在することが確認されています。近年の検証論文でも、2009年時点で90歳以上の人口割合がギリシャ本土より大幅に高かったことが報告されています。

ただし人口は変化します。

若者が島外へ移住する。

高齢者が増減する。

医療環境が変わる。

食生活も変わる。

つまり、平成20(2008)年前後に確認された人口構造が令和8(2026)年にもまったく同じとは限らないのです。

この点を押さえておくと、「ブルーゾーン」という言葉を過度に神秘化せず、イカリア島の長寿を冷静に見ることができます。

科学的には「複数の要因の組み合わせ」と考えるのが妥当

では、結局のところ「長寿の秘密」は何なのでしょうか。

現時点で最も誠実な答えは、

「一つには決められない」

でしょう。

平成23(2011)年に発表されたIkaria Studyの研究では、身体活動、健康的な食事、禁煙、社会交流、昼寝などが長寿者に見られる特徴として挙げられました。

しかし研究者は、環境的、行動的、臨床的特徴の相互作用が長寿を左右している可能性があり、どの要因が最も重要なのかについてはさらに研究が必要だとしています。

令和3(2021)年の90歳以上の住民研究でも結論は似ています。

家族の連帯、社会交流、身体活動については非常に高い水準が確認されましたが、地中海食については研究者自身が慎重な評価をしています。

つまり、

オリーブオイルだから。

魚だから。

昼寝だから。

ワインだから。

コーヒーだから。

という話ではないのです。

食事をする。

歩く。

働く。

休む。

人と話す。

祭りへ行く。

家族と暮らす。

好きなことを続ける。

そうした小さな習慣の積み重ねと、その人の遺伝的背景や医療環境などが複雑に関係している可能性があります。

長寿の秘密を探せば探すほど、「秘密の健康法」ではなく、「生活そのもの」が見えてくるのです。

『ひみつのドアーズ』から見える「長生きすること」の本当の意味

最後に、今回の『ひみつのドアーズ』という番組そのものに戻ってみましょう。

番組予告を読む限り、今回のテーマは単に「100歳まで生きる健康法」ではありません。

食、運動、恋愛、死生観、人生の捉え方まで取り上げる予定です。

90歳を超えても新しいことを始める人々

95歳で海を泳ぐ。

97歳で機織りを続ける。

90歳でヨットを操る。

いずれも番組予告で紹介されているイカリア島の人々です。

ここで重要なのは、数字としての年齢ではないでしょう。

95歳まで「生きている」ことと、95歳で「今日も海へ行こう」と考えていることは、同じようでいて少し違います。

97歳まで生存することと、97歳になっても「機織りをしたい」と思えることも違います。

長寿の価値は単純な寿命の長さだけでは測れません。

健康寿命と単なる「寿命の長さ」は違う

そこで考えたいのが健康寿命です。

何歳まで生きたかだけではなく、その間にどのような生活を送ることができたのか。

自分で歩ける。

食事を楽しめる。

人と会える。

好きなことができる。

新しいものに興味を持てる。

そうした能力を高齢になっても維持できるかどうかは、寿命の数字と同じくらい重要でしょう。

もちろん、イカリア島の90歳以上の人々もすべて健康なわけではありません。

先ほど紹介した研究では、高血圧や糖尿病、慢性疾患を持つ人もいました。

それでも、90歳を超えて社会との関係を持ち、一定の身体活動を続けている人々が多数確認されています。

「病気を一つも持たないこと」と「自分らしく暮らすこと」は、必ずしも同じではない。

イカリア島の高齢者たちは、そのことも教えてくれるように思います。

イカリア島から日本人が参考にできること

では、私たちはイカリア島の生活をそのまま真似すればよいのでしょうか。

もちろん、そう簡単ではありません。

日本に住みながら突然ギリシャの山村と同じ生活を送ることはできません。

毎日ギリシャ料理を食べる必要もありませんし、ワインやコーヒーを無理に飲む必要もありません。

しかし、研究から見えてくる生活の方向性には参考になる部分があります。

日常生活の中で体を動かす。

野菜、豆類、魚などを含む偏りの少ない食生活を心掛ける。

喫煙を避ける。

家族や友人との関係を保つ。

地域や社会との接点を持つ。

適切に休む。

そして、高齢になっても「もう遅い」と考えず、興味を持ったことを始めてみる。

こうしたことなら、日本で暮らしていても取り入れることができます。

何より重要なのは、「100歳まで生きる方法」を探すことだけではないでしょう。

今回の番組予告に登場する90代の人々を見ていると、

「何歳まで生きるか」

という問い以上に、

「その年齢になったとき、何をしていたいか」

という問いが浮かびます。

88歳で新しい趣味に出会ってもいい。

90歳で海へ出てもいい。

95歳で泳いでもいい。

97歳になっても、自分が面白いと思うものを続けてもいい。

イカリア島の「長寿の秘密」は、特別な食材や健康法の中だけに存在するわけではなさそうです。

これまでの研究から確認できるのは、食生活、身体活動、社会交流、家族関係、休息など、日々の暮らしを構成するさまざまな要素です。

そして『ひみつのドアーズ』が今回さらに見せてくれそうなのが、それらの数字の向こう側にいる人々の人生です。

「死ぬことを忘れた島」。

一見すると大げさな呼び名にも思えます。

しかし、90歳を超えても明日の予定があり、人と会い、新しいことを楽しみ、海へ出る人々を見れば、その言葉が使われてきた理由も少し分かる気がします。

イカリア島の本当の秘密は、「どうすれば死なないか」ではなく、

「いくつになっても、どう生きるか」

という問いの中にあるのかもしれません。

【歴史探偵】徳川家霊廟とは?東京から消えた「幻の世界遺産」と英国王室に残った驚きの模型

かつて東京の中心部に、日光東照宮にも劣らないほど豪華な徳川将軍家の建築群が存在していたことをご存じでしょうか。

令和8(2026)年9月16日放送のNHK『歴史探偵』では、「東京“幻の世界遺産” 徳川家霊廟」と題し、現在ではほとんど失われてしまった徳川家霊廟に迫ります。

番組の事前情報によれば、かつて東京に建ち並んでいた徳川将軍家の霊廟を3DCGによって復元。徳川家の末裔や英国王室の協力も得ながら、その極彩色の世界と、そこに込められた歴代将軍たちの思いを探る内容です。

しかし、ここで一つ疑問が浮かびます。

これほど重要な建築物なら、なぜ現在の東京ではほとんど見ることができないのでしょうか。

その理由をたどっていくと、二代将軍・徳川秀忠、その子である三代将軍・徳川家光、東京大空襲、そして意外にもイギリス王室へと話がつながっていきます。

しかも、昭和20(1945)年に実物が焼失するより30年以上前、その姿を驚くほど精密に再現した巨大な模型が日本からイギリスへ渡っていました。

結果的に、この模型は失われた霊廟の姿を現代へ伝える極めて重要な資料となったのです。

今回は『歴史探偵』の放送にあわせ、徳川家霊廟とは何だったのか、なぜ失われたのか、そして、なぜその模型が英国王室に残されていたのかまで詳しくご紹介します。

 

 

『歴史探偵』で注目!徳川家霊廟とは何だったのか

徳川家霊廟とは?将軍の「墓」と「霊廟」の違い

そもそも「霊廟」とは何なのでしょうか。

一般的な墓と同じように考えてしまいそうですが、徳川将軍家の霊廟は単純な墓石だけで構成された場所ではありませんでした。

増上寺では旧徳川将軍家霊廟について「御霊屋(おたまや)」とも呼ばれ、墓所だけでなく、本殿や拝殿など数多くの建物によって構成された施設だったと説明しています。

つまり霊廟とは、亡くなった人物の遺骨を納めるだけの墓ではなく、その人物を祀り、供養するための宗教空間でもありました。

江戸幕府を支配した徳川将軍の場合、その意味はさらに大きなものとなります。

将軍の死後、その霊を祀る施設を幕府が壮大な規模で造営することは、故人への供養であると同時に、徳川将軍家の権威を視覚的に示すことにもつながりました。

現在、徳川家康を祀る日光東照宮を訪れると、極彩色の建物や無数の彫刻を見ることができます。

徳川将軍家にとって、祖先や先代将軍を祀る空間は単なる墓地ではありません。

そこには宗教・政治・美術・建築が重なり合っていたのです。

徳川将軍家と増上寺・寛永寺の深い関係

徳川家霊廟を理解するうえで欠かせないのが、東京・芝の増上寺と、上野の寛永寺です。

増上寺は明徳4(1393)年に開かれた浄土宗の寺院です。

天正18(1590)年、徳川家康が江戸へ入ると、当時の増上寺住職・源誉存応と師檀関係を結び、増上寺は徳川将軍家の菩提寺となりました。

その後、慶長3(1598)年には現在の芝へ移転しています。

増上寺に現在埋葬されている将軍は、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人です。

このほか秀忠夫人の崇源院、家茂夫人の静寛院和宮など、将軍家の女性や子女も眠っています。

一方の寛永寺は、寛永2(1625)年に天海によって上野に創建されました。

江戸城から見て鬼門にあたる東北方向に位置し、当初は幕府の安泰を祈る祈祷寺として設けられています。

その後、四代将軍・徳川家綱が寛永寺に葬られたことを契機として、寛永寺も将軍家の菩提寺としての役割を担うようになりました。

寛永寺には家綱のほか、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の計6人の将軍が埋葬されています。

つまり江戸の徳川将軍家墓所は、芝の増上寺と上野の寛永寺という二つの巨大寺院を中心として形成されていたのです。

なぜ「幻の世界遺産」と呼ばれるほど豪華だったのか

今回の『歴史探偵』には「東京“幻の世界遺産”」という非常に印象的なタイトルが付けられています。

ただし、ここは誤解してはいけません。

徳川家霊廟が実際にユネスコ世界遺産へ登録されていたわけではありません。

番組案内では、現存していれば世界遺産級とも評される壮大な建築群として紹介されています。

その評価を理解するには、現存する日光東照宮を思い浮かべると分かりやすいでしょう。

現在の日光東照宮の主要な社殿群の多くは、寛永13(1636)年、三代将軍・家光による「寛永の大造替」で整えられました。

そこには漆、極彩色、金箔、精密な彫刻など、当時最高水準の技術が投入されています。

ところが、そのわずか数年前、江戸では別の壮麗な建築群が完成していました。

それこそが、徳川秀忠を祀った台徳院殿霊廟だったのです。

徳川秀忠の台徳院殿霊廟はどれほど豪華だった?

寛永9(1632)年に徳川家光が建立した父・秀忠の霊廟

徳川家霊廟のなかでも、今回特に注目したいのが台徳院殿霊廟です。

「台徳院」とは、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の法号に由来します。

秀忠は天正7(1579)年に生まれ、寛永9(1632)年に死去した徳川家康の三男です。

慶長10(1605)年、父・家康から将軍職を譲られて二代将軍となりました。

家康が「江戸幕府を開いた将軍」ならば、秀忠はその幕府を次の世代へ定着させていく役割を担った人物といえるでしょう。

その秀忠が寛永9(1632)年1月24日に死去すると、翌25日には松平正綱に増上寺での霊廟造営が命じられたことが、『大本山増上寺史』などを参照した国立国会図書館のレファレンス協同データベースから確認できます。

1月27日には遺骸が江戸城から増上寺へ移され、葬礼が行われました。

父の死を受けて霊廟造営を進めたのが三代将軍・徳川家光でした。

現在残る旧台徳院霊廟惣門について、東京都文化財データベースは寛永9(1632)年の造営としています。

つまり秀忠の死後、かなり短期間のうちに巨大な霊廟造営事業が進められたことになります。

本殿・拝殿・中門・透塀からなる巨大な建築群

「将軍の墓」と聞いて墓石一基を想像すると、台徳院殿霊廟の実像を見誤ります。

霊廟には本殿、拝殿、相之間などがあり、それらを門や透塀などが取り囲む巨大な建築空間が形成されていました。

特に本殿・相之間・拝殿という構成は重要です。

イギリス政府が平成27(2015)年に公表した資料によれば、後述する10分の1模型でも、この三棟が内外にわたって細かく再現されています。

霊廟の奥へ進むにつれて、俗世から故人を祀る聖なる空間へ入っていく。

門、塀、拝殿、本殿、そして墓所は、そのための空間構成でもありました。

東京都文化財データベースによると、現存する惣門は三間一戸の八脚門で、入母屋造。前後には唐破風が設けられています。

これだけでも、単なる寺院の入口というより、将軍家霊廟への入口にふさわしい重厚な建築だったことが分かります。

さらに台徳院殿霊廟は完成して終わりではなく、江戸時代を通じて修理され続けました。

東京都によれば、幕末までに記録上16回の修理が行われています。

それだけ幕府にとって維持すべき重要な空間だったのでしょう。

日光東照宮の「プロトタイプ」とされる理由

増上寺は、台徳院殿霊廟を日光東照宮の「プロトタイプ」と紹介しています。

ただし、この表現には少し注意が必要です。

日光東照宮そのものは家康の死後、元和3(1617)年に創建されており、台徳院殿霊廟より先に存在していました。

では、なぜ台徳院殿霊廟が「プロトタイプ」と呼ばれるのでしょうか。

ポイントは、現在私たちが目にしている豪華絢爛な日光東照宮の主要社殿群です。

現在の社殿群の多くは寛永13(1636)年、家光による大規模な造替で整えられました。

台徳院殿霊廟の完成は、その4年前の寛永9(1632)年です。

増上寺や観光庁の解説では、台徳院殿霊廟の建築や装飾が後の東照宮造営に影響を与えたものとして位置づけられています。

したがって、「台徳院殿霊廟を参考にして初めて日光東照宮が建てられた」という意味ではありません。

むしろ、家光の時代に完成する壮麗な霊廟建築の一つの重要な先行例だった、と理解する方が正確でしょう。

徳川家霊廟はなぜ消えた?国宝が失われた東京大空襲

昭和5(1930)年に国宝となった台徳院殿霊廟

江戸幕府が滅亡した後も、台徳院殿霊廟は東京に残り続けました。

そして昭和5(1930)年、国宝に指定されています。

ただし、現在の「国宝」と当時の「国宝」は法制度上まったく同一ではありません。

昭和4(1929)年には国宝保存法が成立しており、当時は同法のもとで建築物などが「国宝」として保存対象になりました。

戦後に文化財保護法が成立すると、旧国宝保存法下の国宝は現在の制度では重要文化財とみなされることになりました。

したがって、「昭和5(1930)年に国宝に指定された」という説明は正しいものの、現在の文化財制度における国宝指定と単純に同じものと考えない方がよいでしょう。

いずれにしても、国が保存すべき重要な建築文化財として評価されていたことに変わりありません。

昭和20(1945)年の戦災で焼失

しかし、その巨大な文化遺産は東京大空襲を含む戦災によって失われました。

増上寺によれば、昭和20(1945)年3月10日の空襲で北廟が被災し、同年5月25日の空襲では南廟が被災しました。

その結果、徳川将軍家霊廟の建物のほとんどが焼失しています。

台徳院殿霊廟については、5月25日の空襲で大部分が焼失しました。

東京都文化財データベースによれば、残ったのは惣門・勅額門・丁字門・御成門の4門です。

建築物というものは、図面や写真が残っていても、それだけで完全に元へ戻せるわけではありません。

当時の木材。

漆の質感。

彫刻の立体感。

金箔や彩色。

建物を実際に歩いたときの奥行き。

周囲の門や塀を含む空間全体の構成。

これらが一度失われれば、同じものをもう一度生み出すことは極めて困難です。

番組が「失われた『国の宝』」という言葉を使っているのも、単に一つの古い建物がなくなったという話ではないからでしょう。

焼失前の写真や資料から分かる往時の姿

幸い、台徳院殿霊廟の姿が完全に忘れ去られたわけではありません。

戦前に撮影された写真などが残っています。

増上寺も、現在では主としてモノクロ写真によって往時の姿をしのぶことができると説明しています。

そして今回の『歴史探偵』では、残された資料などを手掛かりとして徳川家霊廟を3DCGで復元するとされています。

番組案内では、徳川家の末裔、さらに英国王室の協力を得ながら、失われた極彩色の世界を再現するとしています。

ただし、令和8(2026)年9月16日の放送前に公表されている情報だけでは、CG復元の際に具体的にどの写真・図面・部材調査をどのように組み合わせたのかまでは確認できません。

この部分は番組放送で明らかになる内容と考え、現段階で推測するのは避けるべきでしょう。

ところが、台徳院殿霊廟には写真以上に驚くべき資料が残されていました。

それが、イギリス王室の所蔵品になっていた巨大模型です。

なぜ徳川家霊廟の模型がイギリス王室にあったのか?

