- 今若丸・乙若丸・牛若丸の読み方と名前の由来に迫る!
- 義円の父・源義朝ってどんな武士だった?
- 義円の母・常盤御前は平清盛をも夢中にさせた絶世の美女だった!?
- 義円が園城寺で孫子を学んだというのは本当のことだった!?
- 義円、平家打倒の挙兵に加わる
- 義円、墨俣川の戦いで奇襲攻撃を敢行する
- 義円の遺児・愛智義成の末裔は織田信長に仕えていた!?
- 義円公園(墨俣古戦場・義円の墓)の駐車場やアクセスについて
- 【参考文献】
今若丸・乙若丸・牛若丸の読み方と名前の由来に迫る!
五条大橋で戦う牛若丸と弁慶。 |
今若丸(阿野全成)から見る貴族の幼名
久寿2(1155)年、源義円は源義朝の八男として生を受けました。生母は側室の常盤御前です。幼名は乙若丸(おとわかまる)と名乗りました。同母兄に今若丸(いまわかまる。阿野全成)、同母弟に牛若丸(うしわかまる。源義経)がいます。
源義経、つまり牛若丸は大河ドラマや絵本などでよく目にする機会がありますよね。でも義円子と乙若丸と全成こと今若丸がどのような人物だったかは知られていません。
まずは三人の幼名を見てみましょう。
・今若丸(阿野全成)→「今」は新しいという意味もあり、常盤御前にとって初めの子供という意味があると考えられます。
「若」は身分の高い家の男児を若君や若子(わこ)と著した言葉です。
次いで幼名でよく見かける「丸」は、おまるを意味していると伝わります。昔は病気や栄養不良などで、成人するまでに亡くなる子供が大勢いました。そのため、災いや鬼はクサい臭いを嫌うと考えられていたため、丸を子供の名前に付けて健やかな成長を祈ってつけられたようです。
乙若丸(義円)と牛若丸(源義経)の幼名は干支が由来?
・乙若丸(源義円)→乙は生まれ年の久寿2年の干支が「乙亥(きのとい)」にあたるためだと考えられます。そこに若丸がプラスされて乙若丸となったと予想されます。
・牛若丸→(源義経)→『お伽草子』には「丁丑(ひのとうし)の年、丑の日、丑の刻に生まれた」とあり、そこからだと言われています。しかし義経が生まれた平治元(1159)年の干支は己卯(つちのとう)で、丁丑ではありません。
乙若丸が乙亥に産まれているので、牛若丸が丑年関連ではないというのは少しおかしな気もします。
これは推測ですが、二つの可能性があると思います。
①牛若丸こと源義経の生年は、本来は丁丑であった。つまり実際の牛若丸の生年は、記録よりも2年前ということになります(本当かどうかはわかりません。あくまで推測です)。
②おそらくは牛若丸以前に子供を宿し、色々あって生まれる前に命を失ってしまった。義朝や常盤御前にすれば、本当は丑年に生まれるはずだった命という子供を思った気持ちが込められていた、という説明もつきます(完全な当てずっぽうですけど…)。
義円の父・源義朝ってどんな武士だった?
義円の父である河内源氏の棟梁・源義朝。東国に一大勢力を築いた。 |
義円の父は平安末期を代表する河内源氏の棟梁だった!?
