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【藤原秀康】華麗なる一族の系図!承久の乱の京方総大将の人生に迫る

俵藤太こと藤原秀郷藤原秀康は秀郷の子孫と言われている。

藤原秀康系図から見る、華麗なる武官一族

藤原秀康の父方は、藤原北家か坂東武者か?

藤原秀康(ふじわらのひでやす)は、藤原秀宗の嫡男として生を受けました。生母は源(土岐)光基の娘です。

 

生年について詳しいことはわかっていません。しかし弟・藤原秀能(ふじわらのひでよし)は、元暦元(1184)年の生まれで同母弟とされています。

つまり早くとも秀康は、寿永21183)年には生まれていたことは確かなようです。

 

秀康の血脈と系図は、武家の名族である源氏平氏によって濃く彩られたものでした。

 

それではここで、日本の系図集である尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)を参考に秀康の一族を見ていきたいと思います。

 

秀康の一族は、大百足退治でも有名な藤原秀郷(俵藤太)を祖とする藤原北家秀郷流の家です(ムカデ退治については、絵本等を参考にしてください。すいません)。

 

父・藤原秀宗は、和田三郎平宗妙の子として誕生。藤原秀忠(秀康の祖父にあたる人物。実際は曽祖父)の外孫であったため、養子となって藤原姓を名乗ったとされています。

 

「和田三郎平宗妙って誰?」と思われますよね。このお方、実は鎌倉幕府初代侍所別当和田義盛さんの弟にあたる方なんです。

以下、軽めに分析してみましょうか。

 

  • 和田苗字。
  • 三郎通称。三男であったと思われる。義盛の通称は小太郎。
  • 和田氏(出身は相模の三浦氏)は坂東平氏の一族。公的な場所では「平〜」と名乗る。
  • 宗妙諱かあるいは僧籍に入ってからの名かと思われる。

 

尊卑分脈』は実際、いくつか間違いのある史料であるとも指摘されています。完全に信じることは難しいですが、正しいかどうか推測できます。

 

和田氏には、同じ三郎と名乗る「和田宗実」という人物がいました。宗実さんは和田合戦で北条方に味方して、和田方の朝比奈義秀に討たれています。

 

「あれ?宗妙さんと宗実さんて同一人物?」と思いますよね。実際にそう考えている研究者もいますが、違うとも言われています。

越後の和田一族の史料には、祖父の藤原秀忠らは登場しません。このことから繋がりがなかったかとも考えられています。

ただし、父・秀宗や弟の秀能と秀澄の名前から、坂東と繋がりがあったことは確かだと考えられています。

 

  • 秀宗秀(通り字)+宗(偏諱。烏帽子親は和田義盛の父・杉本義宗か?)
  • 秀能秀(通り字)+能(偏諱比企能員が烏帽子親か?)
  • 秀澄秀(通り字)+澄(偏諱三浦義澄が烏帽子親か?)

 

など、秀康の周辺には鎌倉殿の13人関係者が3も確認されています。和田氏との関係がない、というより、むしろ後世隠蔽されたという方が正しいのではないでしょうか(後述します)。

鎌倉幕府初代侍所別当和田義盛。秀康の大叔父にあたるとも言われる。

 

藤原秀康の母方は北面武士として朝廷に仕えた

一方、秀康の母方はどのような一族だったのでしょうか。源(土岐)光基(みなもとのみつもと)の一族についてみていきましょう。

 

よく聞く源氏と平氏ですが、そうでない武家と比べてどのような違いがあるかご存知ですか?

実は源氏も平氏も、天皇家の流れを汲んでいるですよ。

 

秀康の母方は、清和源氏頼光流の流れを汲む一族(美濃源氏)でした。美濃国土岐郡を本貫地として土着し、土岐の苗字を名乗ってもいます。

 

後の世ですが、土岐氏室町時代美濃国守護職を拝命。室町幕府内で四職(侍所所司を務める家柄)の一つにも数えられるほどに重用されました。さらに戦国時代には土岐氏の一族明智氏から明智光秀を輩出するなど、天下人に近い人間も生み出しています。

 