明治43(1910)年の日英博覧会のために作られた10分の1模型

失われた台徳院殿霊廟の姿を現代へ伝える最大級の資料が、日英博覧会に出品された10分の1模型です。

日英博覧会は明治43(1910)年、ロンドンのホワイトシティで開催されました。

イギリス政府の資料によれば、会期は同年5月14日から10月29日。

日本が参加した国際博覧会としては当時最大規模で、日本の発展ぶりを英国へ示すとともに、両国間の貿易関係を強化することも目的とされていました。

その展示物の一つとして東京市が発注したのが、台徳院殿霊廟模型でした。

縮尺は実物の10分の1。

しかし「模型」という言葉から学校の工作のようなものを想像してはいけません。

英国政府資料によれば、その大きさは幅約3.6メートル、奥行き約5.4メートル、高さ約1.8メートル。

人間の身長ほどの高さを持つ巨大な建築模型です。

観光庁の解説では、制作には総勢150人の大工・職人が携わったとされています。

まさに「模型そのものが一つの文化財」と呼びたくなる規模です。

東京美術学校と高村光雲らが携わった巨大模型

模型を制作したのは、東京美術学校、現在の東京藝術大学です。

増上寺によれば、建築を専門とする古宇田実教授、彫刻家の高村光雲教授らが監修し、当時最高水準の技術を用いて実物を忠実に再現しました。

高村光雲といえば、上野公園に立つ西郷隆盛像の制作でも知られる明治を代表する彫刻家です。

そのような一流の専門家が監修したことからも、この模型が単なる博覧会用の簡易展示物ではなかったことが分かります。

本殿・相之間・拝殿の内部まで色彩豊かに作り込まれ、屋根には親指の爪ほどしかない銅瓦が数千枚も使われました。

漆塗りの柱や扉、御簾、徳川家の葵紋、壁画なども再現されています。

考えてみれば、これは極めて重要なことです。

明治43(1910)年当時、実物の台徳院殿霊廟はまだ存在していました。

つまり制作者たちは、焼失後の写真を想像して模型を作ったわけではありません。

実物が東京に存在していた時代に、その姿を調査したうえで制作しています。

後世にとって、これほど貴重な立体資料はありません。

博覧会後に英国王ジョージ5世へ贈られた理由

では、なぜこの模型は日本ではなくイギリスに残ることになったのでしょうか。

日英博覧会終了後、模型は英国王室へ贈呈されました。

増上寺の現在の展示案内では、閉幕後に英国王ジョージ5世へ贈られ、そのまま英国ロイヤル・コレクションとなったことが説明されています。

つまり、戦争中に海外へ流出したわけでも、第二次世界大戦後に外国人が買い取ったわけでもありません。

明治43(1910)年という実物の霊廟が健在だった時代に、日英交流の中で英国王室へ渡っていたのです。

そして歴史の皮肉ともいうべきことが起こります。

日本に残った本物は昭和20(1945)年の空襲で焼失。

一方、30年以上前に海を渡った模型はイギリスで保管され、戦災を免れました。

結果として、「本物が存在した時代に作られた精密な分身」の方が生き残ったのです。

英国ロイヤル・コレクションから増上寺へ里帰り

模型はその後、長く英国王室のロイヤル・コレクションとして保管されました。

そして平成27(2015)年、大きな転機を迎えます。

エリザベス2世女王の許可を得て日本へ長期貸与され、100年以上を経て東京へ戻ってきたのです。

イギリス政府によれば、日本の職人によって約12か月にわたる修復が行われた後、増上寺で一般公開されることになりました。

修復では屋根瓦や漆塗りの木部、扉、御簾、葵紋、壁画などが対象となり、透塀の洗浄・再構築も行われています。

模型の持ち主自体は英国王室です。

現在も英国ロイヤル・コレクション所蔵品であり、増上寺へ長期貸与される形で展示されています。

東京で生まれ、ロンドンへ渡り、本物の霊廟が戦争で失われ、それから100年以上を経て東京へ戻る。

台徳院殿霊廟模型そのものが、日英関係と近代日本、そして戦争による文化財喪失の歴史を物語る資料になっているのです。

徳川家霊廟は現在も残っている?現存する遺構を紹介

現在も芝公園に残る「旧台徳院霊廟惣門」

台徳院殿霊廟は焼失した――。

そう聞くと、何も残っていないように思うかもしれません。

しかし、一部の建物は現存しています。

その代表が旧台徳院霊廟惣門です。

東京都文化財データベースによると、寛永9(1632)年造営。

現在も東京都港区芝公園4丁目にあり、国指定重要文化財となっています。

惣門とは、霊廟建築群への正面入口となる門でした。

現在の惣門は昭和34(1959)年、もとの場所から東へ58メートル移動されています。

つまり現在私たちが見る位置は、江戸時代そのままの位置ではありません。

それでも、約400年前に家光が父秀忠のために造営させた建築の一部を、東京の街中で現在も見ることができるのです。

惣門はなぜ焼失を免れたのか

ここで気になるのが、「なぜ惣門だけが焼け残ったのか」という問題です。

昭和20(1945)年5月25日の空襲では、台徳院殿霊廟の華麗な建築群のほとんどが焼失しました。

しかし、惣門・勅額門・丁字門・御成門の4門は残りました。

ただし、今回確認できた東京都や文化庁などの公的資料には、「惣門がなぜ焼失を免れたのか」という具体的な理由までは記されていません。

位置関係や延焼状況などからさまざまな推測をすることは可能ですが、根拠となる史料を提示せずに理由を断定するのは避けるべきでしょう。

歴史を扱ううえでは、「残った」という事実と、「なぜ残ったのか」という解釈を分けて考える必要があります。

確実にいえるのは、主要建築が失われるなか、偶然にも4門が戦災を生き延びたということです。

移築されて現在まで残った霊廟建築

残った4門すべてが現在も増上寺周辺にあるわけではありません。

惣門を除く勅額門・丁字門・御成門の3門は後に移築されました。

現在は埼玉県所沢市上山口の狭山山不動寺にあり、文化庁の国指定文化財等データベースでも、寛永9(1632)年の建築として重要文化財に登録されていることを確認できます。

つまり徳川家霊廟の痕跡をたどろうとすると、東京・芝だけを歩けば終わるわけではありません。

戦争と戦後の都市整備によって、建築物そのものが別の場所へ移動しているからです。

失われたもの。

その場に残ったもの。

別の土地へ移されたもの。

イギリスに渡ってから戻ってきた模型。

これらを一つにつなぎ合わせたとき、初めて「徳川家霊廟」の全体像が少しずつ見えてきます。

増上寺で現在見学できる徳川将軍家ゆかりのもの

現在の増上寺には徳川将軍家墓所があり、秀忠をはじめ6人の将軍の宝塔を見ることができます。

そして大殿地下1階の宝物展示室では、台徳院殿霊廟の10分の1模型が常設展示されています。

ここが非常に興味深いところです。

地上では、戦災を生き延びた惣門を見る。

墓所では将軍たちの宝塔を見る。

地下の展示室では、かつてその周囲に存在していた壮大な霊廟を模型で見る。

現在の増上寺を歩くことは、現在と江戸時代の景観を頭の中で重ね合わせる作業でもあります。

建築そのものは失われても、場所と遺構と模型を組み合わせれば、往時の姿をかなり具体的に想像できるのです。

なお、展示時間や休館日などは変更される可能性があるため、実際に訪問する場合は増上寺宝物展示室の最新案内を確認した方がよいでしょう。

『歴史探偵』徳川家霊廟をもっと楽しむために知っておきたいこと

増上寺と寛永寺になぜ徳川将軍の墓が分かれている?

先ほど述べた通り、徳川将軍の墓は増上寺と寛永寺に6人ずつ分かれています。

「最初から交互に埋葬すると決められていたのか」と思うかもしれませんが、事情はそれほど単純ではありません。

増上寺は家康の江戸入府以来、徳川家の菩提寺でした。

一方、寛永寺は寛永2(1625)年に天海によって幕府の祈祷寺として創建された寺です。

転機になったのが四代将軍・家綱でした。

寛永寺の公式解説によれば、三代家光は寛永寺で葬儀を行うよう遺言しており、その後、四代家綱、五代綱吉も寛永寺への埋葬を望みました。

そのため寛永寺にも将軍の廟所が造営され、祈祷寺であると同時に菩提寺の役割も担うようになります。

家綱以降、増上寺と寛永寺の双方が将軍家の墓所となっていったのです。

現在の寛永寺には家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定が眠っています。

そして寛永寺側の霊廟もまた、第二次世界大戦によってその大部分を焼失しました。

現在は勅額門や水盤舎、宝塔などが往時を伝えています。

徳川秀忠の霊廟と日光東照宮を比較すると何が分かる?

台徳院殿霊廟を見るうえで興味深いのが、日光東照宮との比較です。

家光にとって家康は祖父、秀忠は父にあたります。

秀忠が亡くなった寛永9(1632)年、家光は父のために台徳院殿霊廟を造営しました。

その4年後の寛永13(1636)年には、祖父家康を祀る日光東照宮の大造替を完成させます。

増上寺は台徳院殿霊廟を東照宮のプロトタイプと位置づけています。

この順番を見ると、江戸初期の霊廟建築技術が急速に発展していった過程が見えてきます。

漆。

金箔。

極彩色。

彫刻。

複雑な門。

本殿と拝殿を結ぶ建築構成。

霊廟は当時の最高技術を集中的に投入する巨大プロジェクトでもありました。

そして日光では、その技術の結晶が現在まで残りました。

一方、東京では多くが戦災で失われました。

もし増上寺の霊廟建築群も残っていれば、現在の東京の歴史景観はまったく違うものになっていたことでしょう。

これこそ、『歴史探偵』が「幻の世界遺産」という言葉を掲げる背景の一つと考えられます。

徳川家霊廟のCG復元から分かる失われた江戸の景観

徳川家霊廟をCGで復元する意義は、単に「昔の建物をきれいな映像にする」ことではありません。

現在の東京には、江戸時代から続く寺社や建築が数多く残っています。

一方で、戦災や震災、近代以降の都市整備によって失われた景観も少なくありません。

増上寺の徳川家霊廟は、その代表例といえるでしょう。

現在の増上寺を訪れても、かつて大殿の南北に巨大な霊廟建築群が建ち並んでいた様子を、そのまま目にすることはできません。

しかし写真、現存する門、10分の1模型、史料などを組み合わせれば、失われた空間をかなり具体的に検討できます。

特に10分の1模型の存在は大きいでしょう。

写真は原則として一方向から切り取られた二次元資料ですが、模型は三次元です。

建物同士の位置関係。

屋根の重なり。

門から本殿までの空間。

透塀。

そして彩色や内部装飾。

こうした情報を立体的に検討する手掛かりとなります。

今回の『歴史探偵』がCG復元によって何を新たに示すのか。

ここは放送の大きな見どころになりそうです。

現在の増上寺で台徳院殿霊廟模型を見るには?

台徳院殿霊廟模型は現在、増上寺宝物展示室で常設展示されています。

平成27(2015)年、家康没後400年を機に開設された展示室の中心的展示です。

模型を見る際には、単に「細かく作られているな」と眺めるだけでは少しもったいないかもしれません。

まず、これは明治43(1910)年に作られた模型です。

次に、模型を作った時点では本物が東京に存在していました。

そして、本物は昭和20(1945)年に焼失しました。

模型は英国王室にあったため残りました。

さらに約100年後、日本へ戻ってきました。

この時間軸を頭に入れて模型を見ると、印象が大きく変わります。

目の前にあるのは単なる「ミニチュア」ではありません。

失われた江戸建築を、実物が存在した時代から現代へつないだ歴史資料なのです。

結び

令和8(2026)年9月16日の『歴史探偵』で取り上げられる徳川家霊廟。

その歴史をたどってみると、江戸幕府の権力を象徴する巨大建築が東京に存在し、それが戦争によって失われ、意外なことにイギリスに渡っていた模型によって往時の姿が現代へ伝えられたという、壮大な物語が見えてきます。

とりわけ二代将軍・秀忠を祀った台徳院殿霊廟は、寛永9(1632)年に三代将軍・家光によって造営され、その後の霊廟建築にも大きな影響を与えました。

昭和5(1930)年には当時の制度下で国宝となります。

しかし昭和20(1945)年5月25日の空襲で主要建築は焼失しました。

現在残る惣門などを除けば、その豪華絢爛な姿を実物で見ることはできません。

ところが明治43(1910)年、日英博覧会のために東京美術学校を中心として制作された10分の1模型が英国王室へ贈られていました。

本物は戦火に消え、模型は海の向こうで生き残った――。

そして平成27(2015)年、その模型が100年以上の時を経て増上寺へ帰ってきました。

歴史的建造物は、一度失われれば簡単には取り戻せません。

写真や模型、図面、そして残されたわずかな建築物が重要なのは、それらが単なる「古いもの」ではなく、失われた時代へ私たちをつなぐ手掛かりだからでしょう。

現在、東京・芝には旧台徳院霊廟惣門が残っています。

増上寺の地下には英国王室所蔵の巨大模型があります。

そして墓所には秀忠をはじめ歴代将軍が眠っています。

『歴史探偵』を見た後に増上寺を訪れるなら、目の前にある現在の風景だけではなく、その背後にかつて広がっていた壮麗な霊廟の姿まで想像してみてはいかがでしょうか。

「幻の世界遺産」は、完全に消えてしまったわけではありません。

門、墓、写真、模型、そして史料という断片の中に、今なおその姿を残しているのです。

【上田と女が吠える夜】パリ大満喫ツアーのロケ地はどこ?田辺智加のスイーツ・チョコ・ルーヴル・お土産を紹介

日本テレビ系の人気バラエティー番組『上田と女が吠える夜』で、フランス・パリを舞台にした豪華な海外ロケが放送されます。

2026年9月16日(水)放送の2時間スペシャルで企画されたのが、「芸術の秋!食欲の秋!パリ大満喫ツアー」です。

MCの上田晋也さんをはじめ、大久保佳代子さん、板谷由夏さん、ぼる塾の田辺智加さんがパリへ向かい、世界有数の美術館であるルーヴル美術館から、本場フランスのスイーツ、ビストロ、パリ市内を巡る観光バスまで、芸術と食を一度に満喫します。

とりわけ注目したいのが、田辺智加さんによるパリのスイーツ巡りです。

コンクールで1位を獲得した店のチョコレートエクレア、フランス伝統菓子のフラン、現存するパリ最古のパティスリーで味わうレモンタルト、そして田辺さんが思わず涙を流した「パリでしか手に入らない」と紹介されるショコラまで登場します。

一方、上田さん、大久保さん、板谷さんはルーヴル美術館へ。

「ミロのヴィーナス」「サモトラケのニケ」「モナ・リザ」「美しきフェロニエール」など、誰もが一度は名前を聞いたことがある名品を鑑賞します。

そこで今回は、『上田と女が吠える夜』パリ大満喫ツアーについて、番組で登場するロケ地や美術作品、田辺智加さんが食べるスイーツ、ビストロ、ビッグバス、パリ土産などを詳しく紹介します。

なお、本稿は2026年9月16日の放送前に公表された公式情報を中心に構成しています。事前情報で店名や商品名が公表されていないものについては、似た条件の店を推測して断定することはせず、確認できている範囲だけを記載しています。

 

 

『上田と女が吠える夜』パリ大満喫ツアーとは?

