和田胤長、御家人・和田義長の嫡男として生を受ける
寿永2(1183)年、和田胤長は和田義長の嫡男として生を受けました。平太という通称から、おそらく長男だったと推測されます。
父・義長は三浦党を一時率いた杉本義宗の息子でした。兄(胤長から見て伯父)には侍所別当を務めた和田義盛がいます。
義長は「鎮西(九州)で三浦義澄と行動中に死去」とされているため、平家との戦い前後に死去した可能性があります。
平家が壇ノ浦の戦いで滅亡したのが、元暦2(1185)年です。戦死か病没かは判然としませんが、意図的に記録が削除された可能性があります。理由はおそらく北条氏との関係にあると想定されます(後述)。
和田胤長の名前に込められた意味とは?
当時の武家の男子の元服は、数え年で12〜16歳でした。時期的には建久5(1194)年前後だと推測されます。
胤長の諱についても特別な意味がありました。以下、簡単にですが胤長の名前について見て見ましょう。
・胤→千葉氏の通り字(一族の人間が受け継ぐ特定の文字)です。第一字に来ているため、家格が上の人物が烏帽子親として授けたと考えられます。おそらく烏帽子親は千葉常胤だったと考えられます。
・長→胤長の父・義長の偏諱です。三浦党や和田氏の通り字は「義」ですが、胤長はいずれの嫡流でもないため、長の一字を継承したと考えられます。
当時の武家は、烏帽子親との付き合いにおいて実の親かそれ以上の関係を築いていました。
上総介広常の粛清後、千葉氏は房総平氏一族の惣領としての地位を確立。本領の下総国の守護を務め、上総国にも勢力が及んでいました。
胤長の背後には、いわば大勢力たる千葉氏の存在があったわけです。加えて祖父や父の出身である三浦や和田の存在もありました。
いずれは鎌倉幕府の御家人として、順風満帆な人生を送ることが約束された存在だったのです。
和田胤長、泉親衡の乱に関わり捕縛される
胤長の運命が暗転したのは、執権北条氏の台頭によってでした。
当時の鎌倉幕府では、北条義時が実父の北条時政を追放。政治権力の中枢で権勢を誇っていました。
鎌倉殿である源実朝は、まだ若く十分に政治を動かすことができません。対立する御家人たちは、いずれも北条氏によって滅ぼされていました。
不満を持つ御家人たちは、やがて北条義時及び北条氏の排斥を望むようになっていきます。
建暦3(1213)年、信濃の御家人とされる泉親衡が北条義時暗殺を計画。計画には胤長や従兄弟の和田義直・義重兄弟(義盛の子)も関わっていました。
計画はすぐに露見し、関わった者たちは捕らえられます。義直兄弟は義盛の助命嘆願によって救われますが、胤長だけは解放されませんでした。
このとき、胤長は妻と6歳の愛娘・荒鶴と離れ離れになってしまいます。悲しんだ荒鶴は病を得てしまい、病状は日毎に重くなっていきました。
しかし胤長の身柄は解放されることはありません。そこで胤長に似ていたとされる和田一族の和田朝盛(和田義盛の孫)が荒鶴に胤長のふりをして面会。その心を慰めようとします。
やがて荒鶴は亡くなり、胤長の妻も27歳の若さで出家。胤長は単身で東北地方の陸奥国岩瀬郡に流罪と決まりました。
和田胤長、流刑地で和田合戦の顛末を見守る
胤
義時はすでに和田氏の滅亡を計画しており、胤長の解放拒否は挑発の意味合いもあったようです。
加えて胤長の近しいところには、千葉氏がいます。義時からすれば、いずれは千葉氏の排斥も念頭に置いていた可能性もあります。
胤長は罪人としての扱いを受けたまま。陸奥国岩瀬郡(現在の福島県鏡石町か天栄村)に流されました。
鎌倉にあった胤長の屋敷は没収。一時は伯父・和田義盛が拝領することとなりますが、北条義時の預かりと決します。
義盛は胤長らの扱いに激怒。北条義時を打倒すべく、兵を挙げる決心を固めました。世にいう和田合戦の始まりです。
和田合戦が鎌倉で起きている間、胤長は配流先の陸奥国岩瀬郡で逼塞していました。
流罪は死罪ではありませんから、刑期が明ければいずれ鎌倉に帰還できる可能性があります。しかし胤長に待ち受けていたのは、残酷な結末でした。
建暦3(1213)年5月3日、和田一族は執権北条氏や幕府軍相手に敗北。滅亡を遂げてしまいます。
完全に後ろ盾を失った胤長は、岩瀬郡で罪人の身の上のまま処刑されてしまいました。わずか31歳という若さです。