源頼朝は鎌倉殿ではなく武衛と呼ばれていた!? 呼び名の変遷を辿る
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ていると、時々「官職名」で呼ばれる人が出てきますね。
源頼朝がその代表的存在で、登場当初は史実と同じく「佐殿」と呼ばれていました。
「佐殿」は、頼朝が以前に任官していた官職「右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)」を短縮した呼び名です。
もっとも頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流罪となる前に「解官(げかん。官職を解かれること)」となっています。
ただ無位無官とはいえ、源氏の御曹司に「諱(いみな。忌み名ともいう)」で呼ぶわけはありません。
以前の官職名をそのまま呼び名に使うあたりから、東国武士たちの気遣いが見て取れる感じもします(私だけだったらすいません)。
頼朝の武衛は官位としての呼び方
ちなみに頼朝がかつて任官していた「右兵衛権佐」ってどんな官職なんでしょう?
所属する兵衛府という役所は、天皇やその家族の近くに仕えて護衛を任務としていました。兵衛府はさらに左兵衛府と右兵衛府に分かれており、頼朝は右兵衛府に所属していた形です。
少し図で見てみましょうか。
階級 |
長官(カミ) |
次官(スケ) |
判官(ジョウ) |
主典(サカン) |
役職名 |
兵衛督(ひょうえのかみ) |
兵衛佐(ひょうえのすけ) |
兵衛尉(ひょうえのじょう) |
兵衛志(ひょうえのさかん) |
頼朝は流人となる前は「右兵衛権佐」にあったとなっていましたよね。つまり兵衛府の次官の職にあった、ということになります(めちゃくちゃ偉いじゃないですか…)。
あれ、少し変なところがありませんか?
そうなんです。実は官職に「権(ごん)」というものが付いていたんです。
日本の官職には、定員が決まっているものがあります。そうすると、定員からあぶれた人は昇進できないことになりますよね。
だから「権官(ごんかん)」という、定員外ですが官職に付けることがありました。
いわば昇進待機組の救済措置になるわけですね(あやかりたい、あやかりたい)。
表を見て頂ければわかるかもですが、上から下に順番で「カミ・スケ・ジョウ・サカン」と呼びます。
実は日本の官職は、これら「四等官(しとうかん)」で成り立っているものが多いんですよ。
実際に地方の官職でも四等官は使われています。
国司(こくし。地方に派遣された行政官)も実際に「〇〇守(カミ)→〇〇介(スケ)→〇〇丞(スケ)→〇〇目(サカン)」で成り立っていました。
武衛こと頼朝と同時代の人物たちの官位
頼朝から外れますが、ちょっとだけ『鎌倉殿の13人』の登場人物から例を挙げてみましょうか。
上総国は親王任国(しんのうにんこく)と言って、皇族がトップを務める国です。ですので「守(カミ)」はいません。
事実上のトップは、代々上総介に就任してきた上総氏でした。
でも当時の正規の上総介は、平家の家人・伊藤忠清という人物が務めており、広常さんとは対立してます(平家、やっちまったな)。
治承4(1180)年に伊豆守であった同国の知行国主・源頼政が以仁王の挙兵で敗死しています。
それを受けて信遠は伊豆国に赴任し、平家方の山木兼隆と通じて北条時政らと対立しました。
頼朝の「武衛」は尊敬語として使われていた?
「武衛」て聞くと少しゴツいイメージが湧きませんか(私だけかな…)?
この呼び名、実は頼朝が所属した兵衛府の「唐名(とうめい)」なんですよ。中国の官職ではこう呼ぶよ〜、て意味になります。
時代は違いますけど、ドラマの『水戸黄門』てありますよね。あの「黄門(正式には黄門侍郎)」も唐名の一つなんですね。
水戸徳川家の当主の多く(ご隠居こと光圀さん)は「中納言」の官位を朝廷からもらってます。中納言の唐名が黄門侍郎なので、水戸徳川家の黄門様と呼ばれるわけです。
厄介なのは、官位を辞めた後も言われてるところです。ここら辺は頼朝と似てるかも?