パリ大満喫ツアーの放送日・出演者

『上田と女が吠える夜』のパリ大満喫ツアーは、2026年9月16日(水)午後9時から放送される2時間スペシャルの企画です。

今回の2時間スペシャルでは、パリ企画だけではなく「文化系女子VS体育会系女子が吠える夜」も放送され、スペシャルゲストとして松山ケンイチさんと城島茂さんが出演します。

その中で海外ロケとして放送されるのが、パリ大満喫ツアーです。

パリを訪れる主なメンバーは、次の4人です。

上田晋也さん、大久保佳代子さん、板谷由夏さん、田辺智加さん。

同じパリ旅行といっても、全員がまったく同じ場所を巡るわけではありません。

芸術にスポットを当てたルーヴル美術館のパートでは上田さん、大久保さん、板谷さんが登場し、一方でスイーツにスポットを当てたパートでは田辺さんがパリの菓子店を巡ります。

そして4人が合流する形で、フレンチ・ビストロや観光バスなどを楽しむ構成になっています。

つまり今回の企画は、単なる「芸能人のパリ旅行」ではありません。

美術、歴史、スイーツ、料理、観光という、パリの大きな魅力をいくつもの角度から取り上げる企画なのです。

パリへの旅行を予定している人にとっても、番組内で登場するロケ地は気になるところでしょう。

上田晋也・大久保佳代子・板谷由夏・田辺智加がパリへ

今回のロケで興味深いのは、出演者それぞれの個性がパリの楽しみ方に反映されているところです。

上田晋也さんは、番組の事前紹介でも芸能界きってのアート通として紹介されています。

ルーヴル美術館では美術作品について次々と知識を披露し、大久保佳代子さんから驚かれる場面も予告されています。

板谷由夏さんも一緒に世界的な名画や彫刻を鑑賞。

一方、食の方面を担当するのが田辺智加さんです。

田辺さんといえばスイーツ好きとして知られていますが、今回は本場パリで最新の菓子を食べ歩きます。

ここで重要なのは、「有名な店に行って食べる」だけではないという点でしょう。

チョコレートエクレアのコンクールで評価された店、歴史あるパティスリー、さらにパリでしか手に入らないと紹介されるチョコレートなど、テーマ性のある店が選ばれています。

芸術に興味がある人も、スイーツが好きな人も、そして純粋にパリ旅行に興味がある人も楽しめる構成になっているのです。

ルーヴル美術館で上田晋也たちが見た作品は?

今回のパリ大満喫ツアーの中でも大きな見どころとなるのが、ルーヴル美術館です。

番組の事前情報によれば、上田さん、大久保さん、板谷さんの3人がルーヴル美術館を訪れます。

登場が予告されているのは、「ミロのヴィーナス」「サモトラケのニケ」「モナ・リザ」「美しきフェロニエール」、そして「ナポレオン3世の居室」です。

いずれもルーヴルを代表する重要な作品や空間です。

せっかくですので、それぞれについて簡単に見ていきましょう。

「ミロのヴィーナス」と「サモトラケのニケ」

まず登場するのが、「ミロのヴィーナス」です。

古代ギリシャ彫刻を代表する作品として世界的に知られています。

ルーヴル美術館によると、この像は1820年、エーゲ海に浮かぶメロス島、現在のミロス島で発見されました。

フランスの駐ギリシャ大使リヴィエール侯爵を経てフランス国王ルイ18世に献上され、その後、1821年にルーヴルへ寄贈されています。

現在では失われている両腕が何をしていたのかについても、長く議論されてきました。

しかしルーヴル到着後、欠損した腕を復元する案が出たものの、作品そのものを変えてしまうことへの懸念から実施されなかったといいます。

そして、もう一つの名作が「サモトラケのニケ」です。

こちらも古代ギリシャ彫刻を代表する作品。

現在はルーヴル美術館のドゥノン翼にあるダリュ階段の上に展示され、その圧倒的な存在感によって来館者を迎えています。

ルーヴル美術館によると、作品は紀元前2世紀初頭ごろのものと考えられ、1863年にサモトラケ島で発見されました。

翼を広げた女性像は、勝利の女神ニケを表しています。

特徴的なのは、その足元でしょう。

単なる台座ではありません。

像は船の船首をかたどった巨大な台座の上に立っています。

もともとはサモトラケ島にあった「偉大なる神々」の聖域に設置され、海上での勝利などを記念した奉納物だったと考えられています。

正面から見るだけでなく、風を受けて身体にまとわりつく衣の表現にも注目したい作品です。

テレビ画面越しでも十分迫力がありますが、実際には巨大な階段の最上部に配置されているため、下から見上げた際の印象が計算された展示になっています。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」

ルーヴル美術館と聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのが「モナ・リザ」ではないでしょうか。

作者はレオナルド・ダ・ヴィンチ。

ルーヴル美術館では現在、ドゥノン翼の「国家の間」に展示されています。

正式には、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・ゲラルディーニの肖像とされています。

つまり、「モナ・リザ」という名称そのものがモデルとなった女性と結びついているのです。

モデルとされるリザ・ゲラルディーニは、フィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻でした。

イタリアでは「ラ・ジョコンダ」、フランスでは「ラ・ジョコンド」と呼ばれるのも、夫の姓に由来します。

「モナ・リザ」がこれほど人を引きつける理由として、有名な微笑だけでなく、レオナルドが得意としたスフマートという技法があります。

輪郭をくっきり描くのではなく、煙がかったように境界を柔らかくぼかすことで、人物に独特の生命感を生み出す技法です。

また、「モナ・リザ」は1911年にルーヴルから盗まれたことでも知られています。

犯人はルーヴルで働いた経験を持つヴィンチェンツォ・ペルージャ。

作品は2年以上も行方不明になりましたが、イタリアで売却しようとしたことで発見され、再びフランスへ戻りました。

皮肉なことに、この盗難事件は新聞などで世界的に報じられ、「モナ・リザ」の知名度をさらに高める結果にもなりました。

番組では上田さんがどのような「うんちく」を披露するのかも注目したいところです。

「美しきフェロニエール」とは?モデルとなった女性は誰?

今回、SEO的にも注目しておきたい作品が「美しきフェロニエール」です。

「モナ・リザ」は誰もが知っていても、「美しきフェロニエール」と聞いてすぐ作品が思い浮かぶ人は、それほど多くないかもしれません。

しかし、この作品もレオナルド・ダ・ヴィンチの重要な女性肖像画です。

ルーヴルの作品データベースでは、1490年から1497年ごろに制作された作品として整理されています。

興味深いのが、その名称です。

実は「美しきフェロニエール」という呼称は、本来のモデル名が確定した結果つけられたものではありません。

ルーヴル美術館によれば、19世紀の画家ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルが、この肖像を別の作品の名称と取り違えたことから、「ラ・ベル・フェロニエール」の名前が定着したと説明されています。

では、描かれている女性はいったい誰なのでしょうか。

これも確定していません。

ルーヴル美術館は候補として、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに関係したルクレツィア・クリヴェッリなどの名を挙げています。

ただし、これはあくまで候補の一つ。

ほかにベアトリーチェ・デステ、イザベッラ・ダラゴーナなどもモデル候補として論じられてきました。

そのため、「美しきフェロニエール=ルクレツィア・クリヴェッリ」と断定してしまうのは適切ではありません。

むしろ、モデルが完全には特定されていないからこそ、見る人の想像を刺激する作品ともいえるでしょう。

女性の身体はやや斜めを向きながら、顔は別の方向へ動き、視線だけがわずかに外れています。

静止した肖像というより、「いま何かを見た瞬間」を切り取ったような不思議な動きがあります。

その点では、のちの「モナ・リザ」へとつながっていくレオナルドの肖像表現を考えるうえでも興味深い作品です。

豪華絢爛な「ナポレオン3世の居室」

絵画や彫刻だけではありません。

今回の番組では「ナポレオン3世の居室」も登場します。

名称だけを見ると、

「ナポレオン3世がここで暮らしていたのか」

と思ってしまいますが、実は少し違います。

ルーヴル美術館の公式解説によれば、いわゆるナポレオン3世の居室は、第二帝政期に整備された国務大臣のための空間です。

ナポレオン3世本人と皇帝一家が生活していたのはチュイルリー宮殿でした。

ナポレオン3世の時代、1852年から1870年の第二帝政期にはルーヴル宮の大規模な整備が進められました。

1861年にはリシュリュー翼も完成。

国務大臣とその家族のための私的な部屋のほか、公式行事や宴会などを行うための豪華な大広間が設けられました。

金色の装飾、巨大なシャンデリア、赤い布張りの家具などに囲まれた室内を見ると、「美術館」というより宮殿であることをあらためて実感します。

もともとルーヴルは、美術館として建てられた施設ではありません。

王宮として長い歴史を歩み、その空間が後に博物館へと転用されました。

その歴史を体感できる場所の一つが、ナポレオン3世の居室なのです。

田辺智加が巡ったパリの絶品スイーツ店はどこ?

美術を楽しんだあとは、食欲の秋です。

今回、パリのスイーツを担当するのが、ぼる塾の田辺智加さん

番組の事前情報によれば、田辺さんは複数のパティスリーやショコラトリーを巡り、本場パリの菓子を味わいます。

コンクールで受賞したチョコレートエクレア

まず登場するのがチョコレートエクレアです。

番組紹介では、田辺さんが訪れるのは、前年にパリを中心とする地域のコンクールでチョコレートエクレア部門1位を獲得した店とされています。

そこで田辺さんが食べるのは、話題のチョコレートエクレアだけではありません。

フランスの伝統菓子である「フラン」も登場します。

フランとは、カスタードを焼き固めたようなフランスの定番菓子です。

日本ではエクレアやマカロンほど知名度が高くありませんが、フランスではパティスリーやブーランジェリーなどでも見かける身近な存在です。

卵や牛乳を使った濃厚な生地と、店によって異なる食感が魅力。

華やかなデコレーションを施したケーキとは異なり、比較的素朴な見た目ですが、パリの普段の菓子文化を知るうえでは見逃せません。

ただし、2026年9月16日の放送前に公開された日本テレビ系の番組紹介記事では、このエクレアの店について具体的な店名までは確認できません。

「コンクール1位」という条件だけから特定店舗を推測することもできますが、本稿では番組で明示されていない店を断定しません。

放送内で店名が表示された場合には、その正式名称を確認する必要があります。

パリ最古のパティスリーで食べた「タルト・オ・シトロン」

続いて田辺さんが向かうのが、番組で「現存するパリ最古のパティスリー」と紹介される店です。

そこで登場するのが、「タルト・オ・シトロン」

フランス語で「レモンのタルト」を意味します。

番組の事前紹介では、「世界一おいしい」と称されるレモンタルトとして紹介されており、田辺さんもその爽やかな味わいに大きな反応を見せることが予告されています。

タルト・オ・シトロンは、フランス菓子の定番の一つ。

タルト生地の上に、レモン果汁や卵、砂糖などを使った酸味のあるクリームを合わせます。

店によっては上にメレンゲをのせることもあり、レモンの酸味と甘さ、タルト生地の香ばしさのバランスが腕の見せどころとなります。

今回の放送では、単に「おいしいレモンタルト」というだけでなく、「パリ最古のパティスリー」という歴史的な背景も大きなポイントになりそうです。

パリは新しいスイーツが次々に生まれる街である一方、数百年にわたって続いてきた菓子文化を持つ街でもあります。

最新スイーツと伝統菓子。

その両方を一つの旅で見せるところが、今回の企画の面白さでしょう。

なお、この店についても、放送前の事前記事では具体的な店名が本文中で明示されていません。

したがって、正式な店名、住所、価格などについては、放送内容または番組公式による追加情報を確認したうえで扱うのが確実です。

田辺智加が感涙した「パリでしか買えない究極のショコラ」

そして今回、最も気になるスイーツがこちらではないでしょうか。

田辺さんが向かうショコラトリーで登場するのが、「パリでしか手に入らない」と紹介されるチョコレートです。

田辺さんはチョコを口にすると、その味に感動して涙。

さらに、お土産用として大量に購入する様子も予告されています。

数多くのスイーツを食べてきた田辺さんが涙を流すほどですから、「どこのチョコなのか」と気になった人も多いことでしょう。

おそらく放送中から、

「田辺智加 パリ チョコ」

「上田と女 パリ ショコラ」

「田辺さんが泣いたチョコ」

「パリでしか買えないチョコ」

などで検索する人が増えることが考えられます。

ただし、ここも注意が必要です。

事前情報では、「パリでしか手に入らない」という説明は確認できますが、ショコラトリーの正式な店名や商品名までは明記されていません。

パリには世界的に有名なショコラティエが多数存在するため、人気店の名前だけを根拠に「あの店に違いない」と断定することはできません。

番組で店名や商品のパッケージが確認できた後に特定するのが安全でしょう。

田辺智加が食べたスイーツは日本でも買える?

テレビ番組で海外のスイーツが紹介されると、気になるのが、

「日本から購入できるのか」

という点です。

しかし今回については、すべての商品を一括して「日本でも買える」「通販できる」とすることはできません。

特に番組自身が「パリでしか手に入らない」と紹介しているショコラについては、少なくとも番組の企画趣旨上、現地限定品として扱われています。

一方で、海外パティスリーやショコラブランドの中には、日本に店舗を展開していたり、期間限定催事に出店したり、日本向けオンラインショップで商品を販売したりするケースもあります。

したがって、放送後に店名が分かった段階で、

日本店舗の有無、

公式オンラインショップ、

百貨店催事への出店、

日本への海外発送、

楽天市場やAmazonなどで正規品が取り扱われているか、

といった点を一つずつ確認するのがよいでしょう。

単に同じブランドの商品だからといって、番組で食べた商品そのものが日本で購入できるとは限らない点にも注意が必要です。

『上田と女が吠える夜』で訪れたパリのビストロはどこ?

4人が訪れたフレンチ・ビストロ

スイーツと美術だけではありません。

番組では4人でフレンチ・ビストロを訪れる様子も放送されます。

「ビストロ」とは、フランスで比較的気軽に料理を楽しめる飲食店を指す言葉として使われています。

もちろん店によってスタイルは異なりますが、高級レストランとは少し違い、家庭的な料理や伝統的なフランス料理を気軽な雰囲気で味わえる店も多く存在します。

パリ旅行では、美術館やエッフェル塔などの名所巡りだけに目が行きがちです。

しかし、実際の街の雰囲気を味わうのであれば、こうした飲食店で過ごす時間も重要です。

今回の番組では、観光名所を「見る」だけではなく、パリという都市を「食べる」という部分もしっかり組み込まれています。

事前情報では、4人でビストロを訪れることは明らかにされていますが、店名や具体的なメニューについては放送前の公表記事だけでは確認できません。

ここも放送後に注目したいポイントでしょう。

店の場所・メニュー・値段・予約方法は?

放送を見て、

「同じ店に行ってみたい」

と思った場合には、店名だけでなく、場所や予約方法まで確認しておきたいところです。

パリの人気店は予約が必要になることもあります。

海外旅行で訪れるのであれば、

正式な店名、

住所、

最寄りの地下鉄駅、

営業時間、

定休日、

予約の要否、

公式予約サイト、

代表的なメニュー、

価格帯、

といった情報を確認しておくと安心です。

特にテレビ放送後は、同じ店を訪れたい日本人旅行者が増える可能性があります。

ネット上の古い営業時間や価格だけに頼らず、実際に旅行するときには店の公式サイトや公式SNSなどで最新情報を確認することが重要です。

パリ観光で乗った「ビッグバス」とは?

エッフェル塔・凱旋門・セーヌ川などパリの名所を巡る

今回のパリ旅行では、出演者たちがBig Bus Paris(ビッグバス・パリ)にも乗車します。

これはパリ市内の主要観光地を巡る2階建ての観光バスです。

いわゆるホップオン・ホップオフ型の観光バスで、パリの主要スポットを効率よく巡る旅行者向けサービスとして利用されています。

Big Busの公式ルートでは、ルーヴル周辺、ノートルダム大聖堂、シャンゼリゼ通り・凱旋門周辺、トロカデロ、エッフェル塔、オペラ・ガルニエなどを結んでいます。

パリを初めて訪れる人にとって大きなメリットは、街の位置関係を把握しやすいことでしょう。

地下鉄は移動には便利ですが、地下を走るため当然ながら移動中の街並みは見られません。

その点、2階建てバスの上階からなら、パリの建築や街路を眺めながら次の観光地へ向かうことができます。

エッフェル塔や凱旋門といった巨大建造物を遠くから徐々に眺められるのも、バス観光ならではの楽しみです。

ビッグバスのルート・料金・乗り方

Big Busは、決められた停留所を巡回する形式です。

公式情報では、ルーヴル付近にも複数の乗車ポイントがあり、シャンゼリゼ、トロカデロ、エッフェル塔などの観光地を結んでいます。

旅行者はチケットの条件に応じ、停留所で乗り降りしながら観光することができます。

例えば、エッフェル塔で降りて観光し、その後再びバスに乗って凱旋門方面へ向かう、といった使い方が可能です。

注意したいのは、運行時間やチケット価格、ルートなどが将来変更される可能性があることです。

そのため、旅行で実際に利用する場合には、番組放送時の情報だけではなく、Big Bus公式サイトで利用日当日の条件を確認するのが確実です。

また、交通状況によって所要時間が変化する可能性もあります。

パリの名所を短時間で効率的に見たい人にとっては非常に便利な一方、一つの場所をじっくり見る旅とは目的が異なります。

旅程に合わせて使い分けたいところです。

番組で紹介された「ガチ厳選パリ土産」は何?