義円の異母兄にのちに鎌倉殿と呼ばれ、征夷大将軍となる源頼朝がいます。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではよく、義円や頼朝の父である源義朝の名前が出ますよね。でも既に亡くなっているので、どのような人物だったかはわかりません。簡単に説明していきましょう。
義円の父・源義朝は、河内源氏の棟梁であった人物です。坂東で暴れ回り、勢力を拡大。鎌倉を拠点に一大勢力を築き上げていました。大河ドラマ『平清盛』では玉木宏さんが演じていらっしゃいましたね。
義朝は源氏の中でも身内との争いに満ちた半生を送っています。
後継や領地争いから弟である源義賢を坂東で殺害させました。さらに保元元(1156)年には、保元の乱に参加。戦後には朝廷から敵対した父・為義や弟たちの処刑を命じられ、実際に担当しています。
官位においては、左馬頭(朝廷の馬の管理係)や下野守(下野国の長官国司)にまで出世しましたが、義朝はまだ満足していなかったようです。
義朝の行動は、まだ幼い乙若丸たちの人生を翻弄することとなるのです。
父・義朝と義円たち兄弟の運命は戦乱によって暗転する
平治元(1159)年、院近臣(上皇や法皇の側近)である藤原信頼がクーデーターを挙行。政敵の信西を殺し、後白河上皇を幽閉するという暴挙に出ます。さらに信頼たちは、二条天皇の身柄も確保して官軍となっていました。
このとき、義朝は信頼のもとに動員された武士の中心的人物でした。
当時の京で最大の軍事力を持っていた平清盛は熊野詣に出掛けており、留守にしていたようです。帰郷後は信頼に恭順の意思を示しており、朝廷の権力は完全に信頼が握ったかに見えました。
しかし清盛は二条天皇らを脱出させて保護し、後白河上皇も六波羅の邸に迎えて守りました。この瞬間清盛は官軍となると同時に、義朝らは賊軍となってしまいました。
義朝らの軍勢は六波羅を目指して進撃しますが、六条河原で敗北。信頼も捕らえられて処刑され、義朝は京を逃れて東国へ落ちていきました。
ところが尾張国まで逃れたところ、家人の長田忠致が裏切って襲撃。そのまま義朝は命を落としてしまったといいます。
このとき、乙若丸はまだ6歳の子供です。幼少の身がながら父を失ってしまったのです。
義円の母・常盤御前は平清盛をも夢中にさせた絶世の美女だった!?
常盤御前(イメージ)。当時、美しさと聡明さを謳われた。 |
宮中随一の聡明さを持つ雑仕女
乙若丸らの母・常盤御前については、詳しい素性はわかっていません。『平家物語』や『尊卑分脈』を参考にすると、近衛天皇の中宮・九条院こと藤原呈子の雑仕女(女性の召使い)であったといいます。
召使いは上から「女官ー女嬬(にょじゅ)ー雑仕女」となっており、雑仕女は最下級の位置にいました。
雑仕女は『枕草子』や『今鏡』にも使者や騎乗のお供として登場しており、貴族社会においては決して蔑まれた存在ではなかったようです。
貴族の側室となる雑仕女もいたとされ、常盤御前は実際に源義朝と婚姻を結ぶ女性の一人となっています。
常盤御前については、藤原伊通(これみち)が京中の美女1000人を集め、その中で特に聡明で美しい人物だったとされます。
源義朝には多くの妻と子供がいました。そのうち、長男・義平と六男・範頼は遊女に生ませた子供と伝わっています。
しかし実際は遊女というのは、実際は地元の有力者の娘であることは珍しくありませんでした。つまり常盤御前も京において一定程度由緒のある家の生まれであったことは想像に難くありません。
源氏と平家の棟梁二人の愛妾となった常盤御前
義朝が謀反人として命を失った後、乙若丸は母・常盤御前や兄弟と共に逃亡生活を送ることとなります。このとき、常盤御前はまだ23歳という若さでした。
京を逃れた常盤御前は、大和国(現在の奈良県)に逃れます。しかし程なく、京に残した母親が平清盛らに捕われたことを知ります。
常盤御前は今若丸・乙若丸・牛若丸の兄弟を連れて清盛の元に出頭。母の助命を嘆願しています。
しかし常盤も子供たちも、いずれも謀反人の関係者です。しかも庇護者は誰もいない状況でした。乙若丸たちは処刑されても当然という絶望的な立場だったのです。
このとき清盛は健気な常盤御前の姿に心打たれ、乙若丸らの助命を決定。さらに清盛は常盤御前を愛妾としたとされ「廓御方」という姫までもうけたと伝わります。
伝承等が真実だとすれば、常盤御前は身を挺して乙若丸らを救い、その命を守ったと言えます。
義円が園城寺で孫子を学んだというのは本当のことだった!?
