日本史好きのブログ

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【陳和卿と建築様式】日本の和様と大陸の大仏様が東大寺で出会った!禅宗様の導入についても解説

 

陳和卿の東大寺再建協力と、新しい建築様式の導入

 

日本でいう平安時代末期当時、宋国はアジア随一の文明国でした。

陳和卿らの建築技術者は、東大寺を再建すべく宋国から来日。日本に優れた技術や知識をもたらします。

その代表的な技術及び建築様式が大仏様(天竺様)でした。大仏様は、北宋(現在の中国福建省)の建築様式の色彩を色濃く受け継いでいます。

陳和卿は東大寺大勧進職(東大寺の再建プロジェクトのリーダー)・重源と共に東大寺に新しい建築様式を取り入れました。

それまでの日本では和様建築が主流です。では実際に、和様と大仏様がどう違うのか見ていきましょう。

 

 

和様(日本独自かと思いきや、唐代に大陸から導入された建築様式なんです)

 

  • 基壇上に建築される。
  • 貫を用いない。
  • 長押(なげし)で軸部を固める。
  • 窓は連子窓。
  • 垂木は平行であり、木鼻(きばな)などに彫刻などの装飾はない。
  • 日本住宅の原型である「書院造」にその特徴を残す。

和様建築の代表である平等院鳳凰堂。出典:Wikipedia



 

大仏様浙江省江蘇省あたりで行われていた。

 

  • 貫や太い虹梁を多用する。
  • 木鼻には彫刻など細部装飾を用いる。
  • 挿肘木(柱の側面に)を採用している。
  • 天井は化粧屋根裏(平らな天井ではなく、屋根裏の構成を室内に見せた構成)を用いる。
  • 現存遺構は東大寺の南大門及び小野の浄土寺浄土堂のみ。

東大寺の南大門。陳和卿が関わった。



 

 

東大寺から陳和卿が追放!禅宗様が栄西によって伝来した!?

 

 

平安末期から鎌倉時代初期にかけて、寺院の建築様式は大きく変革。陳和卿らのもたらした建築技術は、次の世代へと受け継がれていきます。

元久31206)年、陳和卿は東大寺工匠らとの対立が発端となって追放されました。同年には重源が病没してしまいます。

 

程なくして、宋国に留学していた栄西東大寺大勧進職に就任。東大寺再建を担っていくこととなります。

栄西こそが和様、大仏様に次いで、日本に新たな建築様式「禅宗様」をもたらした人物でした。

以下、禅宗様の簡単に特徴を見てみましょう。

 

 

禅宗様(日本人に好まれた新しい建築様式です)

 

・礎石の上に礎盤、さらに円柱を置く。

・大仏様と同様に貫を用いる。

・長押は一切用いない。

・木鼻には詳細な装飾を施す。

・床は張らずに土間で

・天井は中央が鏡天井であり、それ以外は化粧屋根裏とする。

・出入口や窓には、花頭窓や花頭縁を用いる。

・最古の例として善福院釈迦堂が知られている。

 

禅宗様建築の善福寺釈迦堂。出典:Wikipedia



 

 

 

 

○参考サイト

 

【陳和卿】鎌倉殿・源実朝に厚く信頼された僧侶!東大寺再建に尽力した功績者は食わせ者だったって本当?

 

 

南宋で生まれた陳和卿は、何故日本を訪れた?

陳和卿、南宋に生まれ僧侶となる

 

陳和卿は、日本でいう平安時代ごろ、中国・南宋で生を受けました。弟と伝わる人物に陳仏寿がいますが、実際の関係は不明です。

 

宋は度重なる戦乱に翻弄された国でした。

靖康元(1126)年、北宋の王都・開封女真族の金によって陥落。最後の皇帝・欽宗が捕らえらえてしまいます。

この事件を契機とし、宋は華北を失って淮河以南に撤退。臨安を首都として南宋王朝を形成していました。

やがて南宋は金との間に和平を締結。政局は安定し、平和が時代が続いていました。

 

この時代、陳和卿は寧波は太白山の麓にある阿育王寺(あしょうかおうじ)に入門。禅宗の僧侶として修行を積んでいきます。

僧侶というと、読経や学問を思い浮かべがちです。しかしそれが全てではありません。

寺院には漢籍などの書物が集まり、学術だけでなく武術や薬学、医学においての知識も学ぶことが出来ました。

特に阿育王寺などの大寺院は、僧侶育成機関であると同時に、社会のために優れた人材を育成する場所でもあったのです。

陳和卿は工人(技術者)として優れていました。その中で特に寺院の建築技術、鋳物師としての腕を磨いていったと考えられます。

 

 

陳和卿と重源との出会い

 

陳和卿が運命的な出会いを果たしたのも、阿育王寺が関わっていると考えられます。

日本でいう平安時代の末期、僧侶である俊乗房・重源南宋渡航。やがて阿育王寺に巡礼のために立ち寄ります。

阿育王寺は、仏舎利(御釈迦様の遺骨)信仰の聖地として日本でも知られた寺院でした。おそらく重源は、阿育王寺で陳和卿と関わりを持ったと考えられます。

 

当時の宋国は、東洋随一の文化水準を持つ国家でした。

日本からは平清盛などが日宋貿易を推進。交易だけでなく重源や栄西などの留学僧も渡海していました。

重源は宋国で建築技術を習得したと伝わります。おそらくはここで陳和卿とのやりとりがあったと推察されます。

 