『上田と女が吠える夜』で紹介されたパリ土産一覧

旅行番組で毎回気になるものといえば、お土産です。

今回のスタジオでは「ガチ厳選パリ土産」の山分け企画も用意されています。

現時点では、事前情報だけからすべての商品名を確定させることはできません。

しかしパリ大満喫ツアーでは、スイーツ、ショコラ、観光、芸術とさまざまな要素が取り上げられるため、お土産についても番組放送中に具体的な商品が紹介される可能性があります。

特に注目したいのは、

商品名、

ブランド名、

購入した店舗、

現地価格、

日本販売の有無、

という5点です。

テレビ番組では商品そのものが映っても、視聴者がブランド名まで覚えられないことがあります。

そのため、

「上田と女 パリ土産」

「上田と女が吠える夜 フランス土産」

「松山ケンイチ パリ土産」

といった検索をする人も出てくるでしょう。

放送後に商品情報が明らかになった場合には、一覧形式でまとめておくと分かりやすそうです。

紹介されたパリ土産は日本や通販でも買える?

次に気になるのが、日本で購入できるかどうかです。

海外旅行のお土産として紹介された商品でも、日本国内に正規店舗がある場合や、日本向けオンラインストアから購入できる場合があります。

反対に、本店限定商品、パリ限定商品、季節限定品などの場合、日本では入手困難なこともあります。

また食品の場合には、海外通販そのものに対応していたとしても、日本への発送対象外となっていることがあります。

チョコレートなど温度管理が必要な商品では、配送できる季節や地域に制限があるケースも考えられます。

したがって、通販可能かどうかを調べる際には、「ブランドが日本にあるか」だけではなく、

番組で紹介された商品そのものがあるか、

日本の公式店舗で取り扱っているか、

正規通販か、

海外発送に対応しているか、

まで確認したいところです。

人気番組で紹介された直後には、類似商品や転売品が検索結果に現れることもあります。

できる限りブランド公式または正規販売店を確認したほうが安心でしょう。

『上田と女が吠える夜』パリ大満喫ツアーのロケ地・店舗まとめ

ルーヴル美術館・スイーツ店・ビストロ・観光スポット一覧

ここまで、『上田と女が吠える夜』のパリ大満喫ツアーについて見てきました。

2026年9月16日の放送前に公表されている情報を整理すると、今回の企画では大きく分けて、

ルーヴル美術館、

パリのスイーツ店、

歴史あるパティスリー、

ショコラトリー、

フレンチ・ビストロ、

Big Busによるパリ市内観光、

パリ土産、

というスポットやテーマが登場します。

ルーヴル美術館では、「ミロのヴィーナス」「サモトラケのニケ」「モナ・リザ」「美しきフェロニエール」などを鑑賞。

さらに絵画や彫刻だけではなく、豪華なナポレオン3世の居室も取り上げられます。

スイーツ巡りでは、田辺智加さんがチョコレートエクレア、フラン、タルト・オ・シトロン、ショコラなどを食べ歩きます。

そして4人でのビストロ、観光バス、スタジオでのお土産企画へと続きます。

芸術と食というパリの二つの大きな魅力を、一度に楽しめる構成になっていることが分かります。

パリ旅行で同じコースを巡るなら?

今回の番組を見て、

「いつか同じ場所を巡ってみたい」

と思う人もいるでしょう。

実際に番組のコースを再現するなら、一つ注意しておきたいことがあります。

ルーヴル美術館だけでも非常に広大です。

「モナ・リザを見て、ミロのヴィーナスを見て、サモトラケのニケを見て、ナポレオン3世の居室も見る」となると、館内をかなり移動することになります。

ルーヴル美術館公式の案内でも、モナ・リザはドゥノン翼の国家の間、サモトラケのニケはダリュ階段、ナポレオン3世の居室はリシュリュー翼というように、それぞれ異なる場所にあります。

そのため、番組と同じ作品を見たい場合には、事前に館内マップで位置を確認しておくのがおすすめです。

その後、パティスリーやショコラトリーへ向かい、夕方からビストロで食事をするという流れなら、「芸術と食のパリ」という今回の番組に近い旅行を体験できそうです。

さらにBig Busを組み合わせれば、エッフェル塔、凱旋門、シャンゼリゼ通りなど、ルーヴル以外の代表的な観光名所も一度に巡れます。

ただし、テレビ番組のロケは撮影用に時間や移動が調整されている場合があります。

同じ内容を1日ですべて再現できるとは限りません。

ルーヴル美術館だけの日、スイーツ巡りの日、市内観光の日と分けたほうが、実際の旅行では余裕を持って楽しめるでしょう。

今回の『上田と女が吠える夜』パリ大満喫ツアーは、「パリといえばエッフェル塔」という定番観光だけに終わらない企画です。

古代ギリシャの彫刻からレオナルド・ダ・ヴィンチ、第二帝政期の宮殿装飾までをたどる芸術の旅。

一方では、数百年の伝統を持つパティスリーから現代の人気ショコラまでを味わう食の旅。

そして、その間を観光バスでつなぎながら、パリという都市そのものを楽しみます。

テレビを見て気になった場所を調べるだけでも、そこから美術史やフランス菓子の歴史へと興味は広がっていきます。

特に「美しきフェロニエール」のように、普段は「モナ・リザ」の陰に隠れがちな作品にスポットが当たるのも、今回の企画の面白いところです。

田辺智加さんが涙を流したショコラも、放送後には大きな話題になるかもしれません。

何より大切なのは、番組で紹介された店や商品を探す際、似た条件の店を推測だけで特定しないことです。

放送内で表示された正式な店名や、日本テレビから追加公開される情報を確認しながら追っていけば、「あの店はどこだったの?」という疑問にも正確に答えられます。

芸術を見て、甘いものを味わい、街を走り、ビストロで食事をする。

『上田と女が吠える夜』のパリ大満喫ツアーは、そんなパリの魅力をぎゅっと詰め込んだ旅になりそうです。

そのままWordPressの「コードエディター/カスタムHTML」や、はてなブログのHTML編集画面へ貼り付けられる形式です。

【ホンマでっか!?TV】 令和の結婚事情とは?三家男子・37%ルール・代理婚活を徹底解説

結婚相手を選ぶなら、やはり「高収入」「高学歴」「高身長」――そんな時代は、すでに過去のものなのでしょうか。

令和8(2026)年9月16日放送予定の『ホンマでっか!?TV』では、「EXIT兼近が結婚相談所に登録!?令和の結婚事情」と題して、昭和・平成から大きく変わった現代の恋愛や婚活事情が取り上げられます。

番組予告を見ると、かなり気になる言葉が並んでいます。

親が子どもに代わって相手を探す代理婚活、令和の女性が求めるという「三家男子」、理想の相手を探すための「37%ルール」、そして「年収2000万円以上の男性は結婚しにくい」という、思わず「ホンマでっか?」と言いたくなる説まで登場する予定です。

ただ、ここで注意したいのは、テレビ番組で紹介される「説」と、日本社会全体に当てはまる統計的な事実は必ずしも同じではないということです。

そこで今回は、番組の予告内容だけでなく、国立社会保障・人口問題研究所や厚生労働省などの公的データも確認しながら、令和の結婚事情について詳しく見ていきます。

「三家男子って何?」「37%ルールとは?」「本当に高収入男性は結婚しにくいの?」と疑問に思った方も、ぜひ最後までご覧ください。

 

『ホンマでっか!?TV』で紹介される「令和の結婚事情」とは?

令和8(2026)年9月16日放送予定の『ホンマでっか!?TV』では、昭和・平成から大きく変わった現代の結婚事情が特集されます。

番組予告によると、「出会い市場は1000億円超え」「親同士の代理婚活が増加中」「令和の女性が求めるのは三家男子」「理想の相手は37%ルール」といった内容が紹介される予定です。

MCは明石家さんまさん、進行は井上清華アナウンサー。ゲストには北乃きいさんと、お笑いコンビ「カーネーション」の吉田結衣さんが出演します。

さらにEXITの兼近大樹さんが結婚相談所に登録する企画も予定されており、単なる「結婚論」ではなく、実際の婚活の現場にも踏み込む内容になりそうです。

職場・学校・合コンからマッチングアプリへ変化した出会い方

まず大きく変わったのが、男女が知り合う「場所」です。

一昔前であれば、職場、学校、友人の紹介、合コンなどが代表的な出会いの場でした。

ところが現在は、スマートフォン一つで全国の人とつながることができます。その象徴ともいえるのがマッチングアプリです。

これは単なる印象論ではありません。

国立社会保障・人口問題研究所が令和3(2021)年に実施した「第16回出生動向基本調査」によると、最近結婚した夫婦のうち、SNSやマッチングアプリなどのインターネットサービスを通じて知り合った夫婦は13.6%を占めています。

同研究所は、職場や友人を介した結婚が減少する一方で、インターネットを利用した出会いが増えていることを指摘しています。

未婚者の交際相手との出会いを見ても、「学校」「友人や兄弟姉妹を通じて」「職場や仕事の関係で」と並んで、「インターネットで」という回答が一定の割合を占めています。

つまり、「ネットで出会った相手と付き合う」「アプリで知り合った相手と結婚する」ということ自体が、珍しい話ではなくなりつつあるのです。

昭和の時代なら「職場の同僚」、平成なら「合コン」、令和なら「アプリ」というように、出会いの入口そのものが時代とともに変化したといえるでしょう。

結婚相談所では男性の登録が増えている?

番組予告では、結婚相談所に登録する男性が増え、女性の登録者数を上回っているという話題も紹介される予定です。

ただし、この点は注意が必要です。

「日本全国すべての結婚相談所で男性会員が女性会員を上回っている」と確認できる公的な全国統計が番組予告に示されているわけではありません。

したがって、現段階では「番組でそのような説・データが紹介される予定」と考えるのが適切でしょう。

とはいえ、男性が婚活サービスを積極的に利用すること自体は、不思議ではありません。

以前なら、結婚相談所に登録することについて「自力では相手を見つけられない人が行く場所」というイメージを抱く人もいたかもしれません。

しかし現在は、アプリも相談所も「効率的に条件の合う人と出会うための手段」として利用されています。

仕事が忙しい人、日常生活で異性との接点が少ない人、結婚を前提とした相手と早く出会いたい人にとっては、最初から「結婚したい人」が集まっている場所を利用する方が合理的ともいえます。

令和では結婚相手に求める条件も変化している

では、結婚相手に求める条件はどう変わったのでしょうか。

ここは非常に興味深いところです。

国立社会保障・人口問題研究所の第16回出生動向基本調査では、未婚者に対して「結婚相手を決めるとき何を重視するか」を尋ねています。

女性の場合、相手の「収入などの経済力」を「重視する」と回答した割合は36.3%、「考慮する」は55.3%でした。

つまり、経済力が重要でなくなったわけではありません。

一方、「相手の人がら」を重視する女性は88.2%、「家事・育児に対する能力や姿勢」を重視する女性は70.2%に達しています。

さらに「自分の仕事に対する理解と協力」を重視する女性も55.9%でした。

ここに令和の結婚観を考えるヒントがあります。

単に「給料が高い男性ならよい」ということではなく、

「一緒に暮らせる人なのか」

「家事や育児を一緒に担えるのか」

「自分の仕事や人生を尊重してくれるのか」

といった、結婚後の生活そのものを見据えた条件が重要になっているのです。

令和の女性が求める「三家男子」とは?

今回の『ホンマでっか!?TV』で、とくに検索されそうなのが「三家男子」という言葉です。

番組予告には「令和の女性が求めるのは三家男子」と明記されています。

「三高なら知っているけど、三家って何?」

そう感じた方も多いのではないでしょうか。

「三家男子」の意味と3つの条件

まず重要な点があります。

令和8(2026)年9月16日の放送前時点では、確認できる番組公式系の予告情報に「三家男子」の具体的な3条件までは掲載されていません。

したがって、「三家=○○・○○・○○です」と推測で断定することはできません。

番組では評論家が具体的な意味を説明すると考えられますが、現段階で確実なのは「令和の女性が求める男性像として『三家男子』という言葉が紹介される予定」というところまでです。

インターネットでは、番組放送前から言葉の意味を推測する記事が出てくる可能性があります。

しかし、新しい流行語や番組独自の表現については、元となる発言を確認することが重要です。

放送後には「三家男子とは」「三家男子の3条件」「三家男子の意味」といった検索が増える可能性がありますが、まずは実際の放送内容を確認したいところです。

なぜ令和の女性は「三家男子」を求めるのか?

具体的な「三家」の内訳はまだ分かりません。

それでも、現在の結婚相手選びが「スペックだけではない方向」に広がっていることは、公的調査から確認できます。

先ほど触れた通り、国立社会保障・人口問題研究所の調査では、女性の70.2%が結婚相手の「家事・育児に対する能力や姿勢」を重視すると回答しました。

前回調査では57.7%だったため、その割合は大きく上昇しています。

この変化は重要です。

かつては、夫が外で働き、妻が家事や育児を担うという家族像が広く共有されていました。

しかし共働き世帯が一般的になれば、結婚相手を見る視点も変わります。

夫婦ともに仕事を続けるのであれば、家事をどちらがするのか。

子どもが生まれたら、育児をどのように分担するのか。

病気になったときはどうするのか。

転勤や転職が必要になったら、互いの仕事をどう考えるのか。

こうした現実的な問題が、結婚相手を選ぶ段階から意識されるようになります。

その意味では「年収だけで結婚相手を判断しなくなった」というより、「見るべき条件が増えた」と考える方が実態に近いでしょう。

かつての「三高」など結婚相手の条件と何が違う?

結婚相手の条件を表す言葉として有名なのが「三高」です。

一般的には「高学歴・高収入・高身長」の男性を指す言葉として知られています。

これは、男性の社会的・経済的な条件を重視した男性像でした。

一方、現在の婚活では、経済力だけでなく、人柄、価値観、家事能力、育児への姿勢、働き方への理解なども条件に含まれるようになっています。

つまり、数字で比較しやすいスペックだけではなく、「結婚後に一緒に生活できるか」という部分が以前より目立つようになっているのです。

ここで誤解してはいけないのは、「女性はもう男性の収入を気にしない」ということではありません。

前述した調査を見ると、経済力を「重視する」「考慮する」を合わせれば非常に高い割合になります。

しかし、人柄や家事・育児への姿勢も同時に重視されています。

令和の結婚では、一つの強烈な長所だけではなく、複数の条件を総合的に見る傾向があると考える方がよさそうです。

理想の結婚相手を選ぶ「37%ルール」とは?

番組予告でもう一つ気になるのが、37%ルールです。

「理想の相手は37%ルール」と紹介される予定ですが、これは単なる恋愛テクニックではありません。

実は数学の「最適停止問題」と深い関係があります。

37%ルールの基本的な考え方

37%ルールの代表例として知られているのが「秘書問題」です。

仮に、あなたが100人の候補者の中から1人だけ採用するとします。

ただし条件があります。

候補者とは1人ずつしか面接できません。

一度不採用にした人を後から呼び戻すこともできません。

まだ会っていない人がどの程度優秀なのかも分かりません。

では、どこまで候補者を見れば、「そろそろ決めるべきだ」と判断できるのでしょうか。

古典的な秘書問題では、まず全候補の約37%を選ばずに観察し、その37%の中で最も良かった人を基準にします。

そして残りの候補者の中から、その基準を初めて上回った人を選びます。

これが有名な37%ルールです。

なぜ「37%」なのか?数学との関係

なぜ30%でも50%でもなく、37%なのでしょうか。

ここには「e」と呼ばれる数学上の定数が関係しています。

自然対数の底eは約2.718で、その逆数である1/eは約0.3679。

つまり約36.8%です。

候補者が十分多い場合、最初の約36.8%を観察期間として使い、その後で過去最高を上回る候補者を選ぶ戦略が、「全候補の中で最高の1人」を選ぶ確率を最大化することが知られています。

成功確率そのものも、おおむね1/e、つまり約37%に近づきます。

100人と会う予定なら、最初の37人ほどは「比較対象」として見る。

そして38人目以降で、それまでの37人全員より良い人が現れたら選ぶ。

かなり思い切った方法です。

37%ルールを恋愛や婚活に使うとどうなる?