園城寺。当時、日本有数の僧兵を有していた。 |
義円は園城寺で出家して助命される
平治の乱の後、乙若丸らの処遇にも少しずつ変化が訪れます。
母・常盤御前は大蔵卿・一条(藤原)長成と再婚。新たな家庭を築くこととなりました。
予想ですが、再婚を世話したのは平家一門だと思われます。
助命決定となった以上、常盤御前や乙若丸など源氏関係者が清盛の近くにいるのは色々とまずいものがあります。再婚という形で常盤御前を遠ざけ、清盛の安全を図ったのではないでしょうか(あくまで予想ですけど)。
ちなみに乙若丸ら三兄弟は、しばらく継父の長成らと共に一条大路沿いの邸宅で暮らしていたようです。しかし兄弟に母との別れの時が近づいていました。
程なく乙若丸は園城寺(おんじょうじ)に、今若丸は醍醐寺に、牛若丸は鞍馬寺でそれぞれ出家することとなりました。
罪人やその一族が仏門に入り、助命されるということはよくあります。乙若丸らもその一例だったようです。
義円は円恵法親王の坊官として活動を始める
乙若丸が弟子入りしたのは、園城寺の長吏(長官)である円恵法親王(後白河上皇の第四皇子)でした。
乙若丸は出家すると卿公円成(きょうのきみえんじょう)と僧名を名乗るようになります。僧名に「成」とあることから、養父であった一条長成に関連した命名ではないでしょうか。園城寺での出家に関しても、長成や一条家の縁故によって園城寺に入ったものと推測されます。
しかし円成はやがて改名を決意。「義円」と名乗るようになります。
「義」は父・義朝の諱(いみな)に含まれた、源氏の通り字(先祖から受け継がれる文字)でもありました。
時期については不明ですが、おそらくは元服前後かと推察されます。
武士の元服は数え年で12歳〜15歳が通常ですから、永万2(1166)年〜嘉応元(1169)年前後に元服し、義円と名乗ったのではないでしょうか。
義円は師である円恵法親王のもとで、坊官(世話係)を務めていたとされます。このことから、義円の家柄や能力を見込まれていたことがわかります。
義円は本当に孫子に通じた兵法家だった?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、義円が兵法書『孫子』に詳しいとされる場面があります。これって本当?と思った方もおられるんじゃないでしょうか。実はこの話、本当である可能性が高いんです。
当時の寺院は、一種の高等教育機関でもありました。よく時代劇などで「寺子屋」とか呼ばれることがありますよね。あれって、これの名残なんです。
寺には仏典や漢籍だけでなく、医学書や薬草学の書籍も置かれている場合もありました。寺院の規模が大きければ大きいほど、書物は沢山ありますし優れた知識に触れ合えます。
このときの園城寺は、比叡山の延暦寺と肩を並べるほどの大寺院です。兵法書の『孫子』があっても決しておかしくはありません。加えて戦いに必須な兵法書は、僧侶たちにとって大事なアイテムだったのです。
平安時代の寺院は、僧兵と呼ばれる軍団を抱えていることが多々ありました。僧兵の武力は、決して武士に劣るようなものではありません。
園城寺ほどの大寺院ともなれば、数千人ほどの僧兵を保持。武力を持って朝廷に強訴することも珍しいことではなかったのです。実際に寺院では武術も学べたようです(寺院、すげえ…)。
ですから、義円が園城寺に入って『孫子』を学んでいたというのも、あながちなかった話ではありません。河内源氏の息子という意識から、武術に心得があった可能性も十分にあるんですよ。
義円、平家打倒の挙兵に加わる
位人臣を極めた平家の棟梁・平清盛。 |
義円の叔父・源行家、以仁王の令旨を運ぶ
治承3(1179)年、平清盛率いる平家一門はクーデターを挙行。後白河法皇を幽閉して院政を停止させるという暴挙に出ます。治承三年の政変と呼ばれる出来事です。
政変の後、平家の知行国は30カ国以上に拡大。500以上の荘園を獲得し、一門から多数の公卿(三位以上。国政に関われる)を輩出します。
しかし平家の専横を快く思わない勢力がいました。以仁王(後白河法皇の第三皇子)です。治承4(1180)年4月、以仁王は全国の源氏と大寺社に平家打倒の令旨(親王などによる命令文書)を発出します。
このとき以仁王の令旨を運んだのが源行家でした。行家は義朝の弟で、義円からすれば叔父にあたる人物です。
山伏に扮した行家は全国を行脚し、源氏の諸将に令旨を届けます。しかし大々的な行動もあってか、挙兵計画はすぐに平家の知るところとなります(当然ちゃあ、当然です…)。
義円は園城寺から脱出し、東国へ旅立った?