ちなみに平安後期にも実際に使われてます。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の中でも平清盛が「平相国(へいしょうこく)」とよく言われていますよね。相国は「太政大臣(だじょうだいじん)」の唐名です。
でも公式な場所では、あんまり使われなかったらしいです。除目(じもく。官位の任官式)などでは通常の官名で任命されていました。
唐名は、実際私的な場所で使われることがほとんどだったらしいです。フォーマルな大和名(やまとな)↔︎カジュアルな唐名という形が近いと思います。
唐名は婉曲的な表現からか、一種の尊称としても存在していました。
頼朝が武衛と呼ばれるまでの経緯
では、頼朝が周囲からなんと呼ばれていたか、名称の変遷について見ていきましょうか。
久安3(1147)年、頼朝は河内源氏の棟梁・源義朝と正室・由良御前の間に生まれました。幼名は「鬼武者」の名前が与えられています(強そう)。武家の幼名は、元服(成人)する頃まで名乗るのが通常でした。
保元3(1158)年、頼朝は数え年12歳で皇后宮少進に叙任。この頃までには元服を済ませ、通称の「三郎」で呼ばれていたはずです。
頼朝は正室所生としては一番最初の男子でしたが、既に側室所生の男子が二人(長兄義平と次兄頼長)いたため、通称は「三郎」とされていました。
平治元(1159)年12月14日には、従五位下「右兵衛権佐」に叙任。前述の通り、ここから「佐殿」という呼び方が生まれています
同年に平治の乱が勃発。父の義朝らは敗死して、頼朝は平家に捉えられてしまいました。
命だけは助けられますが、永暦元(1160)年に伊豆国に流罪が決定。右兵衛佐の官位は解かれて、無位無官の罪人として同地に赴きます。
しかし関東には源氏に好意的な武士たちが数多くいました。解官後の頼朝に「佐殿」や、より尊敬を込めた「武衛」と呼ぶようになっています。
頼朝は武衛以外にも他の呼称で呼ばれていた?
治承4(1180)年4月、頼朝の運命は一変します。頼朝が流罪となってから20年後のことです。
京で以仁王や源頼政らが平家打倒に向けて挙兵。全国の源氏に平家打倒の令旨(親王などの命令文書)が発せられました。
令旨を受けた頼朝は挙兵して伊豆の目代・山木兼隆を討伐。しかし石橋山の戦いで敗れ、辛くも安房国に逃れています。
やがて頼朝は上総広常や千葉常胤らの応援を得て相模国へ進軍し、鎌倉を制圧することに成功しました。鎌倉は源氏由来の土地であり、頼朝の祖父・為義や父・義朝も坂東における根拠地とした場所です。
以降、頼朝は「鎌倉殿(鎌倉の主人)」と言われるようになり、武士たちの棟梁として認識されていくこととなるのです。
そして頼朝は、木曾義仲や平家の討伐に成功し新たな呼び名を獲得していきます。
文治元(1185)年4月には、従二位に叙任。公卿(三位以上)となって、国政に関わる高官と認識されます。頼朝はここで「源二位」と呼ばれました。
建久元(1190)年11月には「右近衛大将」に叙任されました。
近衛大将は近衛府(左と右)の長官に当たり、宮中の警護を行う武官の最高官職でした。
以降の頼朝は「右大将」や「右幕下」と短縮された形で呼ばれ、武士の代表かつ朝廷の高官として扱われていきます。
頼朝の呼び名の変遷を順に見てみると面白いことがわかりますよ。「鬼武者」→「三郎」→「佐殿」→「武衛」→「鎌倉殿」→「源二位」→「右大将」の順に列挙してみましょう。
頼朝の武衛とそれ以外の呼称一覧
・「鬼武者」→久安元(1147)年、頼朝が生まれた時に名付けられた幼名です。元服前まで名乗る名前ですが、かなりゴツい幼名ですね(源氏の御曹司って感じがします)。
・「三郎」→保元3(1158)年、頼朝は初めて官位を得ています。おそらくは同年か、その前年くらいに元服し「三郎頼朝」と名乗ったと推察されます。「三郎」は通称であり、通常は「頼朝」の諱を呼ぶことはしません。
・「佐殿」→流罪となった永暦元(1160)年頃と思われます。「右兵衛佐」を意味する呼び方ですが、短縮されての呼び方に少し親しみも感じますね。
・「武衛」→上記の「佐殿」と同様、永暦元年頃からと考えられます。
・「鎌倉殿」→鎌倉を制圧した治承4(1180)年からです。坂東の武士たちにとっては「鎌倉殿=武家の棟梁」という認識があるので、のちの鎌倉幕府の基礎はこのときに既に形成されていたとみることもできます。
・「源二位」→文治元(1185)年に従二位に叙任されたときからと推察されます。「源氏出身の(従)二位」という意味ですが、三位以上の高官という色合いが強調されています。
かつて挙兵した源頼政は「源三位」と通称されていましたから、それを超えたというニュアンスがどことなく漂っていますね。個人的には頼朝の河内源氏〉頼政の摂津源氏という図式が浮かび上がります(頼朝さん、狙ってますかね?)。
・「右大将」→建久元(1190)年に「右近衛大将」に叙任されたときからの呼び名です。近衛大将は常任の武官職としては最高の官職でした。唐名が「幕下」あるいは「幕府」と呼びます。「幕府=武官の最高権力者」という図式が既に存在していました。鎌倉だけでなく、室町や江戸幕府の原点もここにあったことがわかります。
武衛以外にも頼朝の呼び方は多数確認されていたことがわかりますね。呼び名はその人間の立場とその変遷も如実に表します。
頼朝の流人時代は20年に及ぶ過酷なものでした。その中で絶えずそばにあって彼を支えたのも、彼に与えられた名前の力だった、とも言えるのではないでしょうか。