この秘書問題は、「結婚問題」と呼ばれることもあります。

例えば「30歳までに結婚相手を決めたい」と考えた場合、恋愛できる期間の最初の約37%を経験期間として考え、それ以降に出会った人の中から、過去の相手を上回る人を選ぶ――という応用の仕方です。

ただ、もちろん現実の恋愛は数学の問題ほど単純ではありません。

人間には感情があります。

相手にも選ぶ権利があります。

一度別れた相手と復縁することもあります。

そもそも「人生で何人と出会うのか」が最初から決まっているわけでもありません。

それでも、この考え方には一つ面白いところがあります。

それは「いつまでも比較し続ければいいわけではない」という点です。

もっと良い人がいるかもしれない。

次の人ならもっと条件がいいかもしれない。

そう考え続ければ、選択肢は永遠に決まりません。

37%ルールは、恋愛の答えを教えるというより、「情報を集める時期」と「決断する時期」を分ける考え方と見ると理解しやすいでしょう。

37%ルールには限界もある

ただし、このルールを「37%までの人とは絶対に結婚してはいけない」と解釈してはいけません。

古典的な秘書問題には、かなり厳しい前提があります。

候補者の総数が決まっている。

候補者はランダムな順番で現れる。

一度断った相手には戻れない。

全員を明確に順位付けできる。

目的は「最高の1人」を選ぶことだけ。

現実の婚活では、これらの条件はほとんど成立しません。

数学的な研究でも、古典的秘書問題の仮定は現実の意思決定にそのまま当てはめるには制約が強いことが指摘されています。

したがって37%という数字は、「恋愛では37%地点で必ず決断すれば成功する」という法則ではありません。

あくまで一定の条件下で成立する数学モデルです。

ここは番組を見る際にも押さえておきたいポイントでしょう。

年収2000万円以上の男性でも結婚しにくい?

今回の予告で、最もインパクトがあるのは「年収2000万円以上の男性は結婚しにくい」という説かもしれません。

一般的に考えれば、年収2000万円と聞けば「婚活ではかなり有利なのでは?」と思いますよね。

ところが番組では、令和では「あること」を重視して相手を選ぶ人が増えたことが背景にあると紹介される予定です。

「高収入=結婚しやすい」とは限らない?

まず、「年収2000万円以上の男性は一般的に結婚しにくい」と全国民に当てはめることはできません。

番組予告だけでは、どの調査を使い、どの年齢層を対象とし、どのような意味で「結婚しにくい」としているのかまでは分からないためです。

放送では、そのデータの出典にも注目したいところです。

しかし、「収入が高ければ他の条件は関係ない」という考え方が現在の結婚観と一致しないことは、公的な調査からも見えてきます。

女性が男性の経済力を考慮していることは事実です。

一方で、人柄や家事・育児に対する姿勢も高い割合で重視されています。

つまり、年収2000万円という強い条件を持っていても、家事をまったくしない、相手の仕事を尊重しない、育児はすべて妻に任せる、価値観が大きく違う、コミュニケーションが成立しないといった別の条件に問題があれば、高収入だけで補えるとは限りません。

令和の女性は男性の年収以外に何を重視する?

公的調査を見ると、非常に分かりやすい結果があります。

第16回出生動向基本調査で、女性が結婚相手について「重視する」と答えた割合は、「人がら」が88.2%でした。

家事・育児に対する能力や姿勢は70.2%。

自分の仕事への理解と協力は55.9%。

経済力は36.3%でした。

ただし、経済力については「考慮する」が55.3%あります。

そのため「女性は年収を見なくなった」という結論も正しくありません。

むしろ、

「経済力も見る。しかし、それだけでは決めない」

という方が実態に近いのではないでしょうか。

令和の結婚相手選びで重視されるポイントとは

結婚は、恋愛のゴールであると同時に生活のスタートでもあります。

結婚すれば、家計、住居、仕事、家事、育児、介護など、現実的な課題が次々と出てきます。

そのため、現代の結婚相手選びでは「一緒に生活を運営できる相手なのか」が重要になります。

この変化には、女性の就業継続とも関係がありそうです。

国立社会保障・人口問題研究所によると、平成27(2015)~令和元(2019)年に第1子を出産した妻では、出産前後の就業継続率が69.5%に達しています。

妻も働き続ける家庭が増えれば、「夫が稼ぎ、妻が家庭を守る」という一つのモデルだけでは生活が成り立ちません。

男性の収入に加えて、家事能力や育児への姿勢が重視されるようになるのも自然な流れでしょう。

親が子どもの結婚相手を探す「代理婚活」とは?

今回の番組では代理婚活も紹介される予定です。

「婚活なのに本人ではなく親が動くの?」

と驚くかもしれません。

しかし、親同士による婚活イベントは実際に存在しています。

親同士が行う代理婚活とはどんなもの?

代理婚活とは、結婚を希望する本人に代わり、親が相手探しのきっかけを作る婚活スタイルです。

一般的には、未婚の息子や娘を持つ親が交流会などに参加します。

そこで子どもの年齢、職業、居住地域などが記載されたプロフィールを持ち寄り、親同士で情報交換します。

双方が関心を持てば、その後、本人同士の出会いにつなげるという流れです。

現在も親同士の代理お見合いを開催する団体が存在しており、令和8(2026)年にも各地で関連イベントが行われています。

ある意味では、昔の「親が縁談を持ってくる」という仕組みを現代風にしたものともいえるでしょう。

なぜ令和に代理婚活が注目されている?

ここには、少し不思議な現象があります。

一方では、スマートフォンのアプリを使って本人同士が直接知り合う。

もう一方では、親が相手探しに参加する。

最先端の出会いと、昔ながらの縁談のような出会いが同時に存在しているのです。

背景の一つとして考えられるのが、未婚化や晩婚化です。

厚生労働省によると、令和7(2025)年の婚姻件数は48万9119組でした。前年より増加したものの、昭和47(1972)年の109万9984組をピークに長期的には大きく減少しています。

令和7(2025)年の平均初婚年齢は夫31.0歳、妻29.7歳でした。

結婚する年齢が高くなり、日常生活の中だけでは新しい出会いを作りにくい人もいます。

そこでアプリ、相談所、婚活パーティー、そして親による代理婚活など、出会いの入口が多様化しているのでしょう。

代理婚活にはどんなメリット・注意点がある?

代理婚活のメリットは、本人だけでは作れなかった出会いのきっかけを増やせることです。

仕事が忙しい。

婚活に踏み出せない。

どうやって相手を探せばいいか分からない。

こうした人にとって、家族が最初の入口を作ることには一定の意味があります。

しかし、最大の注意点は本人の意思です。

親同士が盛り上がっても、実際に交際し、結婚生活を送るのは子ども本人です。

結婚相談所などでも、親から相談を受けることはあっても、本人の同意なしに婚活を進めることの問題が指摘されています。

親ができるのは、あくまで「出会いのきっかけ」を作るところまで。

相手と会うのか。

交際するのか。

結婚するのか。

最後に決めるのは本人です。

これは代理婚活を考えるうえで、もっとも重要な点でしょう。

EXIT兼近大樹が結婚相談所に登録?番組では何をする?

今回の放送では、EXITの兼近大樹さんにも注目です。

番組タイトル自体が「EXIT兼近が結婚相談所に登録!?」となっています。

兼近さんは平成3(1991)年5月11日生まれ、北海道出身。吉本興業所属のお笑いコンビ・EXITのメンバーです。

兼近大樹が結婚相談所に登録する企画とは

予告段階で分かっているのは、兼近さんが結婚相談所に登録する内容が番組の柱の一つになっているということです。

これまで結婚相談所に馴染みのなかった視聴者にとっても、有名芸能人が実際に登録する過程を見ることで、どのようなプロフィールを書くのか、どのような条件を入力するのか、どんな相手を希望するのか、相談所では何を聞かれるのか、といった仕組みを知る機会になりそうです。

「結婚相談所」という言葉は知っていても、実際に中で何をするのかまでは知らない人も多いでしょう。

その意味で、兼近さんの企画は今回の「令和の結婚事情」を象徴する企画ともいえそうです。

兼近大樹が結婚相手に求める条件は?

ここも検索されそうなところですが、放送前の段階では、兼近さんが相談所で提示する具体的な希望条件までは公式系の番組予告で確認できません。

したがって、現時点で「兼近さんは○○な女性を希望している」などと断定することはできません。

番組では、実際のプロフィール作成や条件設定の中で明かされる可能性があります。

ゲストの北乃きいさんは平成3(1991)年3月15日生まれ、神奈川県出身。吉田結衣さんは平成元(1989)年3月17日生まれ、大阪府出身です。

番組予告では、二人の恋愛に関するトークも予定されています。

芸能人の恋愛観と、評論家が紹介するデータがどのように絡むのかも見どころになりそうです。

どこの結婚相談所に登録した?

「兼近 結婚相談所 どこ」

これは放送中や放送後に検索する人が多そうなキーワードです。

しかし令和8(2026)年9月16日の放送前時点では、筆者が確認した公式系の番組情報に、登録する相談所の名称は掲載されていません。

そのため、特定の相談所名を挙げることはできません。

番組内で名称が公開されるのか、それとも非公開なのかも、放送を確認する必要があります。

検索結果にはさまざまな推測が出てくる可能性がありますが、番組で確認できない情報については慎重に判断した方がよいでしょう。

令和の婚活・結婚事情は昭和や平成とどう変わった?

ここまで見てくると、今回の『ホンマでっか!?TV』のテーマは、単に「最近の若者はこんな結婚をしている」という話だけではないことが分かります。

変わったのは、結婚そのものよりも「結婚に至るまでの仕組み」なのかもしれません。

昭和・平成と令和では「出会う場所」が違う

かつては、学校、職場、友人・知人の紹介など、所属しているコミュニティの中で相手を見つけることが一般的でした。

実際、第16回出生動向基本調査でも、夫婦が知り合ったきっかけとして「職場や仕事の関係」「友人や兄弟姉妹を通じて」「学校」が大きな割合を占めています。

しかし、インターネットの普及によって事情が変わりました。

住んでいる場所も、職場も、学校も違う相手と知り合うことができます。

これまでなら接点がなかった人同士が出会えるようになったのです。

これは婚活にとって非常に大きな変化です。

選択肢が増える一方で、「もっと良い人がいるのではないか」と比較し続けることもできます。

だからこそ、37%ルールのような「どこで探すのをやめるのか」という考え方が話題になるのかもしれません。

「高収入・高学歴」だけではない結婚相手選びへ

もう一つの変化が、結婚相手を見る尺度です。

学歴や年収といった条件が消えたわけではありません。

しかし、それに加えて、人柄、家事・育児能力、仕事への理解、共通の趣味など、多くの条件が意識されています。

興味深いのは男性側にも変化が見られることです。

国立社会保障・人口問題研究所によると、男性が女性の経済力を「重視または考慮」する割合は、前回調査の41.9%から48.2%へ上昇しました。

これは結婚観の変化が、女性側だけに起きているわけではないことを示しています。

「夫が妻を養う」

「妻が家庭を守る」

という一方向の役割分担から、

「二人で働く」

「二人で生活を作る」

という形へ、少しずつ重点が移っていることがうかがえます。

マッチングアプリ・結婚相談所・代理婚活という新しい選択肢

令和の婚活には、驚くほど多くの入口があります。

スマートフォンで相手を探すこともできます。

専門家に相談して相手を紹介してもらうこともできます。

イベントに参加する方法もあります。

さらには、親がきっかけを作る方法まであります。

一見するとバラバラですが、共通していることがあります。

それは「自然に誰かと出会うのを待つ」のではなく、出会いそのものを意識的に作るということです。

職場結婚が多かった時代なら、仕事をしているだけでも一定の出会いがありました。

しかし働き方も生活スタイルも多様化した現在では、自分から出会いの場にアクセスしなければ、新しい人間関係が生まれないケースもあります。

そこで婚活サービスという市場が広がっているわけです。

番組では「出会い市場は1000億円超え」と紹介される予定ですが、この数字についても、具体的にどの市場・どの調査を指しているのかは放送で確認したいところです。

令和の結婚事情から見える価値観の変化

では、結局のところ「令和の結婚事情」は何が一番変わったのでしょうか。

筆者が公的統計と番組予告を見比べて感じるのは、結婚相手に求める条件が単純になったのではなく、むしろ複雑になったということです。

経済力も必要。

人柄も大事。

家事や育児も一緒にできる方がいい。

仕事にも理解がほしい。

価値観も合っていてほしい。

そして、相手を探す方法も、職場、友人の紹介、アプリ、相談所、婚活イベント、代理婚活など多様になっています。

選択肢が増えることは自由が増えることでもあります。

しかし同時に、「誰を選べばいいのか分からない」という悩みも増えます。

そこで今回登場する「37%ルール」のような考え方が注目されるのでしょう。

厚生労働省によると、令和7(2025)年の婚姻件数は48万9119組。前年からは4027組増え、2年連続の増加となりましたが、昭和47(1972)年の約110万組と比較すれば、結婚をめぐる社会環境が大きく変化してきたことは間違いありません。

ただ、「昔より結婚しなくなった」の一言だけでは、現代の姿を十分には説明できません。

結婚するかどうか。

いつ結婚するか。

どこで相手を探すか。

何を相手に求めるか。

その一つ一つを自分で選べる時代になったからこそ、婚活の方法も価値観も多様化しているのではないでしょうか。

令和8(2026)年9月16日の『ホンマでっか!?TV』では、「三家男子」の具体的な意味や「年収2000万円以上の男性は結婚しにくい」という説の根拠、そして兼近大樹さんの結婚相談所体験などが紹介される予定です。

なかでも「三家男子」が具体的に何を指すのかは、放送前にはまだ明らかになっていません。

だからこそ、実際の放送でどのように説明されるのか注目です。

昭和から平成、そして令和へ。

結婚相手の探し方は変わっても、「誰と、どんな生活を送りたいのか」という問いそのものは変わりません。

今回の『ホンマでっか!?TV』は、そんな「現代人にとって結婚とは何なのか」を考えるきっかけにもなりそうです。

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【グローバルヒストリー】佐藤百太郎とは何者?ニューヨーク「謎のビジネスマン」と新井領一郎を解説

佐藤百太郎の軌跡を追う。

明治時代、多くの日本人がまだ海外へ行くことすら珍しかったころ、すでにニューヨークで商売に挑んでいた日本人がいました。

その人物こそ、佐藤百太郎です。

NHK『大追跡グローバルヒストリー File07 ニューヨーク 謎のビジネスマンを追う』では、ニューヨークに残された記録から、この知られざる日本人実業家の足跡を追っています。

しかし、物語は佐藤百太郎一人では終わりません。

佐藤のもとには、やがて新井領一郎や森村豊ら若者が集まりました。彼らは後世、オーシャニック・グループと呼ばれ、日本とアメリカを直接つなぐ貿易に挑戦していきます。

なかでも新井領一郎が選んだ商品が生糸でした。

現在から見れば、日本企業が海外へ商品を輸出することは珍しくありません。しかし、明治初期には外国商人を介さず、日本人自身が海外で販売先を開拓すること自体が大きな挑戦でした。

では、佐藤百太郎とは何者だったのでしょうか。

なぜ若くしてアメリカへ渡り、ニューヨークで商売を始めたのでしょう。

そして、佐藤の志を受け継いだ新井領一郎たちは、その後どのような道を歩んだのでしょうか。

今回は『大追跡グローバルヒストリー』の内容を入口に、明治の日米貿易を切り開いた若者たちの足跡をたどっていきましょう。

 

 

『大追跡グローバルヒストリー』ニューヨークの「謎のビジネスマン」とは?