源平合戦の始まりは、義円を歴史の表舞台へと押し上げていきます。令旨は大寺社に発出された、ですから園城寺にも届いていました。
以仁王は平家から逃れて園城寺に逃げ込みます。園城寺の円恵法親王は、以仁王の異母弟でした。
しかし円恵は平家に以仁王の所在を知らせます。すぐに平家から派遣された摂津源氏棟梁・源頼政が兵を率いて園城寺に現れました。
ところが頼政は以仁王の協力者でした。園城寺で合流した頼政は、反平家の姿勢を鮮明にして挙兵に及びます。
『平家物語』によると源頼政方は1000人。平家方は平重衡と平維盛ら2万8000人だったと伝わります。
衆寡敵せず、と義円は考えていたはずです。実際に義円は時期は不明なものの園城寺を脱出していました。その後の行動を見るに、源氏の縁者として危機感を感じていたことは確かでしょう。
ほどなく以仁王と頼政も追われる形で園城寺を退出。宇治の平等院に落ちていきました。頼政は切腹。以仁王は流れ矢に当たって最期を遂げたと伝わります。
反平家方の捜索が始まったことで、義円にとってもはや園城寺や京は安住の地ではなくなっていました。しかしそれは、義円は新たな旅立ちでもあったのです。
義円、墨俣川の戦いで奇襲攻撃を敢行する
源平合戦の舞台・墨俣川。 |
義円は頼朝と合流したのか
以仁王の令旨は、全国の源氏に挙兵の機運を高まらせるものでした。
治承4(1180)年8月、伊豆国に流罪となっていた義円の兄・源頼朝が挙兵。平家方の目代・山木兼隆を討ち取って気勢を上げます。
頼朝の軍勢は石橋山で敗北したものの、房総半島で再挙。大軍勢となって源氏の根拠地・鎌倉に入りました。
義円の同母兄・全成や同母弟・源義経も次々と頼朝と合流。おそらくは義円も頼朝のもとに馳せ参じたと思われます。
『吾妻鏡』に記述こそありませんが、義円の兄弟である阿野全成や源義経はいずれも頼朝のもとに集合しています。義円の後の行動からしても、頼朝との接点があった可能性は十分にありました。
義円、尾張国に地盤を持つ武士となる
同年10月、頼朝は甲斐源氏・武田信義と駿河国で合流。平家の追討軍を富士川で打ち破っています。結果、頼朝ら源氏方は坂東での支配権を確立させることが出来ました。この富士川の戦いの後、勢力図は大きく塗り変わります。
甲斐源氏の武田信義や安田義定が駿河国と遠江国を制圧。源氏方は東海道に勢力を扶植していきました。
義円の兄・全成も駿河国阿野荘を賜り、以降は阿野全成と名乗るようになりました。少しずつ源氏の勢力は西へと進んでいたのです。
治承5(1181)年、尾張国(愛知県西部)や三河国(愛知県東部)では、義円らの叔父・源行家が勢力を築きつつありました。
頼朝の命令があったかは不明ですが、義円は尾張国に出向。行家と合流しています。
尾張国は、かつて父・義朝が最期を遂げた場所でした。まだまだ平家の勢力圏とはいえ、義円にとっても負けられない場所だったようです。
時期は不明ですが、義円は尾張国と縁を築いていました。義援は尾張国愛知郡の郡司・慶範禅師の娘と結婚。子の愛智義成をもうけたと伝わります。
慶範禅師は「範」の一字から、尾張国の熱田大宮寺家の一員であったと考えられます。
かつて父・義朝がそうであったように、義円も地元の有力者と婚姻を締結。勢力を構える動きを取っていたようです。
義円、墨俣川の戦いで高らかに名乗りを挙げる
義円と行家らが尾張国で勢力を拡大させていた頃、付近の源氏と平家は一進一退の攻防を繰り広げていました。
平家は南都(奈良)の寺社勢力を鎮圧し、美濃国(岐阜県)の源氏の武力放棄も抑えています。
しかし治承5(1181)年閏2月、平家の総帥・平清盛が病によって世を去ってしまいました。巨大な柱を失った平家一門は動揺しており、平家の鎮圧軍出撃が一時は見合わされるほどでした。
義円と行家は尾張源氏の源重光、大和源氏の源頼元らを動員。源氏方は総勢で5000〜6000人ほどを集め、墨俣川東岸に離れて布陣します。
対して平家方は平重衡と平維盛らが率いる3万という大軍が集結。墨俣川西岸で攻撃態勢を整えていました。
「あの時と同じだ…」と義円が思ったかどうかは定かではありません。総大将も兵力差も、かつての園城寺の時と似ています。まともに戦えば負け、下手をすれば討死を遂げてしまいます。
義円は既に尾張国で土着に近い状態にあり、兵を引くということは領地を失うことにも似ていました。
起死回生を果たすべく、義円はある作戦を企てます。兵力差を補うための夜間の奇襲攻撃でした。
3月10日、義円の軍勢は奇襲すべく墨俣川の渡河を開始。渡り終えて西岸に辿り着きます。そのまま義円たちは夜明けを待ちますが、濡れた兵を不審と思った平家の夜警に見咎められました。
義円は高らかに「兵衛佐頼朝の弟で卿公義円という者だ」と名乗ります。源氏の棟棟梁の息子らしい、威風堂々とした様子でした。
義援は平家の家人・高橋盛綱と激闘。やがて討ち取られました。享年27歳という若さでした。
義円の遺児・愛智義成の末裔は織田信長に仕えていた!?
