和田義直、和田義盛の子として生を受ける
治承元(1177)年、和田義直は和田義盛の四男として生を受けました。通称は四郎と名乗ります。
父・義盛は三浦党において、重要な位置にいた人物です。
義盛の父(義直の祖父にあたる)・杉本義宗は、三浦義明の長男として誕生。三浦氏の家督を相続していましたが、若くして亡くなっています。
その後は、義明の次男・三浦義澄が三浦氏の家督を相続。義盛は三浦党の一員として枢要な位置を占めていくこととなります。
特に義盛が華々しい活躍を見せたのは、源平合戦においてでした。
治承4(1180)年、伊豆国に流罪となっていた源頼朝が挙兵。義盛はいち早く三浦一族と共に馳せ参じて、合力しています。
頼朝が鎌倉入りした後、義盛は侍所別当の地位に就任。御家人たちを統率する立場を与えられました。
和田義直の名前(諱)に込められた意味とは?
当時の武家の男子は、数え年12〜16歳(満年齢で11〜15歳)で元服するのが通例でした。その時点で幼名から通称(通常はこちらで呼ばれる)を名乗り、諱(忌み名)を与えられます。
和田義直は、おそらく文治4(1188)年前後に元服(推定ですが)。その時に諱を与えられたはずです。
・義→これは三浦氏の通り字です。家督相続者やそれに準じるものたちとの認識があったことは間違いありません。
・直→こちらは通り字ではなく、偏諱にあたります。同時代に直の一字を持つ武士は何人かいますが、おそらくは坂東武者の一人である熊谷直実だろうと推定されます。熊谷氏においては通り字ですが、烏帽子親となる際に偏諱として与えられのではないでしょうか。
また、義直は金窪四郎という通称でも呼ばれていました。
武蔵国児玉郡には、金窪という地名がありました。おそらく義直は同地を本貫地としており、苗字を金窪としたと考えられます。
和田義直、泉親衡の乱に関わり和田合戦に参加する
本来であれば、義直も和田氏や三浦氏に繋がる御家人として、幕府内部で枢要な地位に就任するはずでした。
しかし執権北条氏が台頭すると事態は一変。有力御家人たちは次々と退けられ、滅亡に追いやられていきます。
建暦3(1213)年、信濃の御家人とされる泉親衡が執権・北条義時の暗殺を計画。義直は弟・義重や従兄弟である胤長と計画に加担してしまいます。
ところが計画は露見して破綻。義直は厳罰に処されるところを、父・義盛の助命嘆願によって義重と共に許されました。
しかし従兄弟の胤長だけは許されず、東北地方の陸奥国に流罪が決定。義盛らは不満を持ち、兵を挙げました。世にいう和田合戦の始まりです。
和田一族は将軍御所を襲撃しますが敗北。由比ヶ浜に追い詰めらますが、横山時兼の援軍を得て勢いを盛り返します。
義直は伊具盛重に敗れて討死。義盛ら和田一族も残らず撃たれて滅亡を遂げました。