謎の人物「サトウ・モモタロウ」の正体は佐藤百太郎

番組で追跡される重要人物が「サトウ・モモタロウ」です。

これは佐藤百太郎のことです。

佐藤は嘉永6(1853)年、現在の千葉県佐倉市にあたる下総国佐倉に生まれました。父は佐倉順天堂に関係した医師・佐藤尚中です。没年は明治43(1910)年12月24日で、57歳でした。

なお、佐藤については嘉永6(1853)年生まれであることは確認できますが、信頼できる公開資料では誕生の「月日」まで確定できません。そのため、ここでは無理に生年月日を補わず、「嘉永6(1853)年生まれ」としておきます。

佐藤の人生で驚かされるのは、その渡米の早さです。

佐藤は慶応3(1867)年にはすでにアメリカへ渡っていました。嘉永6(1853)年生まれですから、まだ10代前半です。

番組では、語学力を身につけた佐藤が、のちに岩倉使節団に通訳として関わったことも紹介されています。

明治4(1871)年から岩倉具視を全権大使として欧米を巡った岩倉使節団は、明治政府にとって世界を知る巨大な学習の機会でした。

そんな使節団に若き佐藤も関わっていたというのです。

番組ではさらに、佐藤がアメリカで学んだ後、22歳ほどの若さでニューヨークに日本雑貨を扱う店を開いたことが紹介されています。

明治初期の日本を考えると、驚くべき経歴ではないでしょうか。

佐藤百太郎はなぜニューヨークでビジネスを始めたのか

佐藤が活動した1870年代のアメリカは、南北戦争後の急速な経済発展の時代でした。

のちに「金ぴか時代(Gilded Age)」と呼ばれるこの時期、鉄道網が急速に拡大し、都市人口も増え、ニューヨークをはじめとした大都市では巨大な消費市場が形成されつつありました。

そこへ目をつけたのが、日本から渡った若い実業家たちでした。

佐藤は日本から輸出される茶、絹、陶器、漆器などと、アメリカで製造された機械類などを交換することを構想し、ニューヨークに会社を設立していました。

つまり佐藤の発想は、単に「アメリカで日本の商品を売って儲ける」というものだけではありません。

日本の商品をアメリカへ送り、アメリカの商品を日本へ送る。

日本とアメリカの間に、日本人自身による貿易ルートをつくろうとしていたのです。

明治10(1877)年版のニューヨーク住所録には、「Japanese Goods. Sato Momotaro, 97 Front」と記録されています。

マンハッタンのフロント・ストリート97番地で、日本の商品を扱っていた佐藤百太郎の存在を示す貴重な記録です。

明治初期のニューヨークで日本人が商売をする意味

ここで大切なのは、当時の日本人が置かれていた貿易環境です。

幕末に開国した日本では、横浜などの外国人居留地を拠点とする外国商人が貿易で大きな力を持っていました。

日本の生産者や商人が商品を海外へ売ろうとしても、海外の最終的な顧客と直接取引できるとは限りません。

そこで明治初期の実業家たちの間では、「外国商人を介さず、自分たちで海外市場へ商品を売れないか」という発想が生まれてきました。

これが、いわゆる直輸出です。

佐藤百太郎が注目される理由もここにあります。

商売そのものが最終的に成功したか失敗したかだけでなく、「日本人が自分たちで海外市場へ乗り出す」という考えを、非常に早い段階で実行に移した人物だったのです。

佐藤百太郎とは何者?経歴と日米貿易への挑戦

佐藤百太郎と岩倉使節団・アメリカとの関係

佐藤は医師の家に生まれました。

ところが、父と同じ医学の世界だけに進むのではなく、若くして英語を学び、海外へと目を向けます。

慶応3(1867)年には渡米。その後、明治初期の日本政府が欧米へ送り出した岩倉使節団にも通訳として関係しました。

この経験は、佐藤にとって大きな意味を持ったでしょう。

明治政府の官僚や政治家が欧米の制度を学んでいた同じ時期に、佐藤は「商売」という別の角度からアメリカ社会を見ていたことになります。

鉄道が走り、巨大な商店が並び、さまざまな商品が取引される。

それまでの日本とはまったく異なる資本主義社会が、目の前に広がっていました。

佐藤にとってアメリカは、単なる留学先ではなく、新しい商売の仕組みを学ぶ巨大な学校でもあったのではないでしょうか。

福沢諭吉を訪ね、アメリカへ渡る若者を募集

佐藤一人だけがアメリカで商売していたとしても、できることには限界があります。

そこで佐藤は次の一手を打ちました。

明治8(1875)年、日本へ一時帰国したのです。

番組で紹介された国立公文書館関係の史料では、佐藤がニューヨークで商業を始めた日本人たちの指導者的な役割を担っていたことがうかがえます。

帰国した佐藤が訪ねた人物の一人が福沢諭吉でした。

そして、アメリカへ渡って商業を学び、実際に貿易に携わる若者を募集します。

番組によれば条件には、「英語と商業に通じていること」、そして高額な渡航費を準備できることなどがありました。

そこで集まったのが、新井領一郎、森村豊、鈴木東一郎、伊達忠七、増田林蔵です。

福沢と佐藤の関係も興味深いところでしょう。

福沢自身も幕末にアメリカやヨーロッパを訪れ、西洋社会を実際に見ています。

政治家を海外へ送り出すだけでは、日本の近代化は完成しません。

海外を知る商人、企業家、技術者も必要です。

佐藤が求めた「商業実習生」は、まさにその役割を担う若者たちだったのです。

佐藤百太郎が目指した「日本からアメリカへの直接貿易」とは

なぜ彼らは、これほどまでに直接貿易にこだわったのでしょう。

当時の貿易では、日本の商品が外国商人の手を経由して海外へ流れていくケースが多くありました。

商品を生産した日本人と、それを実際に購入するアメリカの企業との距離が遠いのです。

そこには利益の問題だけではなく、市場情報の問題もありました。

アメリカ人が何を欲しがっているのか。

どのような品質の商品なら高く売れるのか。

どんなデザインが受け入れられるのか。

外国商人を通しているだけでは、こうした情報を日本側が直接つかむことが難しくなります。

そこで自ら海外へ行き、現地の買い手と話し、売れない理由まで聞き出す。

現在でいう海外マーケティングそのものです。

佐藤百太郎らの挑戦が重要なのは、この「売る場所まで自分で行く」という発想を明治初期に実践していたからです。

オーシャニック・グループとは?メンバーと渡米の目的

明治9(1876)年、オーシャニック号でニューヨークへ

明治9(1876)年3月10日、一行は横浜を出港しました。

乗船した船がオーシャニック号です。

佐藤を含めた6人はサンフランシスコを経由し、同年4月10日にニューヨークへ到着しています。

佐藤は23歳、森村豊は20歳ほどでした。

現代なら東京からニューヨークまで飛行機で十数時間ですが、明治9(1876)年です。

太平洋を船で渡り、アメリカ大陸を横断しなければなりません。

しかも彼らの目的は観光でも短期留学でもありません。

現地で商品を売り、商売そのものを成立させることでした。

この6人が、後にオーシャニック・グループと呼ばれるようになります。

新井領一郎・森村豊・鈴木東一郎・伊達忠七・増田林蔵とは

メンバーには、それぞれ担当する商品がありました。

新井領一郎が生糸、森村豊と鈴木東一郎が雑貨、伊達忠七が美術骨董、増田林蔵が茶を扱う人物として知られています。

なかでも後世に大きな足跡を残したのが新井領一郎と森村豊です。

新井領一郎は、安政2年7月19日(1855年8月31日)、上野国勢多郡水沼村、現在の群馬県桐生市黒保根町水沼に生まれました。

父は星野弥平。兄に星野長太郎がいました。

幼名は良助とされ、12歳で生糸商・新井家の養子となります。

そして兄・星野長太郎の構想を背負い、アメリカへ渡りました。

一方の森村豊は嘉永7(1854)年生まれ。慶應義塾で学び、明治7(1874)年に卒業した後、助教も務めました。

福沢諭吉の推薦を受けて佐藤の商業実習生となり、アメリカへ渡った人物です。

後世から見ると有名企業の歴史へつながっていく人物たちですが、この時点では20歳前後の若者です。

その若者たちが150年前のニューヨークへ飛び込み、未知の市場を相手に商売を始めました。

なぜ「オーシャニック・グループ」と呼ばれたのか

「オーシャニック・グループ」は、当時正式に設立された会社名というわけではありません。

彼らが渡米した船、オーシャニック号に由来する呼称です。

佐藤百太郎と5人の商業実習生をまとめて、後世の研究でこのように呼んでいます。

明治9(1876)年3月に渡米した佐藤と5人の実習生が、日米間の直輸貿易に挑戦したのです。

興味深いのは、6人が同じ会社をそのまま成長させたわけではない点です。

それぞれ異なる商品を扱い、異なる道を歩みます。

成功した者もいれば、思うような成果を得られなかった者もいました。

だからこそ、この集団は「成功者集団」と呼ぶよりも、明治初期の日米民間貿易に挑んだ実験的な集団と見るほうが実態に近いでしょう。

佐藤百太郎はなぜグループを離れた?結婚・負債・帰国

佐藤百太郎とアメリカ人女性との婚約

佐藤百太郎について検索すると、気になるのが「結婚」「妻」「アメリカ人女性」といった情報ではないでしょうか。

番組でも大きく取り上げられました。

新井領一郎が残した手紙から、佐藤がアメリカ人女性と婚約したことが判明しています。

ただし、ここは慎重に扱う必要があります。

確認できる公開資料から確実に言えるのは「アメリカ人女性との婚約が知らされた」というところまでです。

女性の氏名や、その婚約が最終的に正式な結婚まで至ったのかについては、公開資料だけから断定することはできません。

そのため、「佐藤百太郎の妻は○○だった」と安易に書くことは避けたほうがよいでしょう。

歴史記事では、「分からないものを分からないままにする」ことも重要です。

新井領一郎は佐藤の国際結婚をどう見ていたのか

現代の感覚では、アメリカ人女性と日本人男性が結婚すること自体に大きな驚きはありません。

しかし明治初期は事情が異なりました。

番組で紹介された新井の手紙からは、佐藤が国際結婚すれば親族や荷主などからの評価を落とし、商売上の信用にも影響しかねないと新井が懸念していたことが分かります。

これは新井個人の恋愛観だけで考えるべき問題ではないでしょう。

当時の商売は、現在以上に家や親族、出資者、荷主との人的信用によって成り立っていました。

しかも新井たちが扱っているのは、日本から遠く離れたニューヨークへ送られてくる商品です。

荷主にとって、現地の人物を信頼できるかどうかは死活問題でした。

佐藤個人の私生活と商売上の信用が、現在以上に密接につながっていた時代だったのです。

巨額の負債が発覚――佐藤百太郎が日本へ帰国

さらに深刻だったのが事業上の負債です。

番組では、佐藤の事業失敗によって巨額の負債が明らかになり、佐藤が責任を取る形で急きょ日本へ帰国し、グループを離れた経緯が紹介されています。

森村豊も佐藤との共同経営を続けませんでした。

豊は多額の借金などをする佐藤との共同経営に不満を抱き、明治11(1878)年に共同経営を解消。森村組ニューヨーク支店としてモリムラ・ブラザーズを立ち上げています。

ただし、ここから「佐藤百太郎の事業はすぐ消滅した」と考えるのも正確ではありません。

明治13(1880)年にも「佐藤組」の名が確認され、翌明治14(1881)年ごろに経営悪化が進んだことが分かっています。

佐藤の物語は、成功か失敗かという二択だけでは語れません。

確かに経営上の問題を抱えました。

一方で、佐藤を起点としてニューヨークへ渡った若者たちの中から、その後の日米貿易を支える人物が育っていったのです。

新井領一郎とは?日本の生糸をアメリカへ売った「伝説の生糸商」

新井領一郎はなぜ生糸を選んだのか

佐藤百太郎がオーシャニック・グループの「入口」だとすれば、その後の物語で最も重要な人物の一人が新井領一郎です。

新井は安政2年7月19日(1855年8月31日)生まれ。

出身は現在の群馬県桐生市です。

桐生周辺といえば、古くから養蚕や製糸、織物で知られる地域でした。

兄の星野長太郎は水沼製糸所を経営し、生糸を外国商人任せにせず、自分たちの力で海外へ販売することを考えていました。

その役割を託されたのが領一郎でした。

生糸は単なる地方特産品ではありません。

明治期の日本では生糸、茶、石炭、銅などが輸出総額の大きな割合を占める時期があり、重要な外貨獲得商品でした。

そして生糸は1880年代半ば以降、アメリカが主要市場になっていきます。

つまり、新井がニューヨークで挑んだ商売は、日本経済そのものの将来にもつながる巨大市場だったのです。

アメリカで日本の生糸はどのように評価されたのか

とはいえ、日本産なら何でも歓迎されたわけではありません。

新井が直面した大きな問題が品質でした。

番組では、新井がアメリカ有数の絹製品業者ウィリアム・スキナーへ日本産生糸を売り込んだところ、厳しく拒絶されたエピソードが紹介されています。

当時流通していた日本産生糸には品質の低いものもあり、アメリカ側には強い不信感が残っていました。

開港後、生糸価格が上昇するなかで粗製濫造が起こり、日本糸の品質低下が問題となっていました。

新井が優れていたのは、「売れないなら諦める」とは考えなかったところでしょう。

なぜ売れないのかを聞き、日本へ改善を求める。

つまり、アメリカ市場の声を日本の生産現場へフィードバックしたのです。

これは現代企業でいう品質改善そのものです。

海外に営業担当者がいることで、「日本では良い商品だと思われているもの」と「海外の顧客が本当に求めているもの」の差が見えるようになりました。

佐藤百太郎の離脱後、新井領一郎はどうした?

佐藤がグループから離れた後も、新井はアメリカに残りました。

そして日本産生糸の信用を回復しながら、販路を広げていきます。

新井は兄・星野長太郎の生糸直輸出計画を受けて明治9(1876)年に渡米し、その後、世界的な生糸業者として活躍しました。

これは簡単なことではありません。

売り手側の日本と、買い手側のアメリカ。

その両方から信頼されなければ商売は成立しないからです。

アメリカから「この品質では買えない」と言われれば、日本の生産者へ改善を求めなければならない。

逆に日本側には、「改善すればアメリカ市場で売れる」という情報を伝える必要があります。

新井は、単なる販売員ではなく、日本の生産現場とアメリカ市場を結ぶ情報の仲介者でもありました。

新井領一郎が日米貿易史に残したもの

その後、日本の生糸産業は大きく成長しました。

明治9(1876)年から明治33(1900)年までの生糸生産高は大きく増加し、さらにアメリカにおける絹織物産業の発展によって、日本糸に巨大な市場が生まれました。

明治42(1909)年には、日本は生糸輸出量で世界第1位となります。

もちろん、これを新井一人の功績にすることはできません。

養蚕農家、製糸業者、商人、政府、技術者など、多くの人々の積み重ねによるものです。

しかし、その巨大な流れがまだ形になっていない明治9(1876)年にニューヨークへ渡り、現地の買い手を一軒ずつ訪ねていた新井が、その草創期を担ったことは間違いありません。

新井はその後も長くアメリカで活動し、昭和14(1939)年4月10日に亡くなりました。

実に60年以上にわたり、日米を結ぶ生糸商として活動した人生でした。

森村豊らオーシャニック・グループのメンバーはその後どうなった?

森村豊とニューヨークの雑貨ビジネス

新井領一郎と並び、大きな成功を収めたのが森村豊です。

森村は嘉永7(1854)年生まれ、明治32(1899)年没。

兄は森村市左衛門です。

兄弟は明治9(1876)年に森村組を設立し、豊はアメリカ側で販売を担当しました。

ニューヨーク到着後は商業学校で学び、佐藤百太郎らと「日の出商会」を設立します。

明治10(1877)年のニューヨーク住所録に残るフロント・ストリート97番地の店も、この時期の活動を物語っています。

しかし、明治11(1878)年には佐藤との共同経営を解消。

豊はモリムラ・ブラザーズとして独立し、日本の雑貨や陶磁器を販売していきました。

森村組はその後、陶磁器事業へ大きく進出します。

その流れから明治37(1904)年には日本陶器合名会社が設立され、後のノリタケにつながりました。

さらに森村グループからはTOTO、日本ガイシなど、日本を代表する企業群が生まれています。

ただし豊自身は明治32(1899)年に亡くなっているため、明治37(1904)年以降の企業設立を「豊自身が行った」と書くのは正確ではありません。

豊たちが築いた貿易事業が、その後の森村グループへ引き継がれた、と考えるべきでしょう。

鈴木東一郎・伊達忠七・増田林蔵は何を扱った?

オーシャニック・グループというと、新井領一郎と森村豊に注目が集まりがちです。

しかし、ほかにも鈴木東一郎、伊達忠七、増田林蔵がいました。

担当分野は、鈴木東一郎が雑貨、伊達忠七が美術骨董、増田林蔵が茶でした。

この構成を見ると、佐藤百太郎の構想がよく分かります。

一種類の商品だけに賭けていたわけではありません。

生糸、茶、陶磁器、雑貨、美術品。

当時の日本が海外へ売り出せそうな商品を複数そろえ、それぞれに担当者を置こうとしていました。

現在でいえば、小規模ながら総合商社に近い発想だったともいえるでしょう。

オーシャニック・グループが日本の海外進出に残した意味

彼らは「直輸の志士」とも位置づけられ、初期の日米経済交流を支えた人々として研究されています。

重要なのは、全員が大実業家になったわけではないことです。

海外ビジネスに挑戦する以上、失敗もありました。

資金がなくなることもある。

品質を酷評されることもある。

共同経営がうまくいかなくなることもある。

しかし、その試行錯誤そのものが後続の日本人商人にとって貴重な経験となりました。

誰かが最初にニューヨークへ行かなければ、どの商品が売れるのかも分かりません。

どんな商習慣があるのかも分からない。

オーシャニック・グループは、いわば明治日本の「海外ビジネス第1世代」だったのです。

なぜ明治時代の日本はニューヨークを目指したのか?

