朝比奈義秀、和田義盛の子として生を受ける
安元元(1176)年、朝比奈(和田)義秀は三浦党の一員である和田義盛の三男として生を受けました。通称は三郎と名乗ります。生母は木曽義仲の愛妾であった巴御前ともされますが、定かではありません。
父・和田義盛は、一時期三浦氏の家督を相続した杉本義宗(義秀からすれば祖父)の長男でした。三浦氏の当主・三浦義明からすれば嫡孫という関係になります。
しかし祖父・義宗は若くして病没。次男であった三浦義澄が家督を相続しています。
義盛は和田郷を本貫地として和田を名乗り、三浦党の重鎮として活動していくこととなります。
義盛と三浦氏との協調は、運命共同体とも言えるものでした。
治承4(1180)年、平家打倒を掲げて源頼朝が挙兵。義盛は三浦党と共に頼朝に味方して、戦っています。
鎌倉入り後、義盛は三浦党の一員でありながら侍所別当を拝命。御家人を統率する立場を与えられます。
建久10(1199)年に頼朝が病没すると、義盛は二代鎌倉殿・源頼家を支える13人の合議制の一員を拝命。より幕府政治に深く関与していきます。
朝比奈義秀の名前に込められた謎とは?
朝比奈義秀の名前について見て見ましょう。
当時の武家の男子の元服は12〜16歳が通例です。つまり文治3(1187)年前後には、三郎こと義秀は元服してことになります。
元服にあたり、武家の男子は諱を与えられていました。「義秀」の名前が誰から与えられたのか、見ていきましょう。
・朝比奈→義秀が名乗っていた苗字です。本貫地に関連する苗字と考えられ、相模国鎌倉郡朝夷名(朝比奈)が元だと考えられます。
・義→和田氏、三浦氏の通り字(一族の人間が受け継ぐ特定の文字)です。父・義盛も名乗っており、これを受け継いだと考えられます。
・秀→当時、鎌倉の御家人では佐竹秀義がいました。秀義は佐竹氏の当主として、頼朝に抵抗を続けていたようです。おそらくは和田氏による懐柔も含めた関係構築で、烏帽子親となった可能性があります。
和田氏は坂東の様々な武家と関係を構築しているため、可能性としては十分にあり得ます。
朝比奈義秀の剛力伝説
朝比奈義秀は、父・和田義盛にも劣らぬ武者振りで知られる人物でした。
正治2(1200)年9月、水練の達人とされた義秀は、将軍・頼家から技を見せるように命じられます。
義秀は海中に飛び込んで10回往復した上、三匹のサメを抱き抱えて浮かび上がりました(伝承です。あくまで)。
頼家は奥州の名馬を下賜しようとしますが、そこで兄・和田常盛が名馬を所望して相撲へと義秀と突入。引き分けたところで、常盛が馬に飛び乗って駆け去りました。
義秀をはじめ、和田氏にいる荒武者たちの姿を垣間見せるエピソードですね。
また、『曽我物語』などでも義秀の怪力を伝える話が知られています。
義秀は鎌倉七口の一つである峠道を開拓。わずか1日で切り開かれた峠道は、朝比奈切通と名付けられたと伝わります(ハンパないですね、義秀さん…)。
北条義時、和田一族を挑発する
頼家の死後、源実朝が3代鎌倉殿に就任。権勢を握ったのは、執権北条氏の一族でした。
それまでの政争の中で、梶原氏や比企氏などの有力御家人は次々と滅亡に追い込まれています。
当時の和田氏は侍所別当を務め、親族である三浦氏と並び幕府内部で大きな力を持っていました。
北条義時からすれば、北条氏を脅かす存在と認識。対する義秀や和田氏からすれば、専横的傾向の北条氏に不満を持っていたと考えられます。
建暦3(1213)年、信濃の御家人という泉親衡が北条義時暗殺を計画。そこには義秀の弟・義直と義重らも加担していました。
父・義盛の助命嘆願によって、義直らは赦免。しかし一族の胤長だけは許されずに陸奥国に流罪となります。
しかも胤長の屋敷は義盛に与えられず、北条義時の預かりと決定。和田氏の内部に不満が立ち込めていきました。
朝比奈義秀、和田合戦で活躍する
北条義時の挑発により、義盛は兵を挙げて北条氏を除くことを決定します。
同年5月2日、義盛は和田一族の兵150騎と共に挙兵。義秀の姿もそこにあったと考えられます。世にいう和田合戦の始まりです。
和田一族は将軍御所を襲撃。義秀は御家人らを次々と討ち取り「神の如き壮力」と称せられました。
義秀は敵方に従兄弟の高井重茂を討ち、北条朝時を負傷させます。さらに足利義氏を討死寸前まで追い込むなど、目覚ましい働きを見せました。
しかし和田勢は追い込まれ、由比ヶ浜に撤退。しかし翌3日、横山時兼ら3000騎の援軍を得ることが出来ました。
義秀はこの日も小物資政を討ち取り、北条氏率いる幕府軍相手に縦横無尽に駆け回ります。
ところが幕府軍は大軍であり、和田勢は徐々に追い込まれていきました。
同日、弟・和田義直らが討死。義盛も息子たちを失う悲しみの中で討ち取られたと伝わります。
朝比奈義秀は6艘の船に500の残兵を乗せて脱出。安房国方面に逃れ、その後は判然としていません。
『和田系図』では高麗(朝鮮半島)へ逃れたとしています。一説には駿河国志太郡に土着し、子孫は駿河今川氏に支えたとも言われました。
確かなことは、朝比奈義秀は類まれなる武勇で活躍し、歴史の表舞台から忽然と姿を消したということだけです。