その土岐一族の嫡流たる立場が、秀康の母方の祖父・源(土岐)光基です。父・光信(秀康にすれば曽祖父)は白河法皇鳥羽法皇に仕えた北面武士(ほくめんのぶし:身辺警護役)でした。

 

光基は検非違使や左衛門尉として朝廷に出仕。その荒々しさは折り紙付きで、高陽院(鳥羽上皇の皇后)に仕える下級役人と乱闘事件を起こし、刀傷を負うほどでした。

 

保元元(1156)年7月、保元の乱が勃発。朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれての争いが始まりました。

光基の叔父・光保は後白河天皇方として鳥羽殿に参上。このことから、光基自身も後白河天皇方に従っていたと考えられます。

 

しかしそれで埋没する光基ではありません。程なくして、再び歴史の表舞台で名前を轟かせることとなります。

 

平治元(1159)年12月に平治の乱が勃発。後白河上皇院政派の藤原信頼が同派の信西を殺害した上、二条天皇の親政派と結ぶという事件が起きます。

河内源氏棟梁・源義朝(頼朝の父)は、藤原信頼の下に参集。信頼方の中心人物として活動していました。

 

光基は叔父・光保と共に当初は、信頼方として義朝の下に従軍。しかし途中で平清盛らに寝返り、三条殿襲撃に加わって功を立てています。

光基は戦後に後白河上皇の移送では護衛にも加わり、その罪を問われなかったことが見てとれます。

北面武士は、院(上皇法皇)の警護役。加えて直属の軍事力でもあった。

藤原秀康の名付け親の系図とは?

秀康の父方と母方が武家の名門である(可能性がある)ことを見てきました。では秀康自身の名前は、どのように決まったのか見ていきましょう。

 

  • 藤原にあたります。これとは別に本貫地や官職から苗字を名乗ることもありますが、姓と苗字は区別することが大事です。

 

  • 秀康にあたります。「秀」が父祖代々の通り字。「康」は烏帽子親などからもらった偏諱であると考えるのが妥当でしょう。

 

 

では秀康の烏帽子親は誰だったのでしょうか。記録が残されていないので、推測にはなりますが周辺の人物から考えてみたいと思います。

 

当時の男子は成人年齢(数え年で1115歳)になると、幼名を名乗るのをやめて通称と諱を名乗ることとなっていました。

 

例)鬼武者(幼名。元服前)源三郎頼朝(三郎は通称。頼朝が諱です)

 

烏帽子親というのは、いわゆる仮親です。実の親と並ぶほどの存在のため、誰でもなれるわけではありません。

身内の有力者や主君、家臣であれば信頼関係が強固で累代にわたって仕えた家ということになりましょうか。

 

さて、秀康の「康」の一字ですが、同時代に諱に使用した人間は複数おります。その中で近いだろうなぁ、と思う人物を挙げてみます。

 

 

 

康頼さんも知康さんも、ともに北面武士でした。秀康の母方とも面識や交流があっったことは想像に難くありません。

 

ただ、秀康の幼少期に知康さんは京から鎌倉に下っています。帰還したのは建仁31203)年以降なので、知康さんではないと思われます。

 

では康頼さんだとすると、どうでしょうか。

伝承によると、康頼さんは承久21220)年ごろに自分の生涯(75年間)を記録したと伝わります。

当時の年齢は数え年なので、康頼さんの生年は久安21146)年ごろとなります。

 

先述の通り、秀康の生年は1183年以前です。これを11801183年でシュミレーションしてみましょう。

元服が満年齢11歳だとして、儀式は11911194年です。このとき、康頼さんは4548歳ごろになりますね。

 

仮親は、烏帽子子(えぼしこ:この場合は秀康)の将来的な庇護や援助も約束された存在です。

年齢や立場から言っても丁度良いのではないでしょうか。

 

ということで結論は、藤原秀康の烏帽子親は平康頼である(可能性がある)ということを指摘しておきます。

元服時に被る烏帽子。加冠役(烏帽子親)は有力な人物が選ばれた。

藤原秀康承久の乱に至るまでの道筋〜出世街道

後鳥羽上皇から抜擢され、左兵衛少尉となる

藤原秀康は、藤原北家出身として順調に出世街道を歩んでいきます。

 

建久71196)年、朝廷内部で政変が勃発。関白・九条兼実らが罷免され、鎌倉幕府と近い公卿が追放されました。世に言う建久七年の政変です。

この政変の後、皇子(土御門天皇)に譲位した後鳥羽上皇院政を開始します。

 

治天の君である後鳥羽上皇は、人事改革に着手。ここで抜擢されたのが藤原秀康でした。

秀康はおよそ15歳ごろに内舎人天皇に近侍する役職。身辺警護役)に抜擢。正六位上に叙任されています。家柄や能力はもちろんですが、後鳥羽上皇から信頼されていたことが窺えます。

 

その後も秀康は武官としての道を歩んで行きました。

建久91198)年、秀康は左兵衛権少尉を拝命。左兵衛少尉が所属する衛門府は、天皇の居住する内裏の内側を警備する部署でした。

このときは権官(定員外の官職)ではありましたが、翌建久101199)年には正式に左兵衛少尉となっています。左兵衛少尉は定員が2名であり、秀康の能力や家柄が認められての任官でした。

秀康は先祖が北面武士西面武士として朝廷に仕えています。公家というよりも武家としての側面が強く、むしろ異質な存在であったことが予想されます。

後鳥羽上皇。秀康の抜擢と昇進に深く関わった。

国司としてのキャリアを形成する

秀康は武官職として官途を歩みながら、国司(地方官)としての経験も積んでいました。

元久元(1204)年ごろ、秀康は従五位下に叙任。貴族(五位以上)として殿上人(清涼殿に昇殿できる地位)にまで上り詰めます。

元久21205)年には下野守(現在の栃木県知事)に就任。国司としてのキャリアをスタートさせました(実際に赴任したかどうかは定かではありません。悪しからず)。

 

「1192作ろう鎌倉幕府」というお言葉を聞いた方もおられると思います(最近は1185年らしいです)。そうです。もう時代は鎌倉時代に入っており、坂東(関東)は鎌倉幕府の勢力下にありました。

下野国はかつて源義朝(頼朝の父)が国司を務めた国です。後鳥羽上皇があえて秀康を下野守にしたのには意味があったと考えるべきでしょう。

 

これは後の後鳥羽上皇や秀康の行動からの予想ですが

「いずれ鎌倉幕府は潰す。そのための下準備が必要だ」と考えていても不思議はありません。

そして後鳥羽上皇は、秀康を単純な武官として考えてはいません。むしろ地方に勢力を扶植して、自分の力となって欲しいと考えていたようです。

 

建永元(1206)年、秀康は河内守に転任。今度は朝廷の支配が及ぶ地域の国司です。

 

転任と言うと、場合によってネガティブに聞こえます。しかし秀康は確実に栄転していました。

 

赴任する国にはそれぞれランクがあり、上から大国上国中国下国(小国)となっています。

上であればあるほど、人口や経済力が潤沢。土地の面積も広く、豊かな国として位置づけられていました。

 

 

 

承元41210)年ごろ、秀康は上総国(現在の千葉県中央部)の次官・上総介(かずさのすけ)に就任。同地は坂東において要地中の要地でした。

後鳥羽上皇としては、鎌倉幕府の支配を揺るがせにする思惑があったことは想像に難くありません。

 

このとき、秀康は赴任して早々、上総国の役人によって「横暴」によって鎌倉幕府に訴えられたと伝わります。

しかし後鳥羽上皇の側近である秀康を罰することは容易ではありません。結局は処罰されることはありませんでした。

 

秀康としてはあえて諍いを起こし、幕府の反応を見た可能性もあります。だとすれば、武官だけでなく政治家としての能力も持ち合わせていたことになります。

上総介であった上総広常。坂東随一の勢力を持っていた。

栄達を極めた藤原秀康と不穏な鎌倉

秀康の栄達ぶりは、京の都でも話題となっていました。

建暦31213)年、秀康は洛中の諸寺修復事業に参加。多額の寄付金を納めたと伝わります。

名だたる国の国司を務めたことで、秀康の身入りも充実していたことは確かなようです。

 

同年には、京とは対照的に鎌倉では不穏な情勢となっていました。以下、少しだけ見てみましょう。

このとき、鎌倉では北条義時が政治的権力を掌握。反対する御家人たちを次々と粛清していました。

侍所別当和田義盛は北条氏に対して挙兵。和田一族が将軍御所に討ち入る事件に発展しています。世にいう和田合戦です。

 

大河ドラマで義盛が「上総介にして欲しい」と、源実朝に頼んだシーンがありましたね。あの前後は、秀康が上総介だったはずです。

仮に義盛が上総介に任官を求めれば、鎌倉方と京方との政治的諍いにも発展しかねません。

そういう裏事情もあったんだなぁ、という視点で見てみると面白いですね。

 

加えて同年には坂東で大規模な地震が発生。鎌倉でも建物が次々と崩落して地割れが起きたとの報告もあります。

御家人が粛清されそうになったり政治的情勢は不穏な気配を怯えていました。怖い怖い

和田合戦の様子。戦後、執権北条氏の専制体制が固まった。

盗賊退治と右馬権助任官

順調に昇進を重ねた秀康でしたが、少しずつ別な道を歩み始めていくこととなります。

 

建保31215)年ごろ、秀康は伊賀守に就任。翌建保41216)年には淡路守となりました。

 

伊賀国と淡路守は、共に下国(小国)です。上国や大国の国司を務めた秀康からすれば、左遷?と思うような人事でした。

「あれ?秀康さん、もしかして後鳥羽上皇に嫌われちゃった?」と思う方もいらっしゃるかと思います。実際は違うようです。

 

先述しましたが、坂東の鎌倉幕府北条義時らによって固められていました。対立する御家人はほとんどいません。

加えて坂東は鎌倉幕府の勢力圏です。北条氏を中心とする勢力が国司の独占傾向を強め始めており、かつて国司を務めた下野国上総国も、国司となるのには難しい状況だったのかも知れません。

実際にこの前後には、鎌倉の御家人・千葉常秀が上総介に就任。京方の付け入る隙は無かったようです。

 

 

しかし秀康は自分の状況を不遇だとは嘆いていませんでした。むしろ以前より職務に精励するようになります。

この頃、京の都では盗賊が出現。武官出身でもあった秀康は、弟・秀澄と共に盗賊たちを追捕します。

 

盗賊たちは一網打尽にされ、京の都には平穏が訪れました。めでたしめでたしで終わるわけがありません。

秀康は盗賊たちが奪った品々を確保。全て持ち主に返して、その清廉さを周囲に印象付けました(カッコイイです、秀康さん)。

 

程なくして秀康は馬寮(めりょう)の次官・右馬権助(うまのごんのすけ)を拝命(権官ですが立派です)。朝廷の軍馬の管理にあたる役職を与えられます。

馬寮は、かつては武家にとって憧れの官職でした。長官職である左馬頭(さまのかみ)や右馬頭(うまのかみ)には、源氏や平氏から名だたる武士たちが就任しています。

しかも近衛大将(このえのたいしょう:左と右がある)との兼務が通常で、従三位相当の役職となっていました。

 

秀康はこの瞬間、実質的に公卿(官位が従三位以上)と認定されたことになります。加えて国政に対して意見を言える立場となっていたのです。

公卿は国政において強い発言力を有していた。

藤原秀康承久の乱で京方総大将に抜擢される

藤原秀康源頼茂粛清に動く

大河ドラマ鎌倉殿の13』を見ていて、次々と人が死んでいきますよね。あれは鎌倉方だけではなく、京方でも行われていました。

その粛清の実行役となったのが、他ならぬ藤原秀康だったのです。

 

まずはその前に鎌倉の情勢から見ていきましょうか。

建保71219)年127日、鎌倉殿・源実朝は右大臣就任を祝う拝賀式のために鶴岡八幡宮に参拝。儀式を終えて帰途に着いた瞬間、事件は起こりました。

実朝の甥・公暁(こうぎょう)が実朝一行を襲撃。実朝は太刀持の源仲章と共に暗殺されてしまいました。

公暁は先代鎌倉殿・源頼家の息子です。襲撃の際、公暁は「親の仇はかく討つぞ!」と叫んでいたと記録には残ります。

実際は実朝と北条義時(本来は太刀持を務めるはずだった)を襲撃するはずだったと言われてきました。

事件の背後には、実朝を排除しようとした御家人たちの動きがあったとも言われています。

公暁も程なくして御家人三浦義村によって殺害。この時点で源氏将軍の家系は途絶えてしまいました。

 

しかし鎌倉方も何も手を打っていなかった訳ではありません。

事件より先、実朝の生母・北条政子らは上洛。実朝に後鳥羽上皇の皇子(頼仁親王)を養子に迎える約束を取り付けています。

 

源氏将軍が途絶えたことで、本来であれば頼仁親王が鎌倉に赴くこととなっていました。ところが後鳥羽上皇は難色を示し始めます。

それどころか後鳥羽上皇は鎌倉方に対して挑発的な行動を開始。少しずつ京方と鎌倉方の対立は激化していくのです。

 

やがて将来の鎌倉殿が九条家の血を引く三寅(みとら:後の九条頼経)に決定。しかし不満も渦巻いていました。

 

承久元(1219)年7月、鎌倉方の大内裏守護源頼茂(みなもとのよりもち)が京方と武力衝突。秀康は兵を率いて鎮圧に出動しています。

追い詰められた頼茂は、内裏に放火した上で自害。火事によって仁寿殿などの広い範囲が消失してしまいました。

愚管抄』などでは頼茂が将軍職に就任するべく決起したと説明。しかし本当かどうかはわかっていません。

頼茂は三寅の鎌倉殿就任に関しての政争に巻き込まれ、謀反人として粛清されたとも考えられています。

三代鎌倉殿・源実朝。彼の死によって、再び争乱の幕が開くこととなる…

京都守護・三浦胤義を京方に調略する

鎌倉方との対立が激しくなると同時に、秀康は京方の中心人物として活動していきます。

 

このとき、京には御家人三浦胤義京都守護として赴任していました。

胤義の父・三浦義澄は源頼朝死後に宿老に抜擢。胤義の兄である三浦義村も宿老を務め、北条義時とは従兄弟の関係にありました。

いわば胤義は「バチバチの鎌倉方の人物」ということになりますね。しかし秀康は胤義に接近します。

 

胤義は鎌倉方の要人でありながら、執権北条氏の専横に対して快く思っていませんでした。

胤義の妻は、かつて二代鎌倉殿・源頼家の側室でもあった人物です。しかし北条氏によって頼家は殺害され、間に生まれた子供も殺されています。

悲嘆に暮れる妻を見ていて、胤義は北条氏に対する憎しみを募らせていったようです。

 

武官である秀康ですが、人を見抜く力を調略する手法は心得ていました。北条氏と鎌倉方を倒すべく話し、三浦胤義を京方の協力者とすることに成功します。

そして遂に京方による武力蜂起が本格していくのです。

 

承久31221)年5月、後鳥羽上皇北条義時追討の院宣上皇法皇による命令文書)を発出。しかし京都守護・伊賀光季北条義時の義兄)は従いませんでした。

京方の兵は高辻京極にある伊賀光季の宿所を襲撃。自害に追い込むことに成功します。

秀康は三寅の外祖父・西園寺公経を捕縛。身柄を拘束するに及びます。

 

さらに挙兵に際して、秀康は配下・押松丸を鎌倉に派遣。鎌倉の御家人たちを離反させるため、北条義時追討の院宣を持たせていました。

二代執権・北条義時。将軍を凌ぐほどの絶大な権勢を誇った。

京方の総大将・藤原秀康美濃国に出陣する

秀康の従者・押松丸は、やがて京の都に帰還し、思いがけない知らせをもたらします。

鎌倉方が軍勢を動かして、京へ攻め上ろうとしているというのです。

院宣がもたらされた鎌倉では、北条政子御家人らに演説を展開。頼朝の恩顧を強調し、秀康らを討つべきだと主張します。

このとき、鎌倉方では秀康を三浦胤義と並んで京方の中心人物だと認識していました。

 

このとき、後鳥羽上皇流鏑馬揃えと称して西日本から軍勢を招集。京方にはおよそ2万ほどの軍勢が集まっていました。

対する鎌倉方は、進発時にはわずか18騎。しかし道々で軍勢は膨れ上がり、鎌倉方は総勢で19万騎にまで増えていました(戦力差、すげえ…)。

 

当然、京方はこの情勢に狼狽したと思われます。

後鳥羽上皇は秀康を総大将(大将軍)に任命鎌倉幕府の軍勢を迎撃すべく、出撃するように命じました。

秀康は弟・秀澄らと17500騎を率いて美濃国に進軍尾張国の国境にある尾張川沿いに布陣していました。

秀康の母方が美濃国土岐氏であるため、土地勘があった可能性は十分にあります。加えて美濃国は東西交通の要衝であり、戦いの最前線となる土地でした。

 

歴史ある武家の流れを汲む秀康です。武官や国司として順調にキャリアも積んできています。しかし秀康は味方や敵が想像しない失態を犯していました。

あろうことか兵力で劣る京方の軍勢を、分散させて布陣させるという失敗をしてしまいます。

 

承久31221)年65日、京方と鎌倉方は衝突。京方の高桑大将軍が討ち取られるという結果を招きます。

秀康は胤義らと共に撤退を決意。承久の乱が鎌倉方の大勝という流れを決定づけてしまいました。

承久の乱関係図。出典:ウィキペディア(著者:味っこ)

承久の乱終結と戦後処理

京に退いた後も、秀康は巻き返しを諦めてはいませんでした。

すでに京方の兵力は2400騎まで減少。後鳥羽上皇の周囲にはそのうち1000騎が配置され、前線にはわずか1400騎しかいません。

 

秀康と三浦胤義は宇治・瀬田に軍勢を展開宇治川の防衛ラインを死守すべく、迎撃体制を整えていました。

 

613日、京方は鎌倉方と再び衝突。秀康らは宇治川にかかる橋を落とし、弓矢で防ぐ策を採用します。

しかし翌日、鎌倉方の佐々木信綱が渡河に成功。鎌倉方によって宇治川の防衛ラインが突破され、兵力に劣る京方は総崩れとなってしまいます。

 

秀康と三浦胤義は京に敗走。院御所(いんのごしょ:上皇の御所)に立て籠ろうとします。しかし院御所の門は固く閉ざされていました。

それどころか、後鳥羽上皇は鎌倉方に使者を派遣。「謀臣たちが勝手にやった」ことだと切り捨てました。そして秀康らの追討を命じる院宣が下されました。

 

完全に見捨てられた秀康らは、洛中の東寺に立て篭もります。

やがて鎌倉方の三浦義村の軍勢が東寺を包囲。三浦胤義は兄である義村に一騎討ちを所望しますが、応じることはありませんでした。

 

胤義が東寺で自害して果てると、秀康らは敗走。しかし共にいた味方は次々と殺害され、あるいは自害していきました。

 

秀康は一時は弟・秀澄と共に南都(奈良)に逃亡。やがて旧領である河内国に潜伏しますが、鎌倉方に捕らえられてしまいました。

 

承久31221)年1014日、秀康は秀澄らと共に京で斬首。かつて栄華を極めた藤原北家秀郷流の貴公子は、謀反人としての汚名を着ることになってしまいました。

 

非常に有能であった藤原秀康でしたが、時代や環境が違えば、違う形で歴史に名を残していたはずです。

しかし国司や盗賊退治といった功績は、歴史の中に残されています。秀康がこの国をよくしようとしたことは、紛れもない事実なのです。

秀康が戦った瀬田の唐橋。出典:ウィキペディア(著者:Bakkai)



 

参考サイト

 

  • 承久の乱で鎌倉方(幕府)はなぜ勝てたのか」玉川学園HP

http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/joukyu/index.html

 

https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E5%BA%B7-124683

 

 

  • 樽瀬川「戦経験ゼロで総大将にされちゃった藤原秀康!超エリートのしくじりから学ぶこととは」和楽HP

https://intojapanwaraku.com/culture/100245/

 

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2097

 

https://www.city.ichinomiya.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/052/356/miyamae.pdf

 

https://www.city.ichinomiya.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/052/356/miyamae.pdf