幕末・明治初期の日本貿易は外国商人に依存していた

幕末の開港によって、日本の商品は世界市場へ出ていくようになりました。

しかし「日本の商品が輸出されている」ことと、「日本人が輸出ビジネスを支配している」ことは同じではありません。

横浜などの居留地では外国商人の影響力が大きく、日本人商人は海外市場の最終的な買い手と直接つながりにくい状況にありました。

森村市左衛門も、この状況に強い問題意識を抱いていました。

市左衛門は外国商人を介するのではなく、日本人自身が輸出することの重要性を認識し、その思いを弟の豊へ託しました。

佐藤百太郎、星野長太郎、新井領一郎、森村兄弟。

出身地も扱う商品も違います。

それでも共通していたのは、

「日本の商品を、日本人自身の手で海外へ売りたい」

という問題意識でした。

生糸が明治日本を支えた重要輸出品だった理由

その中でも生糸は特別な存在でした。

明治日本にとって外国から機械や技術を導入するには、海外へ商品を売って外貨を獲得する必要があります。

その役割を担った代表的商品が生糸でした。

明治初期の輸出では生糸、茶、石炭、銅などが大きな割合を占めました。

さらに1880年代以降、生糸の主要な輸出市場はアメリカへと移っていきます。

これは新井領一郎の渡米が、ちょうど巨大な市場変化の入口に位置していたことを意味します。

明治9(1876)年の時点では、日本の生糸がその後どこまでアメリカ市場を席巻するかなど、誰にも分からなかったでしょう。

それでも新井は現地へ渡った。

そして厳しい評価を受けながら品質改善を日本側へ求めた。

その積み重ねの先に、日本生糸の巨大なアメリカ市場が形成されていきました。

日本人商人による「直輸出」が持った意味

直輸出の最大の意味は、仲介手数料を減らすことだけではありません。

もっと重要なのは「市場の声を直接聞けるようになる」ことです。

新井領一郎がアメリカで日本の生糸を酷評された経験は、その典型でしょう。

日本にいるだけなら、

「われわれの生糸は良い品物なのになぜ売れないのか」

で終わってしまうかもしれません。

しかし、買い手の目の前まで行けば、

「何が悪いのか」

を直接聞けます。

そこから生産方法や品質を改善できる。

森村兄弟の場合も同じです。

アメリカで求められる陶磁器の色や形、デザインを把握し、日本側の生産へ反映する仕組みを築いていきました。

海外市場を知ることが、日本国内の製造業まで変えていったのです。

明治の直輸出は、商品の流れだけではありません。

「情報の流れ」を日本とアメリカの間につくる試みでもありました。

『大追跡グローバルヒストリー』から見える佐藤百太郎と新井領一郎の違い

先駆者・佐藤百太郎と、事業を発展させた新井領一郎

佐藤百太郎と新井領一郎。

この二人は同じ日米貿易の先駆者ですが、役割は少し違います。

佐藤は「最初に道を見つけた人」といえるでしょう。

幕末からアメリカへ渡り、英語を身につけ、ニューヨークに拠点を構える。

そして日本へ戻って福沢諭吉らの協力を得ながら、若い商人をアメリカへ連れて行きました。

対して新井は、その道を長期的なビジネスへ育てていった人物です。

佐藤のもとで始めた商売を受け継ぎ、日本産生糸の品質改善と販路開拓に取り組み、数十年にわたってアメリカで活動しました。

この二人の違いを「成功した新井、失敗した佐藤」とだけ整理すると、大切な部分を見落としてしまいます。

新井がニューヨークへ渡れた背景には、佐藤という先行者がいました。

一方、佐藤が描いた構想が本格的な産業へ育っていくには、新井のように長期間現地へ残る人物が必要でした。

二人は、それぞれ違う役割を果たしたのです。

失敗した佐藤百太郎は本当に「失敗者」だったのか

佐藤百太郎には負債があり、共同経営も崩れました。

経営者として問題がなかったとはいえません。

しかし、それだけで「失敗した人」と片づけてしまうのも公平ではないでしょう。

明治8(1875)年に日本へ戻り、海外商業へ挑戦する若者を募集する。

翌年、その若者たちをアメリカへ送り出す。

そこで新井領一郎や森村豊といった人物が経験を積み、日本の貿易史に大きな影響を与えていく。

結果だけを見れば、佐藤がつくった人的ネットワークの価値は非常に大きいといえます。

ビジネスの歴史には、会社そのものを成功させた人物だけでなく、「次の成功者が生まれる場所をつくった人物」もいます。

佐藤百太郎は、まさにそのタイプだったのではないでしょうか。

知られざる明治の日米ビジネス開拓者たち

明治時代の海外進出というと、政府の使節団や政治家、外交官が注目されがちです。

しかし、日本の近代化を支えたのは政府だけではありません。

商品を抱えて海外へ渡った商人もいました。

買ってもらえずに追い返された人もいました。

借金を抱えた人もいました。

海外の顧客から厳しい注文をつけられ、日本の生産者へ改善を求めた人もいました。

そうした民間人たちの試行錯誤によって、日本の商品は世界市場へ入り込んでいきます。

『大追跡グローバルヒストリー ニューヨーク 謎のビジネスマンを追う』で取り上げられた佐藤百太郎は、その歴史の入口に立っていた人物です。

嘉永6(1853)年に佐倉で生まれ、10代でアメリカへ渡り、ニューヨークで日本商品を売る。

そして明治9(1876)年には、新井領一郎や森村豊ら若者を再びアメリカへ送り出しました。

佐藤自身の事業は順風満帆ではありませんでした。

しかし、新井は生糸貿易を発展させ、森村豊の事業は後の森村グループへつながりました。

明治42(1909)年、日本はついに世界最大の生糸輸出国となります。

その30年以上前。

ニューヨークの街を歩き回り、日本の商品を売ろうとしていた若者たちがいました。

彼らが最初から「日本経済の未来をつくっている」と分かっていたわけではないでしょう。

目の前の商品を売り、信用を得て、次の注文を取る。

その積み重ねが、結果として日米貿易の大きな流れにつながっていったのです。

「謎のビジネスマン」の足跡を追うと見えてくるのは、一人の成功者の物語だけではありません。

失敗も挫折も含めながら、未知の海外市場へ飛び込んでいった明治の若者たちの姿なのです。

そして彼らこそ、日本が世界市場へ踏み出した黎明期を支えた「知られざるグローバルビジネスマン」だったのではないでしょうか。

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液体洗剤とジェルボールはどっちが得?1回の値段・洗濯量・使いやすさで比較

 

洗剤売り場に並ぶ、大きな詰め替え袋と色鮮やかな粒状の洗剤。どちらも便利そうですが、値札を見て「結局、液体洗剤とジェルボールはどっちが得なのだろう」と迷ったことはないでしょうか。

液体洗剤は洗濯物に合わせて量を調整しやすく、ジェルボールには計量の手間を省ける利点があります。今回確認した二つの商品の価格例では、水量30Lで使う洗剤代は液体の方が安くなりました。ただし、購入価格や使用量、柔軟剤を追加するかどうかによって、比較結果は変わります。

毎日使うものだからこそ、値札の印象だけで決めるのはもったいないところです。本記事では、公開されている販売価格とメーカーの使用量を確認し、1回・1か月・1年間の費用から、洗浄力、使いやすさ、買い方まで順に考えていきます。

 

 

液体洗剤とジェルボールはどっちが得?1回・月・年の費用を比較

液体洗剤とジェルボールの1回あたりの値段を計算する方法

まず比べたいのは、1回あたりの洗剤代です。液体洗剤のボトルが安く見えても、毎回たくさん使う商品なら、買い替えるまでの回数は少なくなります。反対に、購入時の支払額が大きくても、少ない使用量で洗える商品なら、1回分の費用を抑えられる場合があります。

液体洗剤の計算は、次のようになります。

購入価格÷内容量×1回の使用量=1回あたりの洗剤代

たとえば、内容量1000mLの液体洗剤を600円で購入し、1回に20mL使うと仮定すると、600÷1000×20で12円です。これは計算方法を示すための仮定で、特定商品の販売価格や使用量を示したものではありません。

一方、ジェルボールは次の式で求められます。

購入価格÷入り数×1回の使用個数=1回あたりの洗剤代

30個入りを900円で購入したと仮定すれば、1個あたり30円。1回に1個使うなら30円、2個使うなら60円です。袋の個数がそのまま洗濯回数になるのは、毎回1個で使う場合に限られます。

ここで見落としやすいのが、重さを表すgと、体積を表すmLの違いです。内容量がgで書かれているのに、使用量のmLをそのまま式に入れると、正しい計算にならないことがあります。両方を同じ単位にそろえ、必要な換算はメーカーの案内を確認しましょう。

実際、花王はアタックZEROの水量30Lに対する目安を10g、約10mLと案内しています。この対応関係は当該商品の説明として使い、すべての液体洗剤に当てはめないことが大切です。花王公式の使用量案内

同じ洗濯条件で比べると洗剤代はいくら違う?

それでは、実際に掲載されている商品価格を使って計算してみましょう。

以下は、令和8(2026)年9月13日に確認した販売ページの税込掲載価格を用いた例です。液体洗剤はイオンスタイルオンラインの「アタックZERO ワンハンドタイプ380g」、ジェルボールはサンドラッグの「アリエール ジェルボール プロパワー つめかえ用メガジャンボ49個」を取り上げます。

比較する水量は30Lとします。液体はメーカーの目安に従って10g、ジェルボールは当該商品の使用条件である30~65Lに1粒という表示に基づき、1粒で計算します。アタックZEROの使用量対象ジェルボールの使用条件

比較項目 液体洗剤 ジェルボール
商品 アタックZERO ワンハンドタイプ アリエール ジェルボール プロパワー
内容量 380g 49個
税込掲載価格 547.80円 2058円
今回の計算に使う水量 30L 30L
1回の使用量 10g 1粒
1回あたりの洗剤代 約14.42円 42円

価格の確認先は、イオンスタイルオンラインの商品ページと、サンドラッグの商品ページです。

この組み合わせでは、液体洗剤の方が1回あたり約27.58円安くなります。ただし、これは二つの商品の掲載価格と使用量から求めた結果です。液体洗剤全体とジェルボール全体の平均価格を比較した数字ではありません。

また、液体は本体ボトル、ジェルボールは詰め替え袋を比較しています。継続して使う場合は、液体も詰め替え商品の価格で計算し直すと、普段の支出に近づきます。ジェルボールを初めて使う場合には、適切な保管容器を用意することも考える必要があります。

表には配送の送料、ポイント、クーポンを含めていません。購入時には受け取り方法などの条件をそろえて、実際の支払額を確認してください。掲載価格や在庫は変わるため、この金額でいつでも購入できると保証するものでもありません。

なお、同じ水量で費用を計算することと、同じ洗浄性能を確認することは別です。本記事では両商品を使った洗浄実験を行っていません。汚れ落ちまで含めた判断については、後ほど整理します。

価格を確認するときは、本体と詰め替えをそれぞれ見て、手元の洗剤の使用量と照らし合わせてみましょう。

[広告リンク差し替え欄①]アタックZEROの価格・内容量を確認するアリエール・ジェルボールの価格・入り数を確認する

毎日洗濯すると1か月・1年間でどれくらい差がつく?

1回の差は小さく見えても、洗濯は繰り返し行う家事です。先ほどの価格と使用量が変わらないと仮定し、1日1回洗う場合の費用を計算すると、次のようになります。

洗濯回数 アタックZEROを毎回10g使用 対象ジェルボールを毎回1粒使用 差額
1回 約14.42円 42円 約27.58円
1か月・30回 約432円 1260円 約828円
1年間・365回 約5262円 1万5330円 約1万68円

月は30回、年は365回として、それぞれ元の計算値から求めています。丸めた月額を12倍した数字ではないため、単純に掛け合わせると差が生じます。

もう一つ、これは消費した洗剤の量に相当する費用です。実際の買い物ではボトルや袋を丸ごと購入するので、その月の現金支出とは一致しません。月末に残った洗剤は翌月も使えるため、残量まで考えた比較と、レジで支払う金額の管理を分けると分かりやすくなります。

たとえば、洗剤をまとめ買いした月は支出が大きくても、翌月は買わずに済むかもしれません。毎月の購入金額だけで判断すると、洗剤を変えた効果より、買った時期の違いが目立ってしまうのです。

家計を見直す際には、1週間ほど洗濯回数を記録してみるとよいでしょう。通常の洗濯に加えて、タオルだけ、子どもの衣類だけ、寝具だけという洗濯も数えます。その実態に合わせて計算すれば、自宅ではどのくらいの差になるのかが見えてきます。

一人暮らし・家族暮らしで考える洗濯量別の選び方

少量洗いでは洗剤の使用量を調整できるかがポイント

一人暮らしで、シャツや下着を少しずつ洗う。家族と暮らしていても、色物や仕事着を別に洗う。こうした家庭では、毎回の洗濯物がそれほど多くないこともあります。

この場合に注目したいのが、使用量の調整です。液体洗剤なら、水量や洗濯物量に対応する商品の表示を見ながら、使う量を変えられます。ジェルボールは粒単位で使うため、少ない洗濯物に合わせて半粒にするような調整はできません。メーカーも、この違いを液体洗剤との使い分けのポイントとして説明しています。アリエール公式の説明

ただし、少量だからといって、液体洗剤を自己判断で際限なく減らしてよいわけではありません。まず確認するのは商品に示された目安です。洗剤代を減らせても、必要な仕上がりが得られず洗い直すことになれば、水や電気、時間が余計にかかります。

また、「一人暮らし」という人数の情報だけでは、お得な方を決められません。一人でも仕事着や運動着を多く洗う人はいますし、数日分をまとめる人もいます。反対に、家族が多くても、衣類ごとに細かく分ければ1回の洗濯量は少なくなります。

自分の暮らしに当てはめるなら、普段使っている水量と、洗濯する回数を確認する方が確実です。そのうえで、液体なら何g使うのか、ジェルボールなら何粒使うのかを並べてみましょう。人数別の一般論よりも、次に買う商品を判断しやすくなります。

まとめ洗いではジェルボールが何粒必要かを確認する

まとめ洗いは、ジェルボールの費用を考えるうえで欠かせない条件です。一定の範囲内で1粒を使う商品なら、少量で1粒使う場合より、1回に洗う衣類を増やした方が、衣類の量に対する洗剤代を抑えられます。

ただし、すべての量を1粒で洗えるわけではありません。

今回比較した49個入り商品の使用条件には、30~65Lで1粒という表示に加え、洗浄・消臭力などを求める場合や55L以上の場合には2粒を勧める説明があります。基本の表示と追加使用の推奨を、両方確認する必要があります。対象商品の使用条件

今回の購入価格では、1粒42円、2粒84円です。したがって「大きな洗濯機ならジェルボールが安い」と考える前に、普段の洗い方が1粒に当たるのか、2粒に当たるのかを確認したいところです。

液体洗剤も、使う量が増えれば費用は増えます。先ほどのアタックZEROの掲載価格なら、20gを使った場合の費用は約28.83円です。ただし、この数字は20g分の価格を計算したもので、あらゆる洗濯条件で20gが適量という意味ではありません。

まとめ洗いで考えたいのは、洗濯機の表示、洗剤の表示、実際の汚れ具合をそろえることです。とくに、買い替えや商品改良でパッケージが変わったときは、以前の商品の粒数や使用量をそのまま引き継がず、手元の商品で確認しましょう。

毎日少しずつ洗う場合と週末にまとめる場合を比べる

毎日洗う場合と、数日分をまとめる場合では、洗剤の使い方が変わります。ここは、洗剤そのものの価格と、洗濯回数を減らす効果を分けて考えると整理しやすくなります。

たとえば、計算の説明として、1週間に7回、毎回1粒のジェルボールを使う場合を考えます。1粒42円なら、週の洗剤代は294円です。同じ週の洗濯物を、商品の使用条件に収まる形で3回にまとめ、毎回1粒で洗えると仮定すれば126円になります。

この差は168円です。しかし、減った費用は洗剤をジェルボールにした効果ではなく、使う粒数が7粒から3粒に減った効果です。毎回2粒必要なら3回で6粒となり、費用は252円になります。まとめ洗いの結果は、回数と1回の使用量の組み合わせで変わります。

液体洗剤でも考え方は同じです。回数を減らしても、1回に使う洗剤が増えれば、減った回数に比例して洗剤代が下がるとは限りません。

さらに、週末にまとめて洗うなら、干す場所や必要な衣類の枚数、洗濯に充てられる時間も考えたいところです。洗剤代を抑えるために、平日に必要な仕事着が足りなくなってしまっては、暮らしに合いません。

費用を計算したうえで、無理なく続けられる頻度を決める。その順番で考えると、洗濯の予定を洗剤に合わせすぎずに済みます。

柔軟剤代・水道代・電気代を含めるとどっちが得?