戦国の覇者・織田信長。義円の末裔が仕えたとされる。 |
義円の忘れ形見・愛智義成は頼朝に重用されていた!
義円の死後、頼朝ら源氏方は平家勢力を駆逐。壇ノ浦の戦いで滅亡に追い込みました。
では義円の一族はどうなったのでしょうか。少し見てみましょう。
尾張国に残された息子の愛智義成は、義円の遺児として尾張国で大切に養育され、のちに愛智氏の祖となります。
外祖父の慶範が大宮寺家であったため、血筋が近い頼朝(生母・由良御前は大宮寺家の出身)には重く用いられたと考えられます。
実際に長じてから義成は従五位下蔵人、ついで下総守に叙任されていました。五位以上は殿上人であり、朝廷の清涼殿に昇殿できる身分です。下総守は下総国(千葉県北部)の長官国司であり、歴とした高官でした。
源?愛智?義円の末裔の一族の名乗りについて
ちなみに「愛智って、名前が源から変わってね?」と思った方もいるでしょう。姓と苗字は違うんです。
姓(天皇から与えられた) |
例:源、平、藤原、橘 |
苗字(自分で名乗るもの) |
例:愛智、阿野、三浦 |
気づかれた方もいらっしゃるかも知れませんが、苗字って土着した土地から付けらたものが多いですよね。ほかの苗字では朝廷で務めた官位から取った例もあるようです。
愛智義成は同時に源義成でもあるわけです。「源」などの姓を名乗るのは公式な場面でのことで、通常は苗字の方を名乗ったようですよ。
領地がないし、土着してたらそこの土地の名前を付けたんじゃないかなと思います(責任なくてすいません…)。
愛智一族の末裔は織田信長の茶坊主となる
義成の後の愛智氏は、『尊卑分脈』などによれば南北朝時代まで続いたとされています。
それ以後については不明ですが、実は末裔(と思われる人物です)から後の天下人・織田信長に仕えた人間が出ていました。
戦国時代、茶坊主として活動していた拾阿弥(じゅうあみ)は愛智氏の出身だったと伝わります。
拾阿弥は横柄な人物として知られ、信長の配下に対しても尊大な態度で接したといいます。
ある日、拾阿弥は信長の配下・前田利家の佩刀に差していた笄(こうがい。結髪道具)を盗んでしまいます。実はこの笄、利家の正室・まつ(芳春院)が父の形見としていたものでした(大河ドラマ『利家とまつ』のワンシーンでお馴染みです)。
しかも拾阿弥は謝るどころか、利家に対してさらに侮辱。激怒した利家は、信長の面前で捨阿弥を斬って捨てたといいます。
この一件で利家は織田家を浪人することとなり、美濃国との戦いで手柄を立てることでようやく帰参が許されています。
愛智氏の子孫が天下人・信長や加賀百万石の祖・前田利家と関わっていたのは驚きですね。
義円公園(墨俣古戦場・義円の墓)の駐車場やアクセスについて
義円公園入口。出典:ウィキペディア(著者:Andee) |
いかがだったでしょうか?
義円の生涯を見てきましたが、なかには現地に行って義円が見た景色を体感してみたいと思われる方もいらっしゃるかと思います。
この記事を執筆している時はコロナ禍なので、外出を戸惑われる方もいらっしゃるでしょう。ですので気分だけ味わっていただければ幸いです。以下、簡単に紹介いたしましょう。
義円公園への行き方
住所
〒503ー0104
義円公園内
アクセス
JR穂積駅南口バス停から名阪近鉄バス利用18分下宿バス停下車
とほ約7分
【参考文献】
藤本元啓 『中世熱田社の構造と展開』 八木書店 2003年
川合康 『源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年
「源平墨俣川古戦場 義円公園」 岐阜観光連盟HP
https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_7108.html
「義円公園と義円の墓〈岐阜県大垣市〉」 源平史蹟の手引きHP