さらに重源は阿育王寺で妙智禅師従廓と面会を果たしました。

妙智禅師は勧進(寺院修繕のための寄付を集める行為)と伽藍修造などの理財管理に長けた人物でした。

 

陳和卿や勧進事業との出会いは、重源や日本の歴史を変えていく一大事になるのです。

俊乗房重源。陳和卿らと東大寺の再建に尽力した。



 

陳和卿、重源と二人三脚で東大寺大仏殿を再建する

日本に渡った陳和卿、東大寺勧進事業に関わる

 

陳和卿と重源との本格的な関わりは、日本の九州筑前国博多津で始まります。

博多津は、当時の日本で日宋貿易港湾都市として整備。交易の一大拠点となっていました。

時期は不明ですが、陳和卿も博多津に渡海。渡海の目的は交易か、あるいは勧進事業に関わるものと予想されます。

 

このとき、日本では源平合戦の火蓋が切られたところでした。

治承41180)年、以仁王後白河法皇の第三皇子)が、摂津源氏棟梁・源頼政と結んで挙兵。打倒平家の令旨を全国の源氏や寺社に送って参加を呼びかけます。

以仁王頼政らは挙兵に失敗して敗死。その一方で伊豆国では源頼朝信濃国では木曾義仲が兵を挙げました。

南都・奈良の興福寺などの寺社勢力も反平家に傾斜。清盛の五男・平重衡は兵を率いて、南都焼討に及びました。

焼討により、東大寺は大仏(盧舎那仏)をはじめ伽藍の多くが焼失。再建が強く求められる事態となります。

 

焼討の翌年である養和元(1181)年、後白河法皇は重源を東大寺大勧進に任命。東大寺の再建を命じます。

重源は宋への渡航経験で培った技術と、人脈をフルに生かすべく行動を始めました。

博多津にいた陳和卿や陳仏寿らの建築技術者は重源の下に参集。東大寺の勧進事業に関わっていきます。

東大寺の大仏。陳和卿も鋳物師として関わった。



 

重源を支える陳和卿、資金と木材の確保に奔走する

 

陳和卿と重源が関わった勧進事業は、単純な寄付金集めではありませんでした。

東大寺再建に必要な予算確保に加え、建築や鋳物技術者のみならず、建築資材を集める必要があったのです。

寄付金の要求は、京の後白河法皇九条兼実にも上申。鎌倉殿である源頼朝や、奥州藤原氏藤原秀衡にも砂金勧進を求めています。

 

次に求められたのは、職人たちの統率と建築資材の調達です。

ここで陳和卿は重源の職人たちの指揮に協力。共に日本産の材木調達に乗り出しました。

 

木材の調達は周防国徳地の(伐採用の山林)を利用。佐波川(鯖川)上流の山奥を切り開き、調達場所を確保するところから始まりました。

同地の木材は阿育王寺の舎利殿再建にも利用。海を渡って宋国の大寺院の一部となっています。

当時の宋国の山林は荒れ果てており、木材は入手困難でした。このことから、重源が阿育王寺の勧進も請け負ったと考えられています。

宋国への木材搬出は、陳和卿との関わりからも行われたようです。

東大寺の南大門



 

 

初代鎌倉殿・源頼朝は罪深い人間?陳和卿が面会を拒絶した理由とは

 

 

陳和卿らの働きによって、東大寺は無事に再建への道筋が付けられていきます。

建久61195)年3月、東大寺の再建供養式典が挙行。既に陳和卿の名は全国に知られるほどの存在となっていました。

鎌倉殿・源頼朝は、陳和卿との面会を希望します。しかし陳和卿は頑なに拒絶しました。

陳和卿は「頼朝は平家との戦いで多くの人々の命を奪った。罪深い人間には会いたくはない」と答えます。

 

頼朝は激怒するどころか、むしろ感じ入って涙を堪えました。

せめてもの気持ちとして、頼朝は奥州合戦に使った甲冑や鞍などの武具や馬、金銀を陳和卿に贈呈します。

しかし陳和卿は甲冑を東大寺造営の釘に加工。鞍は東大寺に寄進し、金銀などは頼朝に返しています。

 

あくまで東大寺再建に必要なものだけ受け取って他は返すところに、陳和卿の清廉さが見て取れますね(本当だったかは知らんけど)。

初代鎌倉殿・源頼朝。陳和卿との面会を希望していた。



 

 

陳和卿、東大寺とのトラブルで追放処分となる

 

東大寺の再建によって、陳和卿の運命は大きく変わりました。

再建の功績により、陳和卿は播磨国大部荘や周防国宮野荘など5箇所の荘園を朝廷から下賜されます。

陳和卿は、東大寺大勧進織である重源に荘園を寄進。あくまで管理経営だけを請け負う道を選びます。

陳和卿にとっては東大寺の再建が第一であり、蓄財や土地の所有は二の次だったわけです。

 

しかしここで、陳和卿に思いがけない展開が待っていました。

東大寺の僧侶や工匠たちは朝廷に陳和卿を告発。以下の罪状を挙げていたようです。

 

「陳和卿は、重源の荘園を横領して再び我がものにしようと画策している」

「作業において陳和卿が窯に瓦を投げ込んで嫌がらせをした」

「大仏殿の修復用の木材を流用して、船の材料に充てようとした」

 

東大寺の工匠らは、既に陳和卿に不信感が募っていたおり、東大寺再建事業からの追放を求めています。

一方で工匠らは陳和卿がもたらした技術を既に習得し、既に無用だと述べていました。このことから、陳和卿の告発は仕組まれたものである可能性が出てきています。

 

元久31206)年415日、後鳥羽上皇は下文を発給。「宋人陳和卿濫妨停止」とが命じられます。陳和卿の追放が決定した瞬間でした。

同年6月には大勧進織である重源が病没。このときをもって、完全に陳和卿は東大寺再建事業から関わりを断たれたことになります。

 

工匠らの告発の時期や内容からして、外部の人間を東大寺再建事業から排除する意図があったと言われています。

 

 

 

大仏殿修築から唐船製造までこなした陳和卿!何故源実朝に協力した?

鎌倉殿・源実朝の前世は、陳和卿の師匠だった?

 

東大寺再建事業から追放後、陳和卿はどうなったのでしょうか。

その後10年間については、陳和卿の足跡は明らかになっていません。おそらく日本国内にいたとは思われますが、確かなことは不明です。

 

陳和卿が再び歴史の表舞台に姿を表したのは、奈良や京でもなく武士の都となった鎌倉でした。

建保41216)年68日、陳和卿は3代鎌倉殿となっていた源実朝への拝謁を希望します。実朝はかつて面会を拒絶した頼朝の息子です。

 

このとき、実朝は陳和卿との面会に消極的でした。しかし陳和卿は「当将軍は権化の再誕である。恩顧を拝みたい」と再三にわたって面会を申し込みます。

結局、実朝は拝謁を許可。同月15日になって、陳和卿は実朝のいる御所に上ることとなりました。

 

拝謁の場で、陳和卿は実朝の顔を三度拝み、人目も憚らずに号泣。実朝は苦い様子で見ていました。

陳和卿は実朝に言います。

「貴方様は前世、宋は育王山の長老でございました。私はその時の門弟でございます」

これを聞いた実朝は驚きました。

5年前に見た夢と同じだ! 高僧が同じことを言っていた)

 

実朝は不思議な体験をすることが多い将軍だったと伝わっています。

幽霊を見たり、不思議な夢を見たり…etc

 

兎にも角にも、実朝は陳和卿を完全に信用し切ってしまいました(そんな簡単に…?)。そして実朝は新たな決断をすることとなるのです。

3代鎌倉殿こと源実朝。陳和卿を厚く信頼した。



 

 

源実朝の唐船建造計画は、夢物語ではなく貿易立国を目指したものだった?

 

実朝は陳和卿と出会ったことで、宋へ渡ることを思い立ちます。

征夷大将軍である実朝が宋国に渡る。通常で考えたら、日本史上でもあまり思いもよらない話ですよね?

 

しかし実朝は強く宋への渡海を思い描いていました。

このときの鎌倉幕府は、執権の北条義時が掌握。実朝は将軍とはいえ、名目上の存在となっていました。

実朝が「将軍として何かを成し遂げたい」と思っても不思議ではありません。

建保41216)年1124日、実朝は御家人たちに大船の建造を命令。陳和卿も協力して宋へ渡る船の建造が始まりました。

 

世間を知らない不思議ちゃんな将軍が何かやってる、と思いがちですよね?違うんですよ。

実朝にはちゃんとした問題意識があり、宋への渡航計画はその第一歩と位置付けられていました。

 

平安時代末期から、貨幣経済は西日本を中心に進展。しかし鎌倉時代初期となっても、坂東には貨幣の流通が満足に行われていませんでした。

坂東では主に実質貨幣として、米が決済手段として使用されていたようです。

 

かつて平清盛日宋貿易を行い、国内への貨幣流入に成功していました。実朝は先例に倣い、宋への渡航と新たな日宋貿易及び貨幣経済の進展を志向したようです。

西日本を中心に流通し始めた宋銭。出典:Wikipedia



 

 

陳和卿と源実朝の夢、渡宋計画の結末

 

 

陳和卿は実朝から信任を受けて、造船計画の指揮者を拝命。かつて遣唐使が乗った唐船をベースに建造を進めていきます。

NHKの『歴史探偵』では、実朝の船についても取り上げていました。

同番組によると、船の全長は推定30メートル、高さは6メートルにも及ぶ大きさだったとしています。

 

陳和卿は培った宋の技術を縦横無尽に駆使し、造船計画の舵取りを担っていました。

乗員は御家人60人が乗船予定となり、船の漕ぎ手も合わせると200以上が乗り込むほどの大船でした。

そして翌年建保51217)年417日、とうとう唐船は完成。進水式が行われることとなりました。

しかし由比ヶ浜に曳航させたところ、船は砂浜で大破。瞬間、実朝の宋への渡航計画は破綻してしまいます。

 

船が破綻した点については、色々な説があります。

・政策に不満を持つ御家人が細工とした。

・喫水の水位に届かず、十分に浮かべることができずに失敗した。

 

しかし確実なことは、これを持って陳和卿の消息は歴史上から完全に消えてしまったということです。

 

実朝に宋への渡航を思い立たせ、計画に協力した存在ー。陳和卿はその後、どこに行ってしまったのでしょうか。

遣唐使が乗った唐船の再現。出典:Wikipedia



 

 

 

 

 

参考文献

 

 

 

・野村俊一「鎌倉期禅院建築の意匠とその流通に関する対外交渉史的研究」科研HP

https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-23760602/23760602seika.pdf

 

・「紙本墨書東大寺周防国宮野庄田畠等立券文」山口県HP

https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/detail.asp?mid=40038&pid=bl

 

・「大勧進 重源」奈良国立博物館HP

https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/200604_chogen/

 

青木淳「俊乗房重源の入宋と技術移入」

http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E5%8D%B0%E5%BA%A6%E5%AD%A6%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E5%8D%B0%E5%BA%A6%E5%AD%B8%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%AD%B8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%AC%AC46%E5%B7%BB%E7%AC%AC1%E5%8F%B7/Vol.46%20,%20No.1(1997)027%E9%9D%92%E6%9C%A8%20%E6%B7%B3%E3%80%8C%E4%BF%8A%E4%B9%97%E6%88%BF%E9%87%8D%E6%BA%90%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AE%8B%E3%81%A8%E6%8A%80%E8%A1%93%E7%A7%BB%E5%85%A5%E3%80%8D.pdf

 

 

佐藤秀孝「阿育王山の妙智禅師従廓について」金沢大学HP

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33430/kzk023-04-sato.pdf

 

 

・「重源」寺院センターHP

https://jiincenter.net/%E9%87%8D%E6%BA%90%EF%BC%88%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%92%E3%82%93%EF%BC%89/

 

・「大仏様」大阪文化財ナビHP

https://osaka-bunkazainavi.org/glossary/%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%A7%98

 

 

【建暦3年の地震】天変地妖と呼ばれた大地震勃発!陰陽師の発言で御家人がまた一人粛清される?

 

地震は今も当時も、人々にとって驚異であった。



建暦3年の地震(天変地妖)の勃発!

 

『鎌倉殿の13人』もいよいよ佳境。和田合戦の勃発と鎮圧により、ますます北条氏の権勢が強まるかと思えました。

 

しかし、和田合戦の終結後間も無く地震が発生。時に建暦31213)年521日のことでした。

和田合戦が同月の23日ですから、半月ほどしか経過していません。

 

 

吾妻鏡では次のように伝えています。

 

「午剋大地震。有音舎屋破壊、山崩地裂。於此境近代無如此大動云々。而廿五日内、可有兵動之由、陰陽道勘申之」

→午の刻(うまのこく:午前11時〜午後1時)に大地震が起きた。家屋敷が音を立てて壊れ、山崩れや地割れが発生している。

最近はこの近くで大きな地震はなかったと言う。陰陽師は、25日以内に兵乱が起きるだろうと上申した。

 

北条氏が編纂した歴史書吾妻鏡

 

 

幕府に睨まれた御家人!処刑か助命か?その結末とは!?

 

当時の日本には、科学的な観点から地震を分析する人間は皆無です(当然ちゃあ当然ですが)。

地震などの災害は、それ自体が吉凶を予感させるものと考えられていました。

実際にこの地震の後、幕府は地震を防ぐために翌63日に祈祷を行わせています。祈祷は人々の安心材料でもあったのでしょうね(知らんけど)。

 

しかし612日に事件が起きます。

流言飛語が飛び交ったらしく、御家人たちが武装して将軍御所に馳せ参じてきました。

人々の心が不安定であり、武家である御家人たちも未来に対して恐れを抱いていたことがわかりますね。

 

25日には御家人広沢実高が所領の備後国三谷郡から鎌倉に帰還(タイミングに最悪です実高さん、気の毒に)。

ここであろうことか「実高が和田義盛の一党であった」と幕府に讒言をする者が出ました(『鎌倉殿の13人』の中なら、この後ほぼやられます)。

当然、実高は自分は関係がないことを抗弁。疑いを晴らすべく幕府に申し立てて認められました(よかったね、実高さん)。

 

鎌倉の御家人でさえ動揺していましたから、民衆に至ってはどれほど不安を抱えていたか想像できますね。

陰陽師の発言て怖いなぁ、て個人的には思います。下手すれば実高さんの家も断絶の上、所領没収でしたからね。

二代執権・北条義時(小四郎)。北条氏に睨まれたら終わりの気配…

 

【横山時兼】孤軍奮闘する和田義盛を救った鎌倉武士!公卿・小野篁の子孫にして、武蔵国の武士団の頭目

 

 

横山の苗字の由来は多摩丘陵だと伝わる。画像出展:Wikipedia

『鎌倉殿の13人』を見ていたら、ちょうど和田義盛の挙兵に関するシーンでした。和田合戦では、西相模の御家人たちが義盛に付くか付かないか、という話をしていたと思います。

 

実際は大江広元らが将軍の御教書を掲げて幕府側(実際は北条氏側だけどね)に付かせます。

 

でも、このとき不利な情勢の和田義盛に味方した御家人がいたことも忘れてはいけません。今日は横山時兼について触れていきましょう。

 

 

武蔵国の大武士団・横山一族に生まれる

 

仁平31153)年、横山時兼武蔵国武家である横山時広の長男として生を受けました。

横山は本貫地とした横山荘に由来する苗字です。横山一族の本姓(源や平)は「小野」でした。

本姓から苗字への過渡期である時代でもあり、横山時兼は「小野時兼(おののときかね)」とも呼ばれます。

 

横山一族(党)は、武蔵国多摩郡にある横山荘を拠点とする武士集団でした。一族の起源は小野篁まで遡るとされています。

所領は横山荘から武蔵国相模国北部にも浸透。武蔵七党にも数えられた武士団です。

祖父・小野孝泰の代に関東に下向。義孝は従五位上・武蔵守(武蔵国の長官国司)に叙任され、武蔵国を代表する武士団頭目となります。

父・義孝も武蔵権守(むさしごんのかみ:武蔵国における定員外の長官国司)となるなど、横山党は武蔵国を率いる立場として活動していました

 

横山氏の祖とされる小野篁従三位まで昇り、国政で活躍した。



 

 

横山時兼の名前に隠された秘密とは?

時兼はどのような武士だったのでしょうか。実際にその名前から考察してみましょう。

当時の武家の男子は、数え年1216歳(満年齢で1115歳)で元服するのが通例でした。そのとき幼名(○○丸など)から諱(時兼)を貰います。

では数え年が12歳となる(1164)年「時兼」という名前はどのように決定されたのでしょうか。

 

・時横山氏の通り字(一族の人間が受け継ぐ特定の文字)です。父・時広からもらった一字であり、家督相続者としての一字でもありました。

 

・兼偏諱にあたります。おそらくは烏帽子親から拝領した一字でしょう。下の方に位置していることから、家格が下の人間からもらったと推察されます。叔父の海老名重兼が烏帽子親となり、偏諱を受けた可能性が考えられますね。

元服のときに与えられた烏帽子。このときから通称と諱を名乗るようになる。



 

 

横山時兼、源頼朝から厚い信任を受ける

 

時兼が歴史の表舞台に登場したのは、源平合戦前後のことでした。

治承41180)年、源頼朝伊豆国において挙兵。打倒平家を掲げて立ち上がります。

頼朝は石橋山の戦いで大敗。しかし逃れた後、上総介広常らの助力を得て鎌倉入りを果たし、見事に坂東に一大勢力を築き上げます。

時兼ら横山党もこの前後に頼朝に出仕。坂東を代表する武士団の一つとして重用されていきます。

 

寿永元(1182)年8月には、源頼家(頼朝の長男)が誕生。時兼は梶原景季梶原景時の嫡男)や畠山重忠と並び、刀を献上しています。特に頼朝から信頼を受けていたことがわかります。

その後も有力御家人の一人として活躍。源平合戦奥州合戦にも随行しており、頼朝の上洛にも供奉することを許されていました。

 

建久101199)年、頼朝が病没。鎌倉幕府は二代鎌倉殿・頼家の元で宿老13人による合議制が敷かれていきます。

しかし頼朝の死後も時兼は幕府で重用。正治21200)年には淡路国の守護を拝命しています。

初代鎌倉殿こと源頼朝。時兼を厚く信頼して重用した。



 

 

和田義盛は横山時兼の義理の叔父?横山一族と和田一族の関係とは?

横山氏は梶原氏や和田氏と婚姻関係を締結し、結びつきを強めていました。

婚姻政策の駆使は、平安末期までは武士団の在り方として有効に機能していたかもしれません。

ところが頼朝死後には、合議制の宿老らによる権力争いが激化。梶原景時比企能員が北条氏によって排除されていきます。

頼家も出家に追い込まれますが、のちに北条氏によって謀殺。三代鎌倉殿には、源実朝が就くこととなりました。

牧氏の変で北条時政が失脚すると、北条義時が政治の主導権を獲得。御家人たちの多くは不満を募らせていきます。

 

建暦31213)年2月になると、時兼らを揺るがす事件が起きます。

信濃御家人泉親衡による北条義時暗殺計画が露見。計画には侍所別当(長官)・和田義盛の息子・和田義直らも関与していました。

和田義盛の側室は、時兼の叔母にあたります。加えて和田常盛(義盛の嫡男)の妻は、時兼の妹でした。

時兼ら横山一族は和田一族と結びつきが極めて強く、それだけに影響も大きなものだったようです。

 

事件後、北条義時和田義盛に挑発を開始。挙兵に追い込んで滅ぼすことを計画します。

先の泉親衡の乱に関与した科で、義盛の甥・和田胤長流罪に決定。陸奥国岩瀬郡に配流となりました。

52日、義盛はこの処置に激怒して一族を招集。150騎を集めて将軍御所を襲撃に及びました。世にいう和田合戦です。

時兼の義理の叔父・和田義盛。侍所別当を務めた。



 

 

横山時兼、和田義盛らの挙兵に援軍として赴く

和田合戦の勃発は、時兼の運命をも変えました。

決起した和田一族の兵はわずか150ですから、決して多いとは言えない人数です。

しかし和田義盛らの軍勢は凄まじい勢いで進撃。北条義時邸と大江広元邸を蹂躙し、将軍のいる大倉御所を包囲します。

和田勢は一斉に攻め寄せて御所に放火。和田義盛らは北条義時三浦義村らを追い詰めます。

日没が迫ると和田勢は徐々に後退。一方で幕府軍の軍勢は次々と数を増やしていきます。

和田勢が由比ヶ浜に追い詰められると、そこにはわずかな兵しか残っていませんでした。

 

しかし3日になって、時兼率いる3000由比ヶ浜に到着。劣勢の和田勢の味方となって参戦します。

 

和田義盛は、形から言えば将軍に弓を引いています。加えて劣勢ですから、味方して負ければ滅亡以外ありません。

それでも時兼は和田義盛に味方すべく一族を挙げて参戦しています。そこに時兼の高潔で勇猛な人物像が見て取れますね(かっけえ)。

 

時兼の援軍を得た和田勢は、再び活力を得ます。同時に横山一族3000騎の参戦により、相模や伊豆の御家人らは幕府か和田勢どちらに付くか迷っていました。

ここで大江広元は、実朝に和田勢鎮圧の御教書(命令文書)を作成を上申。相模の御家人らを幕府方に付けてしまいます。

 

時兼らの軍勢は再び鎌倉の市街地に進撃。激戦を繰り広げますが、少しずつ兵力を減じていきました。

同日酉の刻(18時ごろ)、和田義盛らが相次いで討死。時兼は囲みを突破して甲斐国へと逃れました。

しかしもはやここまでと時兼は悟っていました。

54日、時兼は義弟である和田常盛らと共に落ち延びた都留郡波加利荘で自刃。享年61歳。戦後に横山一族は滅亡し、横山荘は大江広元に与えられました。

 

しかし横山一族が全て歴史の表舞台から姿を消したわけではありません。

のちに横山一族出身の中条家長評定衆に抜擢。御成敗式目の制定に関わるなど、その事跡を今に伝えています。

時兼が加わった和田合戦。華々しい活躍は伝説となった。

 

【朝比奈義秀】大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場する和田義盛の三男!朝比奈氏の祖となった英雄の生涯とは?

 

朝比奈義秀。剛力を持つ英雄として知られた。

朝比奈義秀、和田義盛の子として生を受ける

 

安元元(1176)年、朝比奈(和田)義秀は三浦党の一員である和田義盛の三男として生を受けました。通称は三郎と名乗ります。生母は木曽義仲の愛妾であった巴御前ともされますが、定かではありません。

 

父・和田義盛は、一時期三浦氏の家督を相続した杉本義宗(義秀からすれば祖父)の長男でした。三浦氏の当主・三浦義明からすれば嫡孫という関係になります。

しかし祖父・義宗は若くして病没。次男であった三浦義澄家督を相続しています。

義盛は和田郷を本貫地として和田を名乗り、三浦党の重鎮として活動していくこととなります。

 

義盛と三浦氏との協調は、運命共同体とも言えるものでした。

治承41180)年、平家打倒を掲げて源頼朝が挙兵。義盛は三浦党と共に頼朝に味方して、戦っています。

鎌倉入り後、義盛は三浦党の一員でありながら侍所別当を拝命。御家人を統率する立場を与えられます。

 

建久101199)年に頼朝が病没すると、義盛は二代鎌倉殿・源頼家を支える13人の合議制の一員を拝命。より幕府政治に深く関与していきます。

 

義秀の父・和田義盛。侍所別当を務めるほどの御家人であった。



 

 

朝比奈義秀の名前に込められた謎とは?

 

朝比奈義秀の名前について見て見ましょう。

当時の武家の男子の元服1216歳が通例です。つまり文治31187)年前後には、三郎こと義秀は元服してことになります。

 

元服にあたり、武家の男子は諱を与えられていました。「義秀」の名前が誰から与えられたのか、見ていきましょう。

 

・朝比奈義秀が名乗っていた苗字です。本貫地に関連する苗字と考えられ、相模国鎌倉郡朝夷名(朝比奈)が元だと考えられます。

 

・義和田氏、三浦氏の通り字(一族の人間が受け継ぐ特定の文字)です。父・義盛も名乗っており、これを受け継いだと考えられます。

 

・秀当時、鎌倉の御家人では佐竹秀義がいました。秀義は佐竹氏の当主として、頼朝に抵抗を続けていたようです。おそらくは和田氏による懐柔も含めた関係構築で、烏帽子親となった可能性があります。

和田氏は坂東の様々な武家と関係を構築しているため、可能性としては十分にあり得ます。

元服時に与えられた烏帽子。成人及び男性の象徴としての意味もあった。



 

 

朝比奈義秀の剛力伝説

 

朝比奈義秀は、父・和田義盛にも劣らぬ武者振りで知られる人物でした。

正治21200)年9月、水練の達人とされた義秀は、将軍・頼家から技を見せるように命じられます。

義秀は海中に飛び込んで10回往復した上、三匹のサメを抱き抱えて浮かび上がりました(伝承です。あくまで)。

頼家は奥州の名馬を下賜しようとしますが、そこで兄・和田常盛が名馬を所望して相撲へと義秀と突入。引き分けたところで、常盛が馬に飛び乗って駆け去りました。

義秀をはじめ、和田氏にいる荒武者たちの姿を垣間見せるエピソードですね。

 

また、『曽我物語』などでも義秀の怪力を伝える話が知られています。

義秀は鎌倉七口の一つである峠道を開拓。わずか1日で切り開かれた峠道は、朝比奈切通と名付けられたと伝わります(ハンパないですね、義秀さん)。

義秀が切り開いたという朝比奈切り通し(Wikipediaより)。



 

 

北条義時、和田一族を挑発する

 

頼家の死後、源実朝3代鎌倉殿に就任。権勢を握ったのは、執権北条氏の一族でした。

それまでの政争の中で、梶原氏や比企氏などの有力御家人は次々と滅亡に追い込まれています。

 

当時の和田氏は侍所別当を務め、親族である三浦氏と並び幕府内部で大きな力を持っていました。

北条義時からすれば、北条氏を脅かす存在と認識。対する義秀や和田氏からすれば、専横的傾向の北条氏に不満を持っていたと考えられます。

 

建暦31213)年、信濃御家人という泉親衡北条義時暗殺を計画。そこには義秀の弟・義直と義重らも加担していました。

 

父・義盛の助命嘆願によって、義直らは赦免。しかし一族の胤長だけは許されずに陸奥国流罪となります。

しかも胤長の屋敷は義盛に与えられず、北条義時の預かりと決定。和田氏の内部に不満が立ち込めていきました。

 

二代執権・北条義時。和田一族を挙兵させるべく挑発した。



 

朝比奈義秀、和田合戦で活躍する

 

北条義時の挑発により、義盛は兵を挙げて北条氏を除くことを決定します。

同年52日、義盛は和田一族の兵150騎と共に挙兵。義秀の姿もそこにあったと考えられます。世にいう和田合戦の始まりです。

 

和田一族は将軍御所を襲撃。義秀は御家人らを次々と討ち取り「神の如き壮力」と称せられました。

義秀は敵方に従兄弟の高井重茂を討ち、北条朝時を負傷させます。さらに足利義氏を討死寸前まで追い込むなど、目覚ましい働きを見せました。

 

しかし和田勢は追い込まれ、由比ヶ浜に撤退。しかし翌3日、横山時兼3000騎の援軍を得ることが出来ました。

義秀はこの日も小物資政を討ち取り、北条氏率いる幕府軍相手に縦横無尽に駆け回ります。

ところが幕府軍は大軍であり、和田勢は徐々に追い込まれていきました。

同日、弟・和田義直らが討死。義盛も息子たちを失う悲しみの中で討ち取られたと伝わります。

 

朝比奈義秀は6艘の船に500の残兵を乗せて脱出安房国方面に逃れ、その後は判然としていません。

『和田系図』では高麗(朝鮮半島)へ逃れたとしています。一説には駿河国志太郡に土着し、子孫は駿河今川氏に支えたとも言われました。

 

確かなことは、朝比奈義秀は類まれなる武勇で活躍し、歴史の表舞台から忽然と姿を消したということだけです。

 

朝比奈義秀が活躍した和田合戦。義秀は落ち延びて朝比奈氏の血脈を残したとされる。

 

【和田胤長】泉親衡の乱に関与したために娘と悲運の別れ!和田合戦の契機とその真実とは?

和田胤長、御家人・和田義長の嫡男として生を受ける

 

寿永21183)年、和田胤長は和田義長の嫡男として生を受けました。平太という通称から、おそらく長男だったと推測されます。

 

父・義長は三浦党を一時率いた杉本義宗の息子でした。兄(胤長から見て伯父)には侍所別当を務めた和田義盛がいます。

 

義長は「鎮西(九州)で三浦義澄と行動中に死去」とされているため、平家との戦い前後に死去した可能性があります。

 

平家壇ノ浦の戦いで滅亡したのが、元暦21185)年です。戦死か病没かは判然としませんが、意図的に記録が削除された可能性があります。理由はおそらく北条氏との関係にあると想定されます(後述)。

胤長の叔父・和田義盛。侍所別当を務めるほどの御家人であった。



 

和田胤長の名前に込められた意味とは?

 

当時の武家の男子の元服は、数え年で1216歳でした。時期的には建久51194)年前後だと推測されます。

 

胤長の諱についても特別な意味がありました。以下、簡単にですが胤長の名前について見て見ましょう。

 

・胤千葉氏の通り字(一族の人間が受け継ぐ特定の文字)です。第一字に来ているため、家格が上の人物が烏帽子親として授けたと考えられます。おそらく烏帽子親は千葉常胤だったと考えられます。

 

・長胤長の父・義長の偏諱です。三浦党や和田氏の通り字は「義」ですが、胤長はいずれの嫡流でもないため、長の一字を継承したと考えられます。

 

 

当時の武家は、烏帽子親との付き合いにおいて実の親かそれ以上の関係を築いていました。

上総介広常の粛清後、千葉氏は房総平氏一族の惣領としての地位を確立。本領の下総国の守護を務め、上総国にも勢力が及んでいました。

胤長の背後には、いわば大勢力たる千葉氏の存在があったわけです。加えて祖父や父の出身である三浦や和田の存在もありました。

いずれは鎌倉幕府御家人として、順風満帆な人生を送ることが約束された存在だったのです。

元服時に与えられた烏帽子。男性の象徴でもあった。



 

和田胤長、泉親衡の乱に関わり捕縛される

 

胤長の運命が暗転したのは、執権北条氏の台頭によってでした。

当時の鎌倉幕府では、北条義時が実父の北条時政を追放。政治権力の中枢で権勢を誇っていました。

鎌倉殿である源実朝は、まだ若く十分に政治を動かすことができません。対立する御家人たちは、いずれも北条氏によって滅ぼされていました。

 

不満を持つ御家人たちは、やがて北条義時及び北条氏の排斥を望むようになっていきます。

建暦31213)年、信濃御家人とされる泉親衡北条義時暗殺を計画。計画には胤長や従兄弟の和田義直・義重兄弟(義盛の子)も関わっていました。

計画はすぐに露見し、関わった者たちは捕らえられます。義直兄弟は義盛の助命嘆願によって救われますが、胤長だけは解放されませんでした。

このとき、胤長は妻と6歳の愛娘・荒鶴と離れ離れになってしまいます。悲しんだ荒鶴は病を得てしまい、病状は日毎に重くなっていきました。

しかし胤長の身柄は解放されることはありません。そこで胤長に似ていたとされる和田一族の和田朝盛(和田義盛の孫)が荒鶴に胤長のふりをして面会。その心を慰めようとします。

やがて荒鶴は亡くなり、胤長の妻も27歳の若さで出家。胤長は単身で東北地方の陸奥国岩瀬郡流罪と決まりました。

二代執権・北条義時泉親衡の乱と彼の挑発が悲劇の発端となる。



 

 

和田胤長、流刑地で和田合戦の顛末を見守る

義時はすでに和田氏の滅亡を計画しており、胤長の解放拒否は挑発の意味合いもあったようです。

加えて胤長の近しいところには、千葉氏がいます。義時からすれば、いずれは千葉氏の排斥も念頭に置いていた可能性もあります。

 

胤長は罪人としての扱いを受けたまま。陸奥国岩瀬郡(現在の福島県鏡石町か天栄村)に流されました。

 

鎌倉にあった胤長の屋敷は没収。一時は伯父・和田義盛が拝領することとなりますが、北条義時の預かりと決します。

義盛は胤長らの扱いに激怒。北条義時を打倒すべく、兵を挙げる決心を固めました。世にいう和田合戦の始まりです。

 

和田合戦が鎌倉で起きている間、胤長は配流先の陸奥国岩瀬郡で逼塞していました。

流罪は死罪ではありませんから、刑期が明ければいずれ鎌倉に帰還できる可能性があります。しかし胤長に待ち受けていたのは、残酷な結末でした。

 

建暦31213)年53日、和田一族は執権北条氏や幕府軍相手に敗北。滅亡を遂げてしまいます。

完全に後ろ盾を失った胤長は、岩瀬郡罪人の身の上のまま処刑されてしまいました。わずか31歳という若さです。

胤長が配流となった陸奥国岩瀬郡Wikipediaより)。



【和田義直】侍所別当・和田義盛の四男にして、和田合戦に参加した御家人!

義直が参加した和田合戦。和田一族の華々しいは伝説となった。

和田義直、和田義盛の子として生を受ける

 

治承元(1177)年、和田義直和田義盛の四男として生を受けました。通称は四郎と名乗ります。

 

父・義盛は三浦党において、重要な位置にいた人物です。

義盛の父(義直の祖父にあたる)・杉本義宗は、三浦義明の長男として誕生。三浦氏の家督を相続していましたが、若くして亡くなっています。

その後は、義明の次男・三浦義澄が三浦氏の家督を相続。義盛は三浦党の一員として枢要な位置を占めていくこととなります。

 

特に義盛が華々しい活躍を見せたのは、源平合戦においてでした。

治承41180)年、伊豆国流罪となっていた源頼朝が挙兵。義盛はいち早く三浦一族と共に馳せ参じて、合力しています。

頼朝が鎌倉入りした後、義盛は侍所別当の地位に就任。御家人たちを統率する立場を与えられました。

 

義直の父・和田義盛。侍所別当を務めるほどの御家人であった。



 

 

和田義直の名前(諱)に込められた意味とは?

 

当時の武家の男子は、数え年12〜16歳(満年齢で11〜15歳)で元服するのが通例でした。その時点で幼名から通称(通常はこちらで呼ばれる)を名乗り、諱(忌み名)を与えられます。

和田義直は、おそらく文治4(1188)年前後に元服(推定ですが)。その時に諱を与えられたはずです。

 

・義これは三浦氏の通り字です。家督相続者やそれに準じるものたちとの認識があったことは間違いありません。

 

・直こちらは通り字ではなく、偏諱にあたります。同時代に直の一字を持つ武士は何人かいますが、おそらくは坂東武者の一人である熊谷直実だろうと推定されます。熊谷氏においては通り字ですが、烏帽子親となる際に偏諱として与えられのではないでしょうか。

 

また、義直は金窪四郎という通称でも呼ばれていました。

武蔵国児玉郡には、金窪という地名がありました。おそらく義直は同地を本貫地としており、苗字を金窪としたと考えられます。

 

元服時に与えられる烏帽子。烏帽子親は仮親として生涯密に付き合った。



 

和田義直、泉親衡の乱に関わり和田合戦に参加する

 

 

本来であれば、義直も和田氏や三浦氏に繋がる御家人として、幕府内部で枢要な地位に就任するはずでした。

しかし執権北条氏が台頭すると事態は一変。有力御家人たちは次々と退けられ、滅亡に追いやられていきます。

 

建暦31213)年、信濃御家人とされる泉親衡が執権・北条義時の暗殺を計画。義直は弟・義重や従兄弟である胤長と計画に加担してしまいます。

 

ところが計画は露見して破綻。義直は厳罰に処されるところを、父・義盛の助命嘆願によって義重と共に許されました。

しかし従兄弟の胤長だけは許されず、東北地方の陸奥国流罪が決定。義盛らは不満を持ち、兵を挙げました。世にいう和田合戦の始まりです。

和田一族は将軍御所を襲撃しますが敗北。由比ヶ浜に追い詰めらますが、横山時兼の援軍を得て勢いを盛り返します。

義直は伊具盛重に敗れて討死。義盛ら和田一族も残らず撃たれて滅亡を遂げました。

 

和田一族終焉の地となった由比ヶ浜Wikipediaより)。