柔軟剤入り洗剤と「液体洗剤+柔軟剤」の総額を比較する

洗濯の支出は、洗剤だけでは終わらないことがあります。毎回柔軟剤を使っている家庭なら、その費用も含めて比較する必要があります。

ボールドの公式サイトは、同ブランドの洗濯洗剤を柔軟剤入りとして紹介しています。このような商品を選び、追加の柔軟剤を使わずに満足できるなら、購入する用品を減らせる可能性があります。ボールド公式

ただし、ジェルボールという形状だけで柔軟剤入りと判断することはできません。また、柔軟剤入り洗剤を買っても、好みの香りや仕上がりのために別の柔軟剤を加えるなら、その費用は残ります。

ここで、説明のために仮の数字を置いてみましょう。液体洗剤が1回15円、柔軟剤が1回8円なら、合計23円です。柔軟剤入りジェルボールが1粒30円で、追加用品を使わないなら30円。柔軟剤が不要になっても、この条件では液体洗剤と柔軟剤の組み合わせの方が安くなります。

反対に、液体洗剤が20円、柔軟剤が15円なら合計35円です。同じ30円のジェルボールと比べると、今度は結果が逆になります。これらは仮定の比較であり、市場の平均価格ではありません。

判断を左右するのは、実際に省ける支出がいくらあるかという点です。まず、今使っている柔軟剤の購入価格と使用量を計算してみましょう。柔軟剤を普段使わない家庭では、そもそも削減できる柔軟剤代はありません。家にある用品を基準にすると、広告で強調される機能と、自分にとってのお得さを分けて考えられます。

[広告リンク差し替え欄②]ボールドの柔軟剤入り洗剤の特徴を確認する

漂白剤や消臭剤を追加する場合の費用も確認する

襟の黄ばみが気になる日には漂白剤を加える。部屋干しするときには消臭を目的とした用品を使う。こうした追加の支出も、普段の洗濯費用の一部です。

花王は、アタックZEROと、ワイドハイターシリーズの酸素系漂白剤を併用できると案内しています。ただし、衣類や商品の表示を確認したうえで使うことが前提です。花王公式の併用案内

一方、今回取り上げたアリエールの商品には、漂白剤を使ったつけ置きとの比較を示す性能表示があります。その説明には対象となる汚れや試験条件が付いており、すべての衣類や汚れで追加処理が不要になると示しているわけではありません。対象商品の性能表示と注記

費用を考える際には、追加用品を毎回使うのか、ときどき使うのかを確認します。仮に1回分が10円の用品を月30回使えば300円ですが、月5回なら50円です。単価が同じでも、使用頻度によって見直せる金額は変わります。

高機能な洗剤を選んだ結果、実際に追加用品を使う回数が減れば、その減額を比較に入れられます。しかし、まだ試していない段階で「漂白剤代はゼロになる」と決めてしまうと、購入後の支出とずれるかもしれません。

まず普段の洗い方と支出を確かめ、洗剤を替えた後に必要な追加処理が変わったかを見ます。そのうえで総額を比べる方が、宣伝文句だけを見て買うより納得しやすいでしょう。

すすぎ回数をそろえて水道代・電気代を比較する

洗剤代の次に気になるのが、水道代と電気代です。ここで注意したいのは、「液体洗剤ならすすぎ2回、ジェルボールなら1回」と決めつけないことです。

花王は、アタックZEROを適量で使う場合、ためすすぎ1回で使用できると案内しています。アリエールのジェルボールにも、すすぎ1回に対応する製品があります。したがって、商品の形状だけで必要なすすぎ回数を分けることはできません。花王公式のすすぎ回数アリエールの製品情報

すすぎ1回に対応する洗剤へ替えても、洗濯機を従来のすすぎ2回の設定で動かせば、回数を減らしたことによる節水効果は得られません。洗剤の表示に加えて、実際に選んでいる洗濯コースを確認する必要があります。

また、同じ1回という表現でも、ためすすぎと注水すすぎでは運転の内容が異なります。表示や取扱説明書に従い、同じ条件で比較しましょう。洗剤だけでなく、洗濯機がどのように動くかまで確認すると、節約の説明を理解しやすくなります。パナソニックのすすぎの種類の説明

水道代を計算するなら、洗いとすすぎを合わせた使用水量に、地域の料金条件を当てはめます。洗濯機に表示される「洗いの水量30L」と、洗濯1回全体で使用する水の量は区別してください。水道料金には基本料金や使用量による区分などがあるため、水を減らした量と請求額の減少が単純に比例しない場合もあります。

電気代も、運転時の消費電力量と契約条件によって変わります。ここでは機種や契約を指定していないため、一律に何円安くなるとは置きません。同じ使用水量、同じ消費電力量で洗うなら、その部分の費用も同じです。

乾燥機能を使う家庭では、乾燥まで含めるかもそろえたいところです。片方は洗濯のみ、もう片方は乾燥まで含めた数字では、洗剤の違いを比較できません。洗剤代、洗濯運転、乾燥運転を分けて見ると、実際に見直せる支出が分かりやすくなります。

洗浄力と使いやすさはどう違う?価格以外の比較ポイント

汗・皮脂・泥汚れや部屋干し臭への対応を確認する

安く買えても、必要な汚れが落ちず、仕上がりに満足できなければ、お得とは感じにくいものです。しかし、液体かジェルボールかという形状だけで、洗浄力の順位をつけることもできません。

まず整理したいのは、自宅で困っている汚れです。日常のシャツや下着の汚れなのか、子どもの運動着の泥なのか、作業着の油なのか。それとも、洗い終えた後の臭いなのか。解決したい問題を具体的にすると、製品の用途や性能表示で見るべき点が絞られます。

アリエール公式の洗浄力に関する表示には、比較対象や汚れの種類・程度によって異なるという注記があります。強い表現が目に入ったときほど、その条件も一緒に確認しましょう。アリエール公式の性能表示

また、部分洗いで対応できる汚れなら、洗濯全体の洗剤量を増やす以外の方法もあります。花王は、アタックZEROを襟や袖の汚れに直接つける方法を案内しています。計量した洗剤の一部を部分汚れにつけてから、一緒に洗う使い方です。花王公式の直接塗布の案内

家で比較する場合には、できるだけ似た衣類、似た汚れ、同じコースで使い、何が変わったかを記録すると判断しやすくなります。香りの強さを好ましく感じたことと、汚れや臭いが落ちたことも、感想として分けておくとよいでしょう。

ただし、家庭での使用感は、その環境での判断材料です。一度の経験から、すべての汚れや家庭に同じ結果が出るとはいえません。購入前には表示を確認し、購入後には普段の困り事が改善したかを見る。その両方を重ねて選びたいところです。

計量不要のジェルボールと量を調整できる液体洗剤を比較する

ジェルボールに魅力を感じる理由の一つは、必要な個数を取り出せばよいという手軽さです。キャップの目盛りを見て量を調整する作業がなくなるため、洗濯の準備を簡単にしたい人には選ぶ理由になります。

一方、液体洗剤にも容器による使いやすさの違いがあります。今回の比較で使ったアタックZEROはワンハンドタイプで、花王は1プッシュ約5g、水量30Lなら2プッシュを目安として案内しています。液体洗剤がすべてキャップ計量式というわけではありません。花王公式のプッシュ量案内

使いやすさを比べるなら、毎回の投入だけでなく、袋やボトルを開ける、補充する、片付ける、といった一連の作業を思い浮かべてみましょう。洗剤置き場の高さや広さ、家族の誰が洗濯をするかによっても、扱いやすい容器は変わります。

手間の価値は、価格のように一律の数字で決まりません。忙しい時間帯の作業を減らしたい人なら、追加費用を払っても納得する場合があります。普段の計量が負担になっていない人には、同じ価格差が大きく感じられるかもしれません。

今回の例なら、1粒使用のジェルボールと液体洗剤の差は月30回で約828円です。この条件で、その費用と使いやすさの違いが釣り合うかを考えます。もちろん、別の商品や購入価格を選べば、判断に使う金額も変わります。

また、手間を省けた時間を、そのまま収入が増えた金額として数える必要はありません。家事の負担が軽くなったこと自体に価値を感じるかどうかを、洗剤代とは別の項目として考えると、無理のない比較になります。

自動投入機能がある洗濯機では選び方が変わる?

洗濯機に自動投入機能がある場合、手軽さの比較は変わります。対応する液体洗剤をタンクへ入れておけば、毎回自分で計量して投入する作業を省けるからです。パナソニックも、自動投入を計量や投入の手間、入れすぎを減らす機能として説明しています。パナソニック公式

すでに自動投入を使っている家庭では、ジェルボールへ替えることで、毎回自分で粒を投入する作業が増える場合もあります。洗剤単体の便利さに加え、今の洗濯機の機能を利用したときの流れで比べるとよいでしょう。

ただし、自動投入も最初の設定が重要です。液体洗剤には商品ごとに基準となる使用量があります。花王の案内では、アタックZEROは水量30Lに10g、約10mLが目安ですが、アタック抗菌EXでは水量30Lに30mLが目安です。同じ感覚で設定を引き継ぐと、適量からずれる可能性があります。アタックZEROの基準量アタック抗菌EXの基準量

洗剤を替えるときには、洗濯機の説明書に沿ってタンクや経路の手入れ、基準量の変更を行います。設定や補充、手入れも含めて、自動投入の使い勝手を考えてください。

また、「自動投入機能付きの洗濯機でジェルボールを使える」という説明は、「液体洗剤の自動投入タンクへジェルボールを入れられる」という意味ではありません。パナソニックは、ジェルボール型洗剤を洗剤投入口に入れず、容器に書かれた使用方法に従うよう案内しています。パナソニック公式の投入方法

手動でジェルボールを使う際には、液体洗剤が重ねて自動投入されないよう、機種の設定を確認します。パナソニックは、タンク内の剤と別の剤を手動で使う際の解除方法を案内しています。自動投入をやめて手動投入にするときの設定

新たに高価な洗濯機を買うかどうかは別の費用判断です。まずは、今使っている洗濯機で何ができるかを確かめましょう。

溶け残り・保管・部分洗いの使い勝手も確認する

使いやすさを考えるときには、洗濯前後の扱いも見ておきたいところです。溶け残りが気になる場合、投入位置や洗濯コース、洗濯物の量など、まず商品の表示と洗濯機の説明書に沿って使っているかを確認します。

溶け残ったという感想だけでは、製品そのもの、投入方法、コースなどのどれが原因かは決まりません。使用状況を確かめたうえでメーカーに相談すれば、別の商品を何度も買い直す前に解決できる場合があります。

ジェルボールは、保管方法にも条件があります。アリエール公式は、本体容器のふたを閉め、高温・多湿・直射日光を避けて保管するよう案内しています。大容量を買う際には、使う分を適切に保管できるかも確認しましょう。アリエール公式の保管方法

また、少量洗いのために切ったり、破ったりして量を分ける使い方はできません。対象商品の注意表示にも、そのような扱いをしないことが示されています。粒単位で使う商品として費用を計算する必要があります。対象商品の注意表示

下洗いや手洗いをよく行う家庭では、その用途に対応した洗剤を別に持つかも検討します。アリエールのジェルボールは下洗いや手洗い用に勧められていません。一方、アタックZEROには、メーカーが案内するつけ置き洗いの方法があります。時間や素材の条件を確認し、用途に合わせて使うことになります。ジェルボールの使用上の注意アタックZEROのつけ置き方法

子どもやペットのいる家庭では、手の届かない保管場所を確保することも必要です。収納場所、補充の方法、扱う人まで考えたうえで選ぶと、購入後に使いにくさを感じる可能性を減らせます。

液体洗剤とジェルボールをお得に買う・使う方法

大容量や詰め替えは1回あたりの単価で比較する

大容量、増量、まとめ買い。こうした言葉を見ると、通常サイズよりお得に思えるかもしれません。しかし、どのくらい得なのかは、容量や入り数を使って計算すると確かめられます。

たとえば、同じジェルボールが20個入り600円、60個入り2000円で販売されていると仮定します。20個入りは1個30円、60個入りは約33.33円です。この例では、小さい袋の方が1個あたりの価格は安くなります。大容量だから必ず割安とは限らないことが分かるでしょう。

液体洗剤も、同じ商品の容量違いなら、まず一定量あたりの価格を比べられます。ただし、別の商品まで比較するときには、使用量の違いを反映しなければなりません。100gあたりが安くても、1回に使う量が多ければ、洗剤代が高くなることがあります。

また、詰め替え商品の比較には、対応する本体容器をすでに持っているかという条件があります。初めて買うときの費用と、2回目以降の補充費用を分けると、継続使用したときの負担を把握できます。

一度に多く買うなら、使い切るまでの期間も計算してみましょう。仮に60粒を毎日1粒使えば60日分ですが、週2回なら30週間分です。同じ袋でも、家庭の使い方によって保管期間は変わります。

使い慣れていない商品を大量に買う前には、香りや使い勝手を少量で確かめる方法もあります。小さい商品の単価が少し高くても、自分に合わず大量に残してしまう可能性を考えれば、納得できる選択になる場合があります。

店舗・通販・定期購入は送料や割引条件まで確認する

通販で価格を比べるときには、送料を含めた支払額を確認しましょう。商品価格だけを並べると、配送条件によっては結論が変わります。

今回参照したサンドラッグのページでは、一定の対象外地域を除き、3980円未満の配送には600円の送料がかかり、店舗受け取りは送料無料と案内されていました。条件は変更される場合があるため、注文前の画面で確認する必要があります。サンドラッグの商品・配送表示

たとえば、2058円の49個入り商品だけを購入し、600円の送料がかかる条件なら、支払額は2658円です。1粒あたりは約54.24円となり、商品代だけで計算した42円とは差が出ます。

ただし、送料無料にするために不要な商品まで買えば、支出そのものは増えます。近いうちに必要な日用品を一緒に買うのか、店舗で受け取るのか、普段の買い物で購入するのか。自分が実際に使える方法で比べることが大切です。

ポイント還元も、現金での値引きとは分けて考えたいところです。支払額がいくらで、後から何ポイント付くのかを記録し、そのポイントを期限や条件の範囲で使えるか確認します。利用条件を満たせない還元を、確実な節約として数えない方が支出を把握しやすくなります。

定期購入は、初回価格に加えて2回目以降の価格、配送頻度、送料、変更や解約の条件を見ます。洗濯回数が少ないのに短い間隔で届けば、使わない在庫が増えてしまいます。安さだけでなく、実際に使う量と届く量が合っているかを確認しましょう。

少量洗いとまとめ洗いで使い分ける方法を考える

ここまで比較すると、液体洗剤とジェルボールのどちらか一方だけに統一する必要があるのか、と感じた人もいるかもしれません。家庭によっては、洗濯する日や用途に合わせて使い分ける方法が考えられます。

少量の日や部分洗いをする日は液体洗剤を使う。量をそろえて洗う日には、表示に合う個数のジェルボールを使う。このような運用が、自宅の洗濯に合うかを検討してみましょう。ここでいう使い分けは、洗濯ごとに選ぶ方法であり、1回の洗濯に両方を重ねて入れることではありません。

ただし、二種類を持てば必ず最安になるわけでもありません。今回の水量30Lの比較では、液体洗剤の方が安くなりました。同じ条件の洗濯をジェルボールに置き換えれば、その回の洗剤代は増えます。使い分ける理由には、費用だけでなく、準備のしやすさや用途も含まれます。

自分の家庭で判断するには、まず今の洗剤の購入価格、内容量、1回の使用量をメモします。次に、1週間の洗濯回数とよく使う水量を確認します。柔軟剤や漂白剤を使う場合には、その使用回数も加えます。この情報があれば、候補商品の価格を見たときに、現在よりいくら変わるかを計算できます。

購入後は、予定した量で洗えているか、仕上がりに満足できるか、追加用品が増えていないかを確認します。香りや洗い方が合わなければ、大量に買い足す前に選び直すこともできます。

洗濯の負担を軽くしたいなら、そのために払う差額を把握する。支出を抑えたいなら、いつもの洗濯量で1回分の価格を計算する。自分が重視したいことと数字を結び付ければ、売り場で迷ったときにも選びやすくなるでしょう。

次に洗剤を買うときは、まず手元の商品の使用量を確認してから、候補の内容量と価格を比べてみてください。毎日使うものだからこそ、暮らしに合う使い方で、納得して選びたいところです。

[広告リンク差し替え欄③]液体洗剤の価格・内容量を確認するジェルボールの価格・入り数